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■迷子と迷子1


そこは天気の良い森の中だった。鳥の声は楽しげに、木々はそよそよと
葉っぱを揺らしている。
その森の木の下に、私はぼんやりと立っていた。しかしのどかな森なのに、
私の格好はのどかではない。服は汚れ、足は痛い。全身が筋肉痛。
疲れて動けない。
ひたすらに水が飲みたい。
「……これから、どうしたものですか」
ここは深い森の中。
私は道に迷っている。
というか遭難している。


ここに至る経緯は、面白くないし、思い出したくもないので割愛。
とにかく気がつくと道に迷って森の奥まで入り込み、そのうち疲れてしまったのだ。
「まあ今は昼間だし、視界の開けた場所を探せば――」
最後まで言い終える前に、空が明滅。
「ん?」
パッと。
数秒もせず、空が夜空になった。
「……は?」
繰り返すが、数秒で晴れた空が夜空になった。
疲労の余り数時間、意識が飛んだのかと思ったけど、多分違う。
しかし、それに呆然としている暇もない。
すぐ近くの茂みがガサッと動いたのだ。
――っ!?
捜索隊の人かと顔が輝いたのは一瞬。
「…………」
見上げるくらいに大きな熊が出てきました。

…………

木の枝にもたれ、夜空を見上げる。星空がきれいだ。
しかしこれが今生の見納めになるかもしれないと思うともの悲しい。
「困りましたねえ」
熊はまだ木の下にいて、私の様子をうかがっている。
何とか木に這い上がったけど、逆に熊に追い詰められた格好だ。
最後の力で枝を折って熊に投げつけてもみた。
枝が落ちる音はなかなか大きかった。それだけ。
熊には当たらず、熊は木から離れる気配がない。
これは『詰んだ』というやつだ。
「困った困った」
木の幹にもたれ、目を閉じる。
呑気に呟いたけど、内心では恐怖でおかしくなりそうだ。
でも携帯もどこかに落とし、捜索隊のヘリの音も聞こえない。
――このままだと、ほどなくして私は……。
私は、遺される人たちのことを思った。
――……絶対に誰も心配しないですね。逆に喜んでるだろうなあ。
だいたい捜索願いが出されているかも、怪しいものだ。
渋々出したとして何ヶ月後?家出で片づけられて終わりだろうか。
私は誰にも思い出されることなく、ゆっくりと社会から存在を抹消される。
……何だかさらに詰んだ感。そして現実逃避に空を見る。
熊のことで忘れていたけど、一瞬で昼が夜になるとか、ここは本当に
地球なんだろうか。
――はあ……まあどうでもいいですか。
疲労が増して、思考があいまいになっていく。
下では熊のうなり声とかガサガサやる音とか、威嚇の声とか騒がしい。
人の声が聞こえた気もしたけど。
でも私は疲労と空腹で全身の力が抜け――。

――あ……。

気がつくと空中。身体が枝から滑り落ちていた。
慌てて木の幹をつかもうとしたけど手は空を切った。

――あ……あーあ。

ガンっと全身に衝撃。目から火花が出るかと思った。
――い、いたたた!
腰の骨とか大事なとこは折れていないみたい。だけど、もう動けない。
大きな気配を、間近に感じる。
――ゲームオーバーですか。さようなら……。
私は目を閉じた。

「君、大丈夫?」

金属がガチャッと鳴る音と衣ずれの音。
誰かが剣を鞘に収め、しゃがみこんだような。
――……ん?
恐る恐る、目を開ける。
夜目に、熊が慌てて逃げる姿が見えた。そして。
「びっくりしたなあ。枝が落ちる音が聞こえて、来てみたんだ。
そしたら熊君が、木の上の動物をいじめているだろ。
リス君か猫君と思ったら、可愛い女の子が降ってくるんだからさ」
私が枝を折ったのは無駄じゃなかったらしい。
――……。
目の前にいるのは男性だ。優しそうな笑顔。危険な人ではなさそうだ。
――助かった……?
全身の力が一気に抜ける。
「あ、君!ちょっと!!」
男性の慌てたような声。
「う……うう……」
安心で、私はポロポロと泣き出してしまった。

…………

…………

美味しい美味しい。リンゴがこんなに美味しいなんて思わなかった。
水分と甘味が補給され、全身が喜んでいる。
「そんなに急いで食べなくていいぜ。シチューだってあるんだし」
そして今、目の前でシチューの鍋がグツグツと煮えている。
「よし、出来た。たくさん食べてくれよ」
「はい、本当にありがとうございます、エースさん」
命の恩人に微笑みかける。
「エースでいいよ。えーと……リンだったっけ?」
「はい。エース」
笑顔でうなずき、シチュー皿を受け取る。スプーンですくい、
ふうふうと息を吹きかけ、口に運ぶ。じわっと広がるとろみと肉の歯ごたえ。
「……美味しいっ!」
「そう、良かった。遠慮しないで食べてくれよ。あはは!」
爽やかな笑顔のエース。こんないい人に出会えて本当に良かった。
「でも……ここが異世界なんてまだ信じられないです」
夕方の空を見上げ、言う。
ちなみにさっきの夜空から一時間くらいしか経っていないはず。
いや、エースの説明によれば、ここは『時間』そのものが狂ってる世界らしい。
にわかには信じられないけど、現実に、数秒で昼が夜に、夜が夕にと
コロコロ変わるのを見た後では、納得せざるを得ない。
「本当、本当。ここはクローバーの国って言うんだ」
クローバーの国。何ともメルヘンな響きだ。
そして目の前のエースも、お城に勤める『ハートの騎士』という大変に
ファンタジーな肩書きだそうだ。

「ユリウスに聞いたことはあるけど、君みたいな子は『余所者』って
言うんだってさ。たまに迷い込んでくるみたいなんだ」
ユリウス、というのはエースのご友人らしい。
当たり前だけど、森の外には街があって人がいるという事実にホッとする。
「やっぱり旅はいいよな。余所者を一番に発見出来るんだから」
余所者という排他的な響きはともかく、エースは心から嬉しそうだ。
「エース。その『余所者』っていう人たちはどうやって元の世界に
帰ってるんですか?」
ろくな記憶がない故郷だけど、帰るか帰らないかと言われれば帰りたい。
「さあ……余所者はいつの間にか来て、いつの間にかいなくなってる
ものだってユリウスは言っていたけど」
そして何か思い出したように、ポンと手を打つ。
「あ、でもあそこからなら帰れるかも!」
「『あそこ』?」
「うん。この森の中に、ドアだらけの場所があってさ。
そこからならリンの世界に帰れると思うぜ。何なら今から行ってみる?」
理屈は不明だけど、どうやら帰れる場所があるみたいだ。
「はい!!」
立ち上がろうとした。そんな私をエースは制する。
「あ。でもちょっと待った。いつまた夜に変わるか分からないし、君は疲れている
だろう?俺が場所を確認してくるから、君はシチューを食べて休んでいて」
「分かりました……本当にありがとう、エース!」
「お礼は帰るときでいいよ。それじゃリン、すぐ戻るから!」
行動が早いのか、エースは手を振ってさっさと行ってしまう。
私も手を振って、またシチューに戻る。
――エース、か。何て良い人なんだろう!
騎士の称号にふさわしい、素敵で親切な人だ。
怖い目にあったけど、あんな良い人と、もうすぐお別れなのだけは辛いなあ。
私はしんみりとシチューを食べながらエースを待った。

待った。


待った。


「…………」


エースはついに戻って来なかった。

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