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■誘惑と再会

 目が覚めると、目の前に端正な顔があった。鋭い面立ちなのに、
首筋のトカゲのタトゥー。
 寝ているときは、何だか子供みたいで可愛い。
 そういう私は、そんな彼に大事そうに抱きしめられている。
 私は少し笑って彼に手を伸ばし――。

 ……いや、違うでしょう。何もかもが。

 私が起きあがると、彼も目を覚ましたようだ。
 寝起きの髪をかき上げ、小さくあくびをし、私と目が合うと、優しく笑う。
 誤解無きように。一晩、健全に何もなく寝ましたとも。
「すっかり寝込んでしまったようだな。だらしなくてすまない」
「ええ……」

 昨日(?)の昼間、私はグレイと出かけた。
 そして運悪くエースと鉢合わせ。
 その後、グレイとエースが何か話し合ったらしい。もしくは喧嘩をしたのか。
 とにかくグレイにエースとのことを聞かれ、恋人関係については否定した。
 問題は、今後、私の身の安全をどう確保するかということだった。
 そしてグレイの部屋に滞在することが決定した。

 ……あれ?

 何かおかしくないですか?
 段階をいくつもすっ飛ばしておりませんか?

 おかしいでしょう、明らかに。でも代替案を示せと言われ、
口ごもった私はグレイの部屋に連行……もとい案内してもらった。
 グレイはご自分が宣言した通り、紳士的だった。
 私がシャワーを浴びているときは礼儀正しく部屋の外に出て、変なことは
何一つ起こらなかった。
 ただ、寝る前にベッドでカードゲームを始め……二人して熱中し、
気がつくと完全に寝てしまった。
 もちろん間違いは何一つ起こらなかった。

「グレイ。昨晩は泊めて下さってありがとうございました。
 でもご迷惑をおかけして申し訳なさすぎですので、やはり今夜からは別の――」
「迷惑ではないよ。部屋がにぎやかなのは本当に良いな。
 良かったら、今夜もカードゲームにつきあってくれ」
「あ、はい。喜んで」
「ありがとう。では朝食を作ってくるよ」
 グレイは乱れたシャツを整え、部屋付きのキッチンに向かう。
 ……いやいや。何で普通に『はい、喜んで』。居酒屋店員か私は。
 私は慌ててベッドを下り、グレイの後をついていく。
「あのですね。グレイ。やはりこれは色々問題があるのでして」
「そうだな。問題があるのなら、二人で話し合って、解決していこう」
 グレイは頼もしい笑顔で言ってくれたので、ホッとした。

 ……その後、私がグレイの朝食を食べて昏倒したため、話し合いは
お流れとなったのだった。

 …………

 会合直前になり、執務室の忙しさはこれまでの比ではなかった。
 さすがのグレイも、私を執務室に残し、各所の調整に駆け回っている。
 で、
「……そんな目で見ないでくれ。思考で訴えまくるのも止めてくれ」
 執務机にて、真っ青な顔で書類決裁の印を押し続けるナイトメア。
「グレイが過保護すぎると想うのですが」
 するとナイトメアは目を宙に泳がせ、
「まあ、奴は君みたいに頼りない、弱くて小さな生き物を放っておけないところがあるんだ」
 何か失礼な!
 ……待てよ。ああ、だからグレイはナイトメアの世話を好んで焼いてるんだ。
 腑に落ちるわたくしに、
「気色の悪い想像をするな! あいつが私に仕えているのは私のカリスマに
惚れ込んでのことで――!」
 私はナイトメアの抗議を流しつつ考える。
 現状はよろしくない。ただでさえ忙しいグレイに迷惑の上乗せとか。
 私は立ち上がり、キリッと、
「ナイトメア。私、エースと話し合って――」
「止めておけ。泥沼まっしぐらだ」
 即答!

「逃げてばかりじゃ、どうにもならないでしょう?」
 するとナイトメアはフッと笑う。
 どことなくミステリアスな笑みだった。
「それが、どうにかなるんだ。ここではね」
「……???」
「具体的に言えば、この世界は不変なわけではない」
「そうなので?」
「放っておけば引っ越しが起こるからな」
「……?」
 お引っ越し? この大きな塔が?
 まあ引っ越しすれば確かにエースとは嫌でも離れると思うけど、
前フリの割にオーバーな言い方だなあ。

 ――エースと、離ればなれになる……。
 
 脳裏にエースの笑顔が浮かんだ。二人ではぐれないよう手をつなぎ、野山を歩いた。
 花畑を見つけ、二人で寝ころんで、いろんな話をした。
 熊に襲われたとき、剣を抜いて私を守ってくれた。

「リン。迷うことそのものに惹かれるのは、危険な兆候だ。
 騎士なら騎士、グレイならグレイで決めた方がいい」
「!!」
 全身を刃でえぐられたような感覚が走る。
 ナイトメアを見るが、彼は一瞬の間に夢の空間に逃げ込み、もうどこにもいなかった。

 同時にバタバタと足音がし、執務室に誰かが駆け込んできた。
「――ナイトメア様! くそ。一瞬遅かったか……!」
 グレイだ。
 私の横まで歩いてきて、グレイが悔しそうに息をつく。
 そして私に苦笑してみせた。
 私はほほえみ返すが、頭はエースのことでいっぱいだった。
 その後、私は先に仕事が終了し、部下の人の案内でグレイの部屋に帰された。
 ……もう塔公認か。
 
 …………
 
 グレイのベッドで、どれくらい眠っただろう。
 暗闇の中、私は彼が帰ってきた足音で目を覚ます。
「リン。寝ているのか?」
 私はベッドで半分目が覚め半分寝ている状態。
 彼に『おかえりなさい』ということも出来ない。
「リン?」
 肩に手をかけられ、私は夢うつつのまま、『ん〜』とグレイの手をはらう。
 するとグレイが小さく笑う声。
 そのまま半覚醒の私の背後で、グレイがコートを脱ぎ、ネクタイを外す音がする。
 私はベッドを占領し、ぐーすか。
 眠い。このまま眠りの世界へ戻りたい。
 でも半分起きている意識が、グレイの様子をチェックしている。
 やはり自分の部屋に他人がデーンと居座るのは、迷惑ではないだろうか。
 グレイがそんな素振りをしないだろうかと、私は半覚醒のまま、ベッドに横になっていた。
 グレイが窓を開ける音。窓辺で煙草を吸う気配。やけに大きな靴音。
 服を脱ぐ衣擦れの音。上着を椅子にかけ、扉を開け、シャワールームに入っていく。
 そして私は夢うつつに安堵し、眠りに入った。
 ……つもりだったけど、一度起きたためか、簡単には眠れない。
 半覚醒の私は夢とうつつを行き来していた。
 部屋ではグレイがいつの間にかシャワールームを出て、机でまだ書類作業をしていた。
 明かりをつければいいのに、私がいる配慮からか、デスクのライトが
ぼんやり光る程度。
 そして合間に、いちいち窓辺まで行き、煙草を吸っている。
 
 そして残業を全て終えたのか、グレイがデスクの明かりを消した。
 立ち上がり、ソファの方へ――え?

 グレイがこっちに近づいてくる。
 私のいるベッドの方へ。

 何で。え? 起きていることに気づかれていた? 私は内心焦る。
 すでに半覚醒状態はとうに脱している。
 しかし寝たふりをして様子見してました、とか性格を疑われかねない。
 とか内心慌てているうちにベッドのスプリングがギシッと鳴る。
 隣に誰かが――グレイが座る気配。
 私はただ寝たふりに徹する。
「…………」
 見下ろす視線を感じる。大きな手が頬を撫でる。
 危うくビクっと体を動かすところだった。危ない危ない。
 グレイの手は私の額や髪を何度も撫でる。
 心拍数が跳ね上がる。体温が上昇する。
 落ち着け落ち着け。私は寝ている、熟睡している。
 グレイもすぐ離れるから。
 離れ――。
 小さくスプリングが鳴る。
 すぐ横に大きな気配。息づかいを感じるほど近くに。
「リン……寝ているのか?」
 狸寝入りはバレてない。バレてない……はず。
「……リン」
 耳元にささやかれ、抱きしめられる。
 そのまま抱き寄せられた。

 首元に息づかい。
 グレイの足が私の足に絡まる。
 もうスキンシップの限度を超えている。 
 私は寝たフリを……寝たフリを……。
「っ!!」
 手が私の背をつたう。それもどこか意味ありげな触り方で。
 これはもうコミュニケーションの域を超えている。部屋を出る理由としても十分だ。
 なのに、私は凍り付いたように動けない。
 もし私が目を開け、堂々と抗議をしたら、事態は全く別の方向に行く。
 そんな気がした。
「ん……っ……」
 喉の奥から出た声。聞こえていない。
 絶対に聞こえていないはず!
 上着の裾から手が忍び込み、素肌を撫でる。
 跳ね上がるばかりの心拍数と体温。
 バレていないだろうか。本当にバレていないだろうか。
 けど、触られた部分が熱を持つ。
 やがて私の背を撫でる手が、ある場所に行き当たる、下着の、ホックが……。
 指がしばし迷うようにそのあたりを探った。
「リン……」
 声がすぐそばから聞こえる。
 唇が間近に。今にも、重なりそうで……。

 ――エース。

「いや……」

 小さく。自分にも聞こえないほど小さく声が漏れた。でも一瞬で手が離れた。
 慌てたように気配がベッドから遠ざかる。

「――すまない」

 小さく声が聞こえた。
 深く落ち込んだような感じだった。
 もしかしてグレイ自身も『つい』やってしまったんだろうか。
 疲労困憊して、身近な女に手を?
 でも私自身はあまりショックは受けていない。
 ただただ安堵し、目を閉じる。
 眠りは迅速に訪れた。


 翌朝、目を覚ました私は七転八倒しそうになった。
 ――ああああああっ!!
 昨夜の『夢』のせいだ。
 とんでもない夢を見た。
 現実? そんなわけがない。グレイは大人の人なんだし。
 しかし、欲求不満にしろ、よりにもよってグレイに襲われかけた夢なんて……!
 顔が赤面し、穴があったら入りたい。
「リン」
 声がする。振り向くと、グレイはココアを入れてくれていた。
 あまり眠れていないのだろうか。
 少し疲れた顔だった。
「……おはよう」
 どこか硬い、グレイらしからぬ声だ。
 うう。私が不審な態度を取るから、心配されているに違いない。
「おはようございます、グレイ」
 私は、努めていつも通りニコニコ笑う。
 それでグレイもホッとしたみたいだった。
 うん。ありえない。あれは夢だ。悪い夢だ。
「いよいよ『会合』だな」
「緊張しますね」
 まあ私が緊張する理由はないんだけど。

 ……いや、ある。『彼』が来る。

 表情が硬くなってしまっただろうか。肩を叩かれた。
「グレイ」
「大丈夫だ、リン。ナイトメア様が議長としてしっかり仕切ってくださる。
 君は席の方から信じて見ていてほしい」
「はい!」

 …………
 
 …………

 参加者で満員となったクローバーの塔の会議場。
 中心の演壇に立つ男は会合の始まりを宣言する。

「あー、そ、そ、そ、それでは、そ、その、か、かかか会合を、は、は……」

 信じられねえ。

 議長なのに。クローバーの塔の領主なのに。
 隣の席のグレイが傍目にもわかるくらい必死だ。
 上司にカンペを見てもらおうと四苦八苦していた。
 だがナイトメアはプライドか、緊張のあまり気づかないのか、たどたどしく話し続ける。
 他領土の連中は失笑をもらしているし、中には雑談を始める者までいた。
 しかし、それを咎められる者はいない。
 それっくらいにヒドい演説だった。
 でも私はナイトメアの無惨な演説以上に、気になることがあった。

 エースがいない。
 
 彼が所属するというハートの城の席。
 そこにあの赤い騎士の姿はない。
 席が一つだけ、ポツンと空いていたのだ。
 
 安堵するべきだろうに、心に重い石が落っこちた気分だった。
 いや、落ち着け私、落ち着け、落ち着け。何で落ち込むんだ。
 いるならともかく、いないのだから良いじゃないか。
 ああ、自意識過剰だなあ、会場の皆さんが私に注目いている気がしてきた。
 一方ナイトメアにかかりきりだったグレイは私を見――ヒソヒソ声でこちらに、
「リン。今は会合だから掃除をしなくていい」
「ハッ!」
 気がつくと私は、自分の机を念入りにワックス掛けしていた……。

 ………………
 
 どうにかこうにか、会合が終わり、私は席でぐったりする。
「疲れました……」
「ああ、疲れたな」
 隣ではグレイが沈痛な顔。グレイだけではなく他の職員さんも同様の表情だ。
 あれだけ準備してこの結果。気持ちはよくわかる。
 ちなみに当のナイトメアは帽子屋領のウサギさんと歓談の最中だ。

「リンー!!」
 そして私を呼ぶ声。ドキッとして振り向くと、
「リン!! 久しぶり!」
 天真爛漫な笑顔のピアスだった。
 森で会ったときと違い、ちゃんとスーツを着ていた。
 ……耳と尻尾のせいでメルヘンな印象しかないけど。
「ネズミと知り合いだったのか?」
 グレイがちょっと嫌そうな顔をした。
「そうですよ。お久しぶりですね、ピアス」
「ちゅうちゅう!」
 ピアスの耳を撫でていると、彼の後ろから、
「君が余所者さん? 俺はボリス=エレイ。森に住んでるチェシャ猫だよ」
 大変に……遊び人っぽい格好の猫さんが手を出してきた。
「あ。リンと申します。初めまして」
 手を握りかえし、微笑む、
 うああ! ピンクのもふもふが!!
「あ、あの。肉球はお持ちですか!?」
「え。ないけど……何でそんな絶望的な顔になるの?」
「ちゅう! リン、ちゅうしよう!」
「お嬢さん。見事なワックス掛けだったな。
 そこまで好きなら我が屋敷に来るか?
 好きなだけ掃除をさせてあげられるが」
 ブラッドさんである。
「そうだよ、そうしなよ、お姉さん!」
「僕たちがお姉さんのために屋敷を汚すから、お姉さんが掃除してよ」
「え!? 誰ですか、あなたたち!」
 黒スーツの長身の双子に抱きつかれそうになり、慌てて逃げる。
 私の周囲は何だかワイワイにぎやかになってきた。
 しかも会合中にワックス掛けという第一印象がアレだったせいか、
こちらを見ながらヒソヒソやっている人たちも多い。
「ほう、あれが噂の娘か。城のメイドに雇いたいものだな」
「いけません、陛下。あんな余所者の雑菌を城に置くなど!」
 なんと一人は白ウサギである。しかし、声をかけづらい雰囲気の人だ。
 エースの居所を聞いたものかと迷う。
「お姉さん! 話を聞いてるの?」
「あ、はい、すみません!」
「疲れてるみたいだね。ねえ、お近づきの印に森に遊びに来ない?
 お魚さんをごちそうするよ!」
「ちゅう! 俺の家に遊びにおいでよ!」
 余所者というのはモテるらしいと誰かに聞いたけど、本当みたいだ。
 けどこうも囲まれると対処に困ってしまう。そこにグレイが、
「皆どいてくれ。リン。行こう」
「あ。はい! 皆さん、すみません」
 手招きされたので、慌てて人ゴミを抜け、グレイについていった。

 そのとき、『エース』という言葉を耳にした気がした。

 振り向くとハートの城の人たちの会話が聞こえた。
 遠くなのでよく聞こえないけど、
「エース君はまた迷子ですか。彼ときたら、最近は特にひどい」
「―――が不在だからであろう。放っておけ」

『―――が不在』

 その言葉は私の中でやけに大きく響いた。
 呪わしいことに、雑音が大きすぎて聞き取れなかった。
 でも私のことじゃないのだけは確実だ。
 一瞬だけ、駆け寄って誰のことか聞きたい衝動にかられた。
 でもそれはかなわず、私はグレイに手を引かれ、会議場から出て行った。 

 私はグレイと二人で塔の廊下を歩いていた。そしてグレイが、
「騎士がいなかったな」 
 グレイも気づいていたらしい。
「ええ……」
「君は他の役持ち連中にも好かれたようだな。だが油断しない方がいい。
 良からぬ生業(なりわい)の者も多いし、何かあればすぐに銃で解決する奴らだ。
 交友関係は慎重に構築してくれ」
 何だか保護者みたいなことを言われた。
 ――でも、ちょっと楽しかったですね。
 職員さんの知り合いも増え、だんだんとここの生活に愛着がわいてきた。
「リン。そっちじゃない! 大空に帰るつもりか!?」
 窓の方に行きかけ、手首を引っ張られる。まだ道案内は必要みたいだ。
 でも『帰る』、か。
 ここでの生活は楽しい。というか楽しくなってきたのが問題だ。
 ――帰るべきですよね。
「あのですね、グレイ。私、久しぶりに『扉』に……」
「すまない。今ちょっと清掃中なんだ。後にしてほしい」
「あ、清掃でしたら私がお手伝いを――」
「清掃中と同時に模様替えもしているんだ。すまないな!」
「はあ……」
 私はグレイに引っ張られ、テッテコとついていった。
 あの扉だらけの場所をどう模様替えするかは存じませんが。

『―――が不在』

 あの赤いドレスの女性が言っていた『―――』って、誰なんだろう。
『不在』。人が不在。
 その人がいたら、エースは何か違うんだろうか。
 男の人なんだろうか。

 ……女の人?

 胸にかつてない強い痛みが走る。
「どうした、リン?」
「いえ……」
 けど想像が止まらない。
 エースは『彼女』が不在だから、ひどくなってる?
 それは誰? 美人? 大人の女の人?
 何だか足下がグラグラするような感覚だった。
 疲れてるのかな。人の部屋で寝ているし。
 ああ、そうだ。グレイの部屋を掃除しないと。でもどうしてだろう。


 グレイの部屋はあまり掃除する気になれない。


「グレイ様!」
 廊下の向こうから、職員さんが追いかけてきた。
「どうした?」
「次回の会合について、参加者より質問が――」
「ああ、それについては――」
 グレイと職員さんの間で、難しい話が始まる。
 いつの間にかグレイは私の手を離していた。もちろん離れたらアウトだ。
 私はそばで待ちながら、もやもやと悪い想像ばかりを膨らませていて、

 …………。

「あれ?」

 気がつくと夕暮れの森にいた。
 周囲を見渡せど、木、木、木。
 人工的な建造物は何一つ見えない。
「え? あ、あれ……?」
 うわああああ!
 頭を抱えたい思いで――というか本気で頭を抱え、地面にうずくまった。
 何てこった。
 また迷子になってしまった。
 グレイがどれだけ心配するか!!
 下手すると過保護になり、当分外に出してもらえないかも……。
 いやそれより、ここに来た頃のように熊さんとの遭遇とか遭難とか危険が危ない。
 わななく身体を抑え、空を見る。
 ……うん。まあ、何の手がかりもないよね。
 目を閉じ、耳をすました。人の声がどこからか聞こえないかと思って。
 うーん。風で木がざわざわする音、鳥の声、クジラの鳴き声、そのくらいか。
「クジラ?」
 何を聞き間違えたかと空を仰ぎ見ると、ちょうど巨大なクジラ
が真上を突っ切るところだった。
「……お肉がたくさん取れそうですね」
 い、いや。現実逃避してる場合じゃありません。
 クローバーの塔に帰らないと。
 私は首を振り振り、歩き出した。

 …………

 ……行けども行けども人里は見えない。
 舗装された道じゃないし、まして夕暮れだからよけい疲れる。
 てか、さっきから私、同じところをグルグルしてないか。
 ほーら、この地面の落葉をきれいにしたとこなんて、私がやった跡だ。
「いやこの期に及んで清掃すんなー……」
 自分へのツッコミも勢いがない。
 そして何だかやけに喉が渇く。歩いて汗をちょっとかいたから? カラカラだ。
 でも川なんてない。
 
 それからさらに歩き、空は真っ暗になった。
 歩くのをあきらめ、私は木の根本に座り込む。
 このまま誰にも見つからなかったらどうしよう。
 そう思いながら目を閉じる。
 
 目が覚めると身体がすごく痛かった。
 歩き回った上に、何時間帯も同じ姿勢で寝たためだろう。
 お腹がすいた。何か食べたい。
 あと、喉が渇く。水を飲みたい。 
 会合で出されたミネラルウォーターをちゃんと飲んどくんだったなあ。
 私は木にすがって立ち上がり、フラフラと歩き出す。
 時間帯は昼みたいだ。
 夜露が蒸発し、うっすらと森全体に霧がかかってみえる。
「……にしても、変な森ですね」
 いつの間にか周囲の木々が変わっている。
 あちこちの木に矢印の看板がついているのだ。
 ただ文字がデタラメで、指す方向もてんでばらばら。全く参考にならない。

 グレイ。ナイトメア。塔の皆。
 どれだけ心配してるかなあ。
 あ。ちなみに寝た後でも、夢魔とは会っていない。
 疲れて熟睡したため、夢を見てないのだ。
 まあ場所を聞かれても『森の中』としか答えようがありませんが。
 そして思う。

 エース。会いたい。

 彼のことを考えると不思議に足が動く。
 
 助けてくれなくていい。もう一度会いたい。
 
「……!」
 
 そのとき耳に声が聞こえた。
 人の声だ。それも一人ではなく複数の。
 私はその方角に走り出す。
 意外に体力があったみたいで、足はちゃんと動いてくれた。
 茂みをかきわけ、広いところに出る。
 声はすぐそばだ。
「あ、あの! すみません! 私は森で迷って……」
 言葉がみるみる尻すぼみになる。
 それもそのはず、声を出しているのは『人』ではなかった。

『おいで……』
『扉を開けて……』
『あなたの望む場所に……』

「な……」
 しゃべる扉の群である。クローバーの塔だけじゃなかったのか。
 木々に当たり前に扉がついて、私に語りかけてくる。
 矢印もついているけど、やはり参考にしてはいけない気がする。
 私がヤバいお薬をキメているのでなければ、塔以上にファンタジーな場所だ。
 しかし声は不気味で不吉な感じがする。
「あの、クローバーの塔へ続く扉さんはいますか?」
『さあ! 開けて! 試してごらん』
『きっと通じる』
『さあどうぞ!』
 ……会話が成立してるのかも微妙なラインだ。
「うーん……」
 今まではどこにも通じなかった。
 あれからしばらく経つけど今はどうなんだろう。
 私は一つの扉のノブを握ってみる。
『開いてごらん!』
 煽られるけど、私はそこで止まる。
 この扉はクローバーの塔に通じるんだろうか。
 それとも……元の世界? 誰も私を望んでいない、でも帰らなくてはいけない場所。
 しばし逡巡し、エースのことを思い出す。
 ――エースには他の人がいるかもしれないんだし。
 グレイには悪いけど、いい機会だろう。
「……帰ろう」
 吹っ切れた。私はノブを回し、手前に引こうとした。
 でもギリギリなところで迷って踏ん切りがつかず、周囲をみた。そして。
「っ!!」
 
 何で。という思考しかない。

 そこにエースがいた。

 すぐそば、声が届きそうなほど近くに。

 なのに私に気づいていない。
 彼は、ぼんやりした顔で別の扉を見ていた。
 
「エース!」

 私はただ走って走って。
 足音に気づいたエースが、顔をこちらに向け、目を見開くのが見えた。

「エースっ!!」

 飛びついて、抱きしめた。

「……リン!! どうして!?」
 さすがの彼も驚いたようだ。
 だけどすぐに抱きしめ返してくる。
「あはは。お互い迷子癖なのに。俺たちは本当に気が合うよな!」
「知らない、知らないですよ!!」
 涙がこぼれる。自分でも整理のつかない感情が身体の内側で荒れ狂っていた。
「馬鹿馬鹿! エースの大馬鹿!!」
「分かった。分かったよ。よく分からないけどね」
 矛盾そのものなことを言い、彼は私の顔を上げさせる。

 そして唇を重ね、私たちは長いキスをした。

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