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■補佐官殿の憂鬱

 雑巾を絞り、窓をキュッキュッと拭く。
 うむ。良い光り具合。
 帽子屋屋敷でいただいた窓ふき用洗剤、いいですなあ。
 と、意味もなく腰に手を当ててふんぞり返る。
 ――いたっ……。
 手首がズキッと痛み、私は顔をしかめた。
「やあリン。いつもありがとう」
 そのとき、後ろから声が聞こえた。
 私は慌てて笑顔を作り、
「こんにちは、グレイ」
 と頭を下げる。
「私もいるぞ、リン〜」
 グレイの後ろからヒョコッと顔を出すナイトメア。私はびっくりして、
「生きてたんですか、ナイトメア」
「おいっ!!」
「あ、いえ、失礼しました。先だってお会いしたときは、死線を
さ迷っていそうな感じでしたので、つい安心して」
「『つい』の使い方が違うだろう!? あと本人の目の前で直接言うか!
 いじめか、イジメなのか!?」
「すみません。ほんのちょっと冗談です」
「ほとんど本気!?」
 私の冗句につきあって下さるナイトメア。
 グレイはツッコミしづらいのか、苦笑いの顔だった。
 でもすぐ何かに気を取られたらしい。私の手首を見て、
「リン、可愛いリストバンドだな」
 私の手首には花柄の可愛いデザインのバンドがされている。
 両端がちょっとレースになったオシャレなものだ。
「えへへ。市場で見つけて」
「よく似合っているよ」
「ありがとう、グレイ」
 本当は、可愛いからつけているわけではないけど。
「…………」
 ナイトメアが私を見る。私は笑顔でナイトメアを見る。
 何か気づかれただろうか。
「……行くぞ、グレイ」
 珍しくグレイを急かすナイトメア。
「あ。はい。それではリン。夕食のとき迎えに行く。
 出来るだけそこから一歩も動かす、掃除していてくれ。
 可能な限り足を動かさないように」
 いじめレベルの指示をされた!

 しかし彼の言には根拠がある。
 私は掃除をしながら、他領土に迷い込むレベルの迷子癖なのだ。
『一歩も動かす』という指示に従おうとすれば、どうにか塔の中にいて
くれるだろうという、グレイなりの戦略が見えた気がした。
「迷子札は外すんじゃないぞー」
 手をひらひら振りながら去って行くナイトメア。
 心をちょっと読まれたかもしれない。

 …………

 私はリン。クローバーの国に迷い込んだ余所者だ。
 このクローバーの塔の主、ナイトメアを助けた縁で塔のお世話になっている。
 
 そして、私は異世界に来て、重大な悩み事を二つ抱えている。
 一つ。異世界に来た反動なのか何なのか、強烈な迷子癖になったこと。
 自覚無くフラッとさまよい出て、気がつくと森の中や他領土にいるのだ。
 私もグレイも対策に頭を悩まされている。
 
 もう一つ。ハートの騎士が恋人になったこと。

 彼は、出会った当初は爽やかな好青年だった。しかもカッコいいし、お城の騎士様。
 惹かれなかったと言えば嘘になる。
 が、今や隙あらば襲ってくる変態。
 ほとんど無理やりに、私は彼の恋人にされてしまった。
 しかし、あちらに恋愛感情があるとはとても思えない。

 私がリストバンドをしているのも、彼のせいだ。
 前回の『行為』の際、荒縄で縛られたため、すり傷が出来てしまったのだ。
 彼は何かがおかしい。そして危険だ。
 グレイもナイトメアも、彼を警戒してくれている。
 でも……。

 ナイトメアたちが去った後、私はため息をつき、掃除を続ける。
 窓ガラスに息を吐き、雑巾でごしごしこする。
 私の悩みもきれいに消えるように、ごしごしと。
 そしてバケツの水にひたし、ギューッと……。

「やあリン」

 とっさに窓をバタンと開け、窓枠に足をかける。
「どうしたんだ、リン。旅に出るには危険すぎる場所だぜ?」
 私の腰をつかんで支えつつ、エースは仰る。今回は彼の方が迷い込んできたらしい。
「いいいいえ、あなたの声が聞こえたので、つい」
「俺の声が聞こえたら旅立ちたくなるんだ。俺たち、本当に気が合うよな。
 ほら、リン、危ないぜ」
 エースが私の腰を抱く。
 しかし気のせいか、私の腰を建物側に引くのではなく、外側に押しているような……。
「ちょ、ちょっと、エース!」
 身体の半分以上が外に押し出され、下を見るのが怖くなる。
「エース、エース。冗談は止めて下さい。私は塔の四階を掃除してるんですよ?」
「あはは、四階? でも助かるかもしれないじゃないか」
 エースはさらにグイグイと押し出す。
「いえ助かりませんって! エースっ!」
 さすがに怖くなる。窓枠につかまり支えようとしたけど、エースの押し出す力の方が強い。

「リン。好きだよ」

「きゃあああぁっ!!」

 トンッと軽く押され、私の身体は空中に――。

「あのリンさん。窓から出ると危ないですよ?」
「鼻、大丈夫ですか?」

 ……庭に落ちた。
 私は四階ではなく一階にいたらしい。
 鼻から華麗に落ちた私を、心配して下さる通りすがりの職員さんたち。
 危ない危ない。あと一時間帯放置されていたら、確実に塔の外に出ていた。
「あははは!」
 後ろの窓からはエースの笑い声。
「エース。悪質すぎますよ。一階だって分かってたなら――」
「一階の窓だったんだな。驚いたぜ。あははは!」
 まさか一階の窓と知らず、私を突き落とした……?
 私はクルッと職員さんを向き、
「すみません! 変態が出没しました! 助けて下さい!」
「あ、はい!」
「リンさん、こっちに!」
 彼らはすぐさま私を背にかばってくれた。そして、
「エースさん、ここはクローバーの塔です。
 あなたの出入りは許されていません!」
「すぐにハートの城に帰って下さい。迷惑です」
 ああ、頼もしいです!
 しかしヒラリと窓枠を超え、庭に下り立ったエースは、

「へえ。顔無しのくせに、俺と恋人の逢瀬を邪魔するつもりなんだ?」

 うわ、声が低い。目が怖い。
 職員さん達がビクッと後じさるのが見えた。
 そういえば、この世界には顔のある人とない人で、絶対的な身分差が
あるらしい。
 そしてエースがスラリと鞘から剣を抜く。
「さて、誰から斬って欲しい?」
 脅しには見えない。
 仮にも恋人の私を、窓から突き落とした男だ。
 よその領土だろうと、人に手にかけるのを、ためらうだろうか。
「すみません。皆さん逃げて下さい。私も逃げます!」
「は、はい!」
 彼らに退避を促し、私は走り出した。
 こうなったら危険だとか言っていられない。
 とにかくエースから逃げるのだ!!
 
 …………

 ガサガサと。先を行く騎士が道無き道をかきわける。
「あれ? また迷っちゃったかなあ? あはは!」
「うーん……私もよくは分からないです」
 私は手をつながれ、首をかしげる。
 まあ結局捕まった。迷う暇さえ無かった。
 私を捕らえて上機嫌のエースは、さっそくどこかに歩き出した。
 あれからン時間帯。最後の民家を見てから数時間帯は経過している。
「ところでエース、いったいどこに行かれるのです?」
「うん? 晴れて恋人になったんだから、俺の部屋に案内しようかなーと思って」
 エースは人なつっこく私に笑いかける。
 さっき突き落とした癖に。根に持ってやるんだから。
「部屋ですか? 生活感無さそうですね?」
 そう言うと、エースが目を丸くした。
「当たり! よく分かったなあ」
「……いえ、私の部屋もそんなものなので」
 グレイの案内無しには辿り着けない。
 部屋の使用率が低ければ、生活感も低くなる。
「あと部屋に辿り着いても、部屋の中で迷いません?」
「迷う迷う! 重要な用事があってペーターさんが『絶っっっ対に部屋から
出ないで下さいっ!!』と部屋に閉じ込められたときもさあ、部屋で
迷っているうちに、いつの間にか部屋から出ちゃって。運がないぜ!」
「分かります、分かります。この前も――」
 
 あ、あれ……。何でエースと話が盛り上がってるんだろう。

 しかも常人にはありえない『あるある!』話で……。
 とはいえ、この人と沈黙が続くのも怖い。一向に手は離してもらえず、
手首のバンドも痛い。
「やっぱり、君といると楽しいぜ」
 エースは私を振り返り、笑う。透き通った青空のような笑顔の人だ。
「ずっとこの世界にいてくれよ。俺が守るからさ」
 女性なら一度は言われてみたい言葉だ。だけど、

「すみません。そのうち元の世界に帰ると思います」

 そう言った瞬間に。一瞬だけ、全身のうぶ毛が逆立った気がした。
 エースの笑顔を見て。
 これが噂に聞く『殺気』というものだろうか。
 目の前のエースの笑顔は全く変わらない。
「そっか。それは残念だな」
 返ってきたのは、思いがけずドライな答えだった。でも、
「あ? それとも『帰らないでくれ、俺が帰らせない!』って言った方が
いいのかな? ここは恋人的に」
 口に出す時点でどうかと思いますが……。
 私は内心を顔に出さないようにし、
「いえ、帰っていいと言っていただける方が、気が楽です」
 罪悪感を残さず帰れるのならありがたい。が、
「えー!? 何ソレ冷たい反応! もう少し傷ついた顔をしてくれてもいいだろう?」
 ショックを受けた様子のエース。ンな勝手な。

 ん? 待てよ。てことはさっき、『私が傷つく』前提で発言した?

 腑に落ちないでいると、大きな腕に抱きしめられた。
 コートの赤が視界に広がる。
「エース」
「リン〜。長いつきあいだろ。俺を捨てないでくれよ。
 ずっとこの世界にいてほしいぜ」
 いや、さっきと言ってることが真逆だし。
「それに私、あなたと会ってほとんど間がないですよね」
 赤い悪魔から逃れようとするが、騎士様の力は強い。
「でも深い仲にはなっているだろう?」
 こちらの肩を意味ありげに撫でながら言う。
「いえ合意だった時自体、あまり無かったような……」
「愛に時間は関係ない!!」
 歯がキラリ。何だろう。空々しい上に痛々しい。
 そして、清々しいくらい盛大に話をそらされた。
「……ん……」
 でも目を閉じ、キスを受け入れる。
「好きだよ」
 抱き抱えるように草むらに横たえられる。
「あのエース。せめてテントくらい……」
 顔をしかめるものの、騎士様は服をゆるめる手を止めやしない。
 私はあきらめ、空の雲をぼんやりと眺めた。

 恋人扱いされ、好きだ何だと言われているのに、実感が全くない。
 うーん。やっぱり遊ばれてるのかな。
 そうなんだろうなあ。
 終わったら、もう少しちゃんと抗議しよう。

 こんな恋人なんて、持っちゃダメだ。

 …………

 そして私は森をさ迷っていた。
 時間帯は夕刻。視界も足場も悪くなる一方だ。
「エース。恋人として果たす最低限の義務って、あるんじゃないですかねえ」
 いない相手にグチグチ。
 野郎。疲れ果てた私に『水をくんできてあげる』と言ったのだ。
 親切なんだろう。
 しかし己の迷子癖を分かっての発言なら、いっそタチが悪い。
 止めた。全力で止めた。
 が、『大丈夫、ほら、水の流れる音が聞こえるだろう? すぐそこだから』と言って去っていった。
 もちろん戻ってこなかった。
 私は後を追いかけた。
 もちろん彼も川も見つからなかった。
 嗚呼、迷子癖……。
「デートのたびに双方が遭難って、どれだけ終わってるんですか」
 この世界の住人のエースはともかく、私の方はリアルにヤバい。
 ガサガサと草をかきわけ、出口を探す。
 そうしている間にも、のどは渇くし、倒れそうになるし。
 ……あ。倒れた。
 私はドサッと草むらに倒れた。
 行き倒れ決定。わーい。
 い、いや不味い。本気で不味い。
 どうするんですか、これ。
 ありえない、ありえない。
 なんだか色々とファンタジックな世界に来て、森の中で行き倒れて終わりとか。
 草をギュッと握るけど、疲れて、のどが渇きすぎて、もうダメだ。
 ああ、幻聴まで起き出した。
 何だか耳元でガサっと草を踏む音が聞こえたような……。
 
 …………

 目が覚めると、天井が見えた。
 窓の外は夜である。
「ここは……」
 私の部屋だ。
 そう気づいた瞬間に、安堵で泣きそうになった。そしてタイミング良く扉が開く。
「リン!」
 グレイだった。
 何やらトレイを持ち、足早にこっちに来る。
「良かった……。本当に良かった!」
「グレイ。すみません」
 また迷惑をかけてしまった。素直に詫びると、
「いや、部下から騎士のことを聞かされた。可哀想に。また連れ回されたんだろう?」
「はい、まあ。グレイが私を見つけて下さったんですか?」
 するとグレイは、ベッドサイドのテーブルにトレイを置き、椅子を引いて腰かける。
 私にココアの匂いのするカップを差し出しながら複雑そうに、
「いや。見つけたのは帽子屋ファミリーの者たちだ。
 作戦で森を進行中に君を発見し、連れてきてくれたらしい」
「…………」
 顔から火がでるくらい恥ずかしい。
 何度あの人たちに迷惑をかければ気が済むんだ。今度お礼に――
「もちろん、礼は俺の方からしておいた。
 くれぐれも直接謝罪を、とは思わないでくれよ?」
 釘を刺されました。
「あの男は危険だ。君も、もう掃除はしなくていい。あまり出歩かないようにしてくれ」
 引きこもりを進められた!?
「あ、いや、違うんだ。そんな顔をしないでくれ。
 しばらくは俺の仕事を手伝ってほしい」
「ええ!? グレイの!?」
 驚いてココアを噴きそうになった。
 グレイはこの塔のナンバー2で、つまり数多くの仕事を抱えている。
 最初の頃、あまりお役に立てなかった私が手伝えるんだろうか。
 考えていることが顔に出たんだろう。
 グレイは優しく笑った。
「心配はいらないよ。ちゃんと君に合った仕事を選ぶ。だがどのみち、今回のことが
なくても人手が欲しかったんだ。
 これから会合が始まる。猫の手も借りたい状態だからな」
「会合?」
 私は首をかしげる。
 グレイは自分のココアを飲み、説明してくれた。

 …………

 夢の中で雑巾を絞り、夢魔を見上げる。
 最初の頃は、夢で会うナイトメアの存在に驚いたけど、今は大分慣れてきた。
「目的も無しに集まり、内容のないことを話し合う『会合』って、何なんですか」
 眠る前。グレイは大人の笑顔で『会合』とやらについて説明してくれた。
 が、彼は大人なのに、その説明はキテレツを極めた。
 私は床を拭きつつ、混乱を沈めようとした。
「いや、リン。何で夢の中でまで掃除を……。まあ、とにかく『ルール』なんだ。
 我々は定期的に集まらなければいけない。それが第一義で、理由は後付けのようなものだ」
「はあ……」
 到底納得出来るものではない。
「そういうものだと思っておきなさい。
 君のいた世界だって、理不尽な決まりやしきたりだらけだっただろう?」
「まあ、それはそうなんですが」
「グレイも目の届くところに君を置いておきたいんだろう。
 つきあってやってくれ」
 チラッと手首を見られた気がした。
 居候の身なのに、どれだけ皆さんに迷惑をかけるんだ、私。
「いや、グレイの方は心配性というより……」
 ナイトメアの言葉を聞き終える前に、私はゆっくりと夢から目覚めていった。

 …………

 …………

 余所者リン。新しい仕事場はクローバーの塔の執務室である。

「リン。次はその書類を整理してほしい。
 ああ、書類のある場所は俺が案内する。
 君のすぐ目の前の机だ。一歩、二歩……よし、到着だ」

「この資料をナイトメア様に届けてくれ。ああ、そっちじゃない。俺が一緒にいくから。
 ほら手を取って。放さないでくれ」

「リン。一緒に休憩に行こう。
 俺が食堂まで案内するから。ほら、手を」

 ……ずっと、ずーっとグレイがそばにいる。
 そして手をつながせっぱなしだ。お子様か。
 執務室なので、職員さんもたくさん出入りする。
 言っちゃ悪いがとても恥ずかしい。
 けど私はエース並みの迷子と化しているし、言うことを聞かない方が迷惑だ。
 大人しく手をつながれるより他はなかった。
 で、目立つ。たぶん大いに目立ってる。
 彼が余計な誤解をされないか心配で仕方ない。
「グレイ〜。顔がにやけているぞ」
 ナイトメアの低い声が、聞こえた気がした。

 …………

 そしてクローバーの塔は夜の時間帯に包まれている。
「リン。本当にありがとう。助かったよ」
 一緒に歩くグレイは、相変わらず私の手を握っている。
 さすがに大丈夫だと思うんだけど、グレイは心配性すぎる。
「いえ、ほとんどお役に立てませんで」
 事実だ。子供にも出来るような、書類の分類や伝達くらいしか出来ない。
 しかもいちいちグレイが一緒。彼の仕事を相当に邪魔していたはずだ。
「そんなことはないよ。とても助かった。
 君がいてくれたおかげで、ナイトメア様も仕事を進めて下さったしな」
「ど、どうも」
 顔が赤い。廊下では誰ともすれ違わず、それがどうしてか気まずい。
 グレイはずっと機嫌が良さそうだったけど。

 そしてグレイに手を引かれ、部屋の前についた。
「どうもありがとうございます、グレイ」
 頭を下げる。しかしグレイはまだ心配そうだ。
「くれぐれも部屋から出ないでくれよ? 万一騎士が入ってきたら、
大声を出して助けを呼ぶように」
 エースもえらい言われようですな。
「グレイはこの後、おやすみに?」
「いや、もう少し仕事をするよ」
 そう言われて申し訳なくなる。
 絶対に私が原因だ。だから言った。
「グレイ。次からは、他の職員さんに案内をお願いしちゃって下さい」
「え……」
 グレイは想像もしなかった、という顔だ。ショックを受けているようにも見える。
「なぜそんなことを言うんだ。俺は何か君を不快にさせるようなことをしたのか?」
「いえ、違います!」
 ブンブンと首を振る。
「簡単なお仕事に重役のあなたを使うのは申し訳ないです。
 案内は他の方でも大丈夫ですから」
 そう言うと、グレイは難しい顔をした。
「確かにそうだが、だが、君は目を離すとすぐどこかに行ってしまうし……」
 うう。本当にどうにかならないのか、このにわか迷子癖。

「心配なんだ。俺が見ていない間にどこかに行っているんじゃないか、
騎士にさらわれたんじゃないかと……」

 沈黙。続きを考えかねている表情だ。
 私は恥ずかしくて、ただうつむいている。
 グレイは、私の手首のバンドを見る。
 え……。まさかバレていた!?

「君が傷つけられないか心配なんだ。
 気がつけば、いつもいつも君のことを……」

 そしてハッとしたように顔を上げる。

「グレイ?」
「あ……」

 どうしたんだろう。私を見る顔が、みるみる紅潮していく。
 困惑と喜びが半々の、奇妙な表情だった。
 さっぱり意味が分からない。
「グ、グレイ? どうしました?」
「いや、い、いや、何でもないよ」
 グレイは私から顔をそらし、言う。
「ちょっと、自覚してしまっただけだ」
「は? 何をです?」
 話が妙な方向に行く。だがグレイは大きく咳払いし、
「い、いいんだ。俺個人のことだ。すまなかったな。もう休んでくれ」
「え、ええ。おやすみなさい、グレイ」
 混乱しつつ、彼に合わせることにした。
「では、次から仕事での案内は別の方にお願いするということで……」
「いや、引き続き俺がやらせてもらう」
 グレイは妙にキッパリと言った。
「けど、グレイ――」
「いいんだ。おやすみ、リン」
 そう言って、そっと私の額にキスをした。
「え……」
 思わぬことに固まっていると、グレイはふっと笑う。
「それでは、次の仕事で会おう。必ず君を守って見せる」
 そう言って去っていく。言葉の後半がなんか大げさだ。
「な、何なんでしょう? 本当に」
 額に手を当て、顔を赤くして一人つぶやく。
 親愛のキス? 今までそんなことは無かったのに。
 ……いや、まさかね。あんな大人の人が、私なんかに、

 仕事に遠ざかるグレイの背は、どこか高揚しているように見えた。

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