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■眠りネズミの時間8

「言うこと聞いてくれないの?俺のものなのに?俺のこと、嫌い?
やっぱり嫌いだよね……汚いネズミに捕まえられちゃってるんだもんね。
君が俺のものになってくれないのなら……悲しいけど……」
――マズい……。
ネズミの瞳に剣呑なものが渦巻きはじめる。ユリウスは余計な考えを振り払い、
かがんでネズミのモノに舌で触れ、愛撫を始めた。
「ん……」
単純なネズミはすぐ忘れてくれたらしい。
やがて荒い息遣いがネズミの巣に響く。
シーツの上で絡み合いながら、ユリウスは懐かしい時計塔を思っていた。
ネズミの機嫌を取るのは、簡単に見えて難しい。
病んだネズミはユリウスが少しでも否定的な反応をすると落ち込むか被害妄想に
囚われるかで、当然、食糧事情も乱高下する。
首輪につながれベッドからほとんど動けず外部からの助けは期待出来ない。
鎖くらいはどうにか解けるかもしれないが、扉は常に閉ざされ、食糧の備蓄もない。
この状況で、いったいいつになれば脱出出来るのだろう。
ネズミに組み敷かれ、絶望的な気分で巣の天井を仰ぐしかなかった。

…………

…………

そして、監禁生活の終わりは、あまりに呆気なかった。
それは突然に来た。

あるとき、ネズミが帰還した――全身を血まみれにして。

「!!」
ベッドでぐったりしていたユリウスも、さすがに目を見開いた。
仕事柄、ネズミが怪我をして帰ることはしばしばだったが、これは異常事態だ。
それでもネズミは笑顔をユリウスに向け、
「た、ただいま……」
――どうしたんだ、その傷は……。
服を染めたネズミの血は、手をつたい、床に少しずつ血だまりを作っていく。
顔色は青白く、息も弱くなっている。危険な兆候だ。
「すごく大きな仕事で……でも、俺、怪我して……血が止まらなくて。そしたら、
ボスが……まだ抗争中なのに……今までご苦労だった、もう休んでいいって。
だから俺、家に帰れて、すごく嬉しい……」
「…………」
治療や処置を施された形跡は一切ない。手遅れだと思われたのだろう。
このネズミはそういう世界で働いている。ネズミ当人でさえ、それを恨まない。
せめて最期は望む場所で時計に還れ――あの男なりの慈悲なのかもしれない。
ネズミは己に迫るものを自覚しているのだろうか。
ユリウスを見下ろす瞳は、あまりにも静かな深緑だった。
「君に会えて……すごく嬉しい。
だって、俺、最期も一人ぼっちじゃなくて、すむもの……」
「――」
ネズミは震える手で懐から何か取り出した。
血の乾かぬ鋭い刃物だった。
ユリウスは身じろいだが、だからといって逃げる方法が浮かばない。
「大丈夫。俺、君のことが本当に大好きだから、苦しまないようにしてあげる……」
眠りネズミは獲物を捕らえた目でユリウスを見ている。

動けない。

そしてネズミは刃物を振り上げ――刃物が手からこぼれる。

床に響く乾いた音。
そして、眠りネズミが床に倒れる音がした。
――ネズミ……。
死んだのか、いや、まだ喉がわずかに上下している。
ユリウスは休息を求める身体を叱咤し、ネズミに近づこうとした。
そこで、首輪が締まり、舌打ちする。鎖の端はベッドの支柱で、がんじがらめに
結びつけられている。だが、ためらううちにネズミの呼吸は弱くなっていく。
――……器用さで、ネズミが時計屋に勝てると思うな。
呆れるほど緩慢にユリウスは鎖の結び目に取り掛かる。

弱くなる息遣いと、濃くなる血の匂い。時折かすむ視界といっかな解けない結び目。
そして、どうにか結び目が解け、ユリウスが床に立ったとき、ネズミは虫の息だった。
ユリウスは小さい身体で何とかシーツを引き裂き、ネズミに止血処置をした。
そして、いつかのように、這うようにして部屋中を探し回る。
ガラクタだらけなのが幸いした。
医療器具に代用出来そうなものがいくつか見つかる。
ユリウスは四苦八苦してそれらをかき集め、出来うる応急処置は全てほどこした。

…………
「ふう……」
最後に楽な姿勢にさせ、ボトル入りの水を見つけ、時間をかけて飲ませた。
この世界有数の技術力を持つ時計屋として、最大限の治療はした。
――あとは、ネズミの体力に賭けるしかないな。
未だ倒れたネズミに布団をかけて暖めてやり――そこでユリウスは我に返った。
――な、何をやっていたんだ、私は。
眠りネズミにどれだけひどいことをされたか。放置して脱出すれば良かった。
それなのに……。
しかし、呼吸が安定しだしたネズミに安堵する自分もどこかにいる。
……閉ざされた空間に被害者と加害者が長時間共にいると、被害者が加害者に
感情移入するという現象があるらしい。そういうものに当てられたのだろうか。
――そんなはずはない。こんなネズミに情など……!
ユリウスは無言で首を振り、ふと首輪を見た。
「…………」
少し苦労したが、奮闘の末に何とか外すことが出来た。
首輪と鎖が床に落ちる音が巣に響く。
その音にネズミが目を開ける。
ユリウスは床に倒れたネズミを見た。
ネズミはぼんやりとユリウスを見、巣を見――その目が恐怖に見開かれる。
ユリウスは視線の先を追った。
巣の扉だった。

扉は開いていた。

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