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■眠りネズミの時間2

――もしや、時間を進める余裕が無くなるほど衰弱していたのか?私は。
倒れるまで自分の疲労に気づかないのはしょっちゅうだが、ここまで弱っていた
のは致命的な誤算だった。そういえば時計塔の作業室でもよろめいた。
もっと事態を真剣に考え、手近な食堂に入れば良かった。
――仕方ない、大通りに戻ろう。
だが時間を進める余裕さえ保てない身体だ。自覚した途端に足が重くなる。

――今撃たれたら本当に死ぬ。

ようやく、自分の窮地を実感し、ユリウスは冷たい汗が吹き出るのを感じた。
足音は間近に迫っている。
――隠れよう。子供なら身体が小さいから気づかれないかもしれない。
幸い、酒場か何かの裏口に近いのか近くには空の木箱が積まれている。
ユリウスは手近な木箱に入りフタを閉めた。完全な暗闇だ。
酒と煙草と硝煙の匂いが充満し、それだけで吐きそうになる。
ユリウスは息を殺し、足音を待つ。やがて石畳を蹴る音が目と鼻の先に近づき、
「あれぇ?」
聞こえたのは、刺客にしてはやけに呑気な声だった。
――この声、どこかで聞いたことが……。
だが生命の危機には変わりない。
ユリウスはじっと息を潜め、足音の主が去るのを待つ。

しかし、足音は一向に遠ざかる気配がない。
行きつ戻りつし、その度にユリウスは胸の時計の竜頭を握られる気分だった。
やがて、足音はユリウスの隠れる木箱の前で止まった。
――見ている、こっちを。
冷や汗が首筋をつたい、不快に服を湿らせる。
そしてふいに、
「うわっ!!」
木箱に衝撃が走った。
箱を蹴られ、横倒しにされたのだと気づいたときには声が出ていた。
「ふふ。見ーつけた!」
かくれんぼで友達を見つけた子供のような、嬉しそうな声。
息つく間もなく箱のフタが開けられ、ユリウスは強引に外に引きずり出される。
足音の主はユリウスの両脇に手を入れ、人形のように軽々と持ち上げた。
やけに力がある相手のようだ。
「うわあ、可愛い!」
少年に対するものとしてはあるまじき感想を言われ、衰弱と疲労と心労でぐったり
しかけたユリウスは思わず目を開ける。
琥珀色の髪にはフサフサした耳、楽しそうに揺れる尻尾。
緑の瞳は無邪気に輝いている――『眠りネズミ』ピアス=ヴィリエだった。
「いいもの拾った!『可愛いな』って思って跡をつけてたら、勝手に一人になって
俺に捕まってくれた!だから俺のだよね!おうちに持って帰っていいよね!」
――可愛いから跡をつけたって、変質者か、お前は!!
通常なら勢いよくツッコミを入れているところだが、そんな場合ではない。
ある意味、刺客のほうがまだありがたかった。
このネズミ、時計隠しの常習犯というだけで十分に厄介だが、それ以上に尋常でない
レベルで精神を病んでいる。
時計屋並み、いやそれ以上に汚い仕事に日常的に従事し、陰惨な噂も絶えない。
こんな奴に捕まれば、最悪の場合、猟奇殺人の犠牲者になりかねない。
「俺のもの、可愛い顔無しの男の子拾った!
おうちに連れて帰って大事にしてあげるんだ!」
――ちょっと待て、私は顔無しではない、時計屋のユリウスだ!!
普通の役持ちなら、役持ちと役無しの区別くらいつくだろうに、愚かなネズミは
分からないらしい。
しかしネズミは臆病だから正体をバラせば怖じ気づいて逃げていくかもしれない。
ユリウスは声を出そうとした――が、声が出ない。
どうも緊張でさらに体力が殺がれたらしい。
ネズミもほとんど反応のないユリウスに気づき、オロオロしだした。
「あれあれ?この子、死に掛けてる?ど、どうしよう!
この子が死んじゃったらどうしよう!早く連れて帰らないと!!」
――死にかけてなどいない!放せ!!
怒鳴りたくとも、口からは弱々しいうめき声しか出ない。
「大丈夫だよ、すぐにおうちに帰れるからね」
ネズミは何を勘違いしたのか優しく話しかける。
――私の家は時計塔だ!ネズミの巣など誰が行くか!!
しかしネズミは見かけによらない強い力でユリウスを両腕に抱え、走り出す。
慣れた様子で裏通りを抜け、ひと気のない道を通り、やがて街を抜け、森へ。
ネズミの本能で人目を避けたのか、誰一人見かけなかった。
そういえば、裏道に入ってからも人とすれ違った記憶はない。もしかすると、
追跡の上手いネズミに、人通りのない方へ誘導されてしまったのかもしれない。
それ以前に子供一人攫われて、誰が構うだろうか。
この世界の治安は無きに等しい。
人が殺されようが、攫われようが、単なる日常風景。自衛しない方が悪い。
オマケに唯一の頼みの部下は重度の迷子癖。
あの難解な頭で、万が一の確率でネズミが犯人だと見当をつけてくれたとしても、
どこにあるともしれないネズミの巣を探し当てられるのか。
『絶望的』という嫌な単語が頭をよぎったところで目的地についたらしい。
ドアの木立のあたりでネズミが止まった。
「ええと、どこだったかな……あった!」
器用にユリウスを片手で支え、もう片方の手で小瓶を取り出す。
記憶が正しければ、身体を小さくする薬品だ。
――待て、それは本当にまずい。
薬品はネズミたちの間にだけ流通する、稀少なものだと記憶している。
騎士のように正攻法しか取れない男が入手出来るものではない。
つまり薬を飲めば救出される見込みが絶望的どころかゼロになる。
「はい、これを飲んで」

眠りネズミはニコニコして、ユリウスに瓶を差し出す。

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