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■料理上手と料理下手・上


その時、時計屋ユリウスはクローバーの塔の作業室にいた。
黙々と時計を修理していた彼は、ふと顔を上げた。
――異臭……?
臭気を吸わないよう、すぐさまハンカチを鼻にあて、床に腹ばいになる。
物音を立てないよう、じりじりと窓にほふく前進した。
聞き耳を立てると、扉の前に誰かの足音。
――私がガスにやられたと油断してくれているのならいいが……。
ユリウスは静かにスパナを握った。催眠もしくは有毒ガスの中で戦うのは困難だ。
まして引火の恐れがあるから銃も使えない。
領土で主は無敵とはいえ、伏しているところを刺すのなら子どもにも出来る。
――こうなったら一か八か、窓から飛びおりるか……
ようやく窓枠に手をかけ、ユリウスが一気に飛び出そうとしたとき、扉を開ける音が、
「時計屋!何をやっているんだ!!」
「……は?」
聞き慣れた声が作業室に響いた。

「いいか時計屋。俺たちの命に意味がないとしても窓から飛び降りようなど――」
「すまん」
「軽ければ捨てるのも自由など言語道断。人生というのは素晴らしいもので――」
「はあ」
――代えのきく我々に、人生の素晴らしさなんてあったか?
内心疑問に抱きつつ、ユリウスはグレイの『人生を讃える』説教を聞いていた。
ユリウスは作業室の床に正座。
グレイはなぜか両手に鍋を持っている奇妙な光景だった。
異臭の源はトカゲの補佐官グレイ=リングマーク。彼の持っている鍋だった。
恐ろしいことに、不摂生の時計屋に手料理を持ってきたという。
日ごろ世話になっている義理もあり、『おまえの鍋が原因だ』とも言い出せず、
仕方なく説教を受けて、今に至る。
「というわけだ、分かったか?時計屋」
「ああ」
いい加減、足のしびれも限界に来た頃、グレイがようやく終わらせてくれた。
「反省しているのならいい。二度と馬鹿なことを考えるな」
「……ああ」
まあ人生とは理不尽なものだと、何とか立ち上がり、しびれをこらえながら思う。
「それでは食べようか」
グレイがようやく笑った。断る間もなく鍋を作業机に置き、フタを開けた。
そしてユリウスは、まばゆい緑の液体を目にした。しばらく沈黙し、
「蛍光グリーンとは斬新な洗剤だな」
「シチューだ、時計屋」
「とすると、このいびつな形の青紫が芋か?」
「ああ。本を読み、ヨウ素を加えてみたんだ」
――料理でヨウ素デンプン反応を起こす必要があるのか?
そもそも青紫の芋で誰が食欲がわくというのか。
しかし、どこか褒めてほしそうな顔を見ると何も言えない。
「滋養をつけさせようと思ってな。身体に良さそうなものをいろいろ入れてみた」
――蛍光グリーンのシチューでどう滋養がつくんだ。
着色料をぶちまけたのでなければ、危険域の化学反応が起こっている証拠だ。
滋養がつくより床につく。時計屋としてそれだけは避けたい。
グレイは今にもシチューを、持ってきた皿に盛りつけようとしている。
「ち、ちょっと待て、トカゲ」
「何だ?」
「そのシチュー、手を加えさせてくれ」

…………

「時計屋、料理を教えてほしい!」
「は?」
グレイがそう言って作業室に来たのは、あれから十数時間帯後のことだった。
「頼む。おまえほどの腕があれば、ナイトメア様に料理を食べていただける」
「…………」
あの後、蛍光シチューの猛毒をどうにか中和し、食べられる味にするまで
相当な苦労を要した。いっそ『手が滑った』ことにして床にひっくり返そうかと
何度も思った。だが、他人の体調を真面目に案ずるグレイに良心の呵責を覚え、
出来なかった。食べられるとはいえ、もはや別物と化したシチューをグレイは
『美味い』『こんな美味い物は初めて食べた』と不必要なほど絶賛してくれた。
ユリウスも精一杯の愛想をふりしぼって気遣いへの礼を言うと、グレイは本当に
嬉しそうな顔をして帰って行った。
そして――
「おまえの料理は趣味にとどめておいた方が良い。どうしても蓑虫に嫌がらせ……
いや薬を盛りたいのなら、一流シェフでも呼び寄せればいいだろう」
だがグレイは、
「万が一の毒殺が心配だ。俺自身の手料理ならナイトメア様も安心して
召し上がって下さるだろう」
いや、おまえ自身の腕がすでに毒殺レベルなのだが、とは皮肉屋のユリウスにも
さすがに言えなかった。
「いやだから。料理のレシピ通りに作るだけだ。それに私は仕事で……」
「頼む、時計屋!」
「…………」
頭まで下げられると無下に出来ない。ユリウスは深くため息をついた。

「とりあえず、初心者が独自のアレンジなど止めておくことだ」
無人の厨房に来たユリウスは適当な食材を取り出し、作業台に並べていく。
ユリウスはエプロンをつけ、グレイはシャツ姿で腕まくりしている。
「計量は正確に。後はレシピ通りに作る。これで失敗の可能性は格段に減る」
「なるほど」
グレイは生真面目にメモまで取っていた。ユリウスは彼から薬を受け取り、
「とりあえず、スコーンでも作るか。これなら数時間帯でできあがるだろう。
この薬は、確か熱変性に強いはずだ。なら、粉にこっそり練り込めば問題ない」
「さすが時計屋だな。手際もいい」
ユリウスは普通に計量しているだけだが、グレイは横で何度もうなずく。
やや気恥ずかしくなって、計量カップを渡し、
「トカゲ、おまえも手伝え。牛乳を計ってほしい」
「ああ」
グレイはうなずき、冷蔵庫を開けた。

…………

「トカゲ、おまえ、本当にちゃんと計ったのか?」
「ああ。間違いない」
オーブンから取り出したスコーンは、それは鮮やかな緑色だった。
ご丁寧にチョコチップまでエメラルドグリーンの輝きを放っている。
どこかの道化師がオーブンの中身を入れ替えたのかと、ユリウスは本気で考えた。
夜で厨房が薄暗いせいか、焼き上がりを見るまで気がつかなかったのだ。
混ぜ込んだ薬が妙な反応でも起こしたのかと思ったが、やはり毒物を混入したと
しか思えない。ユリウスは厨房付のゴミ箱に行って、中を見た。
牛乳パックなどに混じって、空になった中サイズの瓶があった。ラベルには、

『着色料:グリーン』

「…………トカゲ」
「ああ。彩りをきれいにしようと思ってな。瓶一本はやはり入れすぎだったか?」
「どんぶり勘定にもほどがあるだろう!」
ユリウスは腰に手を当て、グレイを見下ろした。
「いいかトカゲ。『レシピ通り』だ。初心者が、彩りとか隠し味とか、妙なことを
考えるな。まずは本の通りに作るんだ!」
「ああ。わかった。本の通りだな」
わざわざメモまで取る姿は、今や嫌味にすら感じる。

ユリウスは不安の消えないまま、ふたたび小麦粉の袋を取り出した。

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