続き→ トップへ 短編目次

■嵐と迷子

※R15

「ん……」

 時計屋ユリウスが薄目を開けると床が見えた。
 つまるところ、倒れていた。
 ユリウスは起きようと、身体に力を入れた。
「…………」
 起き上がれない。ピクリとも動けない。
 どうやら、指先も動かないほど疲労困憊したらしい。

 ここはハートの国。今はクレイジー・ストームという、国全体を覆う嵐の直前だ。
 ユリウスも嵐に備えるべく、仕事を普段以上に加速させてはいたが……。
 さすがに、この状況は不味いのでは?
 本気で危機感を抱き、ユリウスは何とかもがこうとした。
 しかし、数歩分這っただけで身体が限界を訴える。
 そもそも食料の備蓄は、しばらく前に尽きていたはずだ。
 もし何もなく、このまま動けなかったら。
 うっすらと額に汗が浮き出る。
 そう考えているうちに、だんだん視界が狭くなってきた。
 意識が徐々に遠のき、走馬燈が――。


 誰かが袖をつかんで、ダダをこねている。
 すねたような、甘えたような声で、

『なあ、ユリウス。俺、お腹が空いたよ。もうご飯にしようぜ?』


「ユリウス!! おい、しっかりしろよ!」

 誰かがユリウスの手をつかんだ。

 …………

「今回ばかりは本当に俺は、命の恩人だな」
 騎士はユリウスをソファに座らせ、偉そうに言う。
 ユリウスはというと、起き上がっただけでクラクラし、反論どころではない。
「ほら、口を開けて。あーん」
 椀を持ったエースが、すりおろしたリンゴをさじに乗せ、口を開けるよう促してくる。
 少し癪だったが、素直に指示に従った。
 甘くてザラザラしたリンゴがゆっくりと喉を通っていく。
「はは。そんなに急かすなよ。はい」
 無意識に次を求めて口を開けていたらしい。ユリウスは少し赤くなる。
 エースは嬉しそうに笑った。

 馬鹿力の騎士は、ユリウスを軽々と両腕に抱え、ベッドに登る。
「ユリウス。俺、陛下に呼ばれているから戻らないと。
 リンゴは全部置いておくから、なるべく早く買い出しに行けよ」
 作業台の上には、リンゴが五、六個、カゴに入れるでもなく転がっている。
「寝てろよ。本当は俺が買い出しに行ってやりたいくらいだけど、
嵐が来る前に戻ってこられるか、分からないからなあ」
「……面倒をかける」
 横たえられ、毛布をかけられながら言うと、
「ん」
 エースの顔が近づき、唇がゆっくり重なる。
 頬に手をそえられ、角度を変え、より深く口づけられた。
 自然と舌が絡み、唾液の音が響く。
「おい……」
 いつまで経っても口づけが終わらないため、息継ぎの合間に騎士を睨んだ。
「……ユリウス……」
 耳元で低く囁かれ、抱きしめられる。
 どこかぼんやりしていたユリウスだが、
「おい、エース!」
 牽制したつもりだが、効果があったためしはない。
「でもユリウスだって、反応してるじゃないか」
 ニヤリと笑い、こちらの股間を叩かれる。確かにそこは……。
「おい。クレイジー・ストームの前に帰るんじゃなかったのか?」
 馬乗りになり、嬉々としてコートを脱ぎ出す馬鹿を見上げる。
「それくらいの余裕はあるだろ? それに××って栄養豊富らしいぜ?」
「…………」
 下品なことを言われ、これ以上になく苦虫をかみつぶした顔になってしまう。
「ユリウスって、いっつも嫌そうだよなあ」
「良い顔が出来るか!!」
 怒鳴っても馬鹿は笑うだけで、遠慮無くこちらの服に手をかけてくる。
 せめて時間帯が夜になってはくれないかと願うが、嵐を前に、空はよく晴れていた。

 …………

 こちらの長い髪をすくいながら、素裸の馬鹿は笑う。
「ユリウス、ほら、もう少しだから頑張れよ。舌が動いてないぜ」
 激怒し、ユリウスはエースの脚の間から顔を上げ、
「うるさい! おまえが遅いのが悪いんだろうが!」
 すり下ろしたリンゴで補充された体力が、みるみる減っていく。
 閉めきった部屋には、機械油と男同士による独特の匂いが充満し、最悪の気分だ。
「ええ〜。さっきは早すぎるって怒鳴ったのに? アレ結構傷ついたんだぜ?」
「う、うるさい!」
 怒鳴るユリウスの後背部からは白濁した液が滴っている。
 もう羞恥なのか、気まずいのかも分からない。
 ユリウスは自棄になり、早く達してしまえ、と半端に硬くなった××に
舌を這わせる。先端をつつき、血管をなぞると馬鹿の声が少し乱れる。
「ん…っ……こういう状況も、新鮮だよな……」
 先触れの風が、窓をガタガタ揺らしている。
 ハートの城も時計塔も、いつ嵐が来てもおかしくないのに、この馬鹿と
きたら焦る様子もない。
「それとも、ここで、嵐を、迎えるか……?」
 顔を上げ、あり得ないと知りつつ問う。エースは笑う。
 答えの代わりに早くイカせてくれ、とユリウスの頭を押した。
「ん……」
 はちきれんばかりに膨張した××に手を添え、もう一度口に含む。
 あとは互いに無言で、荒い息づかいと風が窓を揺らす音だけが聞こえる。
 しかしどこか、互いの間に焦りも感じる。
 お互い、嵐の間に相手に会ったことはないのだから。
 ユリウスとて嵐の間は塔に引きこもるつもりで、仕事を急いでいた。
「……ユリウス……俺……い……」
 最後まで言い切る前に、エースが達した。

 ようやく口を放し口元をぬぐって息をつくと、馬鹿が抱きしめてきた。
 こちらは軽く汗ばんでいるのに、相手は全くそうではないのが腹立たしい。
「気色悪い。放せ、うっとうしい」
「いいじゃないか。恋人同士だろ?」
「この、馬鹿が……」
 そっぽを向くと騎士は笑い、頬に口づけてきた。

 …………

 …………

「ん……」
 夢も見ない深い眠りから覚醒する。
 時計屋ユリウスはゆっくりと起き上がった。
 どのくらい寝ていたかは知らないが、嵐が来たことだけは確かだ。
 感覚で分かる。
「……何で寝ているんだ、私は」
 ロフトベッドの自分の隣には、誰もいない。当たり前だ。
 ユリウスは首を振り、起き上がる。
 なぜか身体がベタベタし、不快な匂いまでする。
 自分はほとんど衣服を身につけていない状態だ。
 ベッドから下り、顔をしかめた。
 服は乱雑に散らばり、しかもそれがどれも微妙に汚れている。
「何なんだ……もしかして、『変化』だったりするのか?」
 嵐の間は、自分の変化には気づけない。
 通常の自分はだらしなかったのだろうか。
 服をこんなにしたまま、平気で裸で寝るなど。
 きちんとしろと、自分を叱りつけたいくらいだ。
「まあいいか。せいぜい数時間帯だ」
 ブツブツ言いながら服を着る。
 それから、作業台の上に置かれたリンゴをかじった。
「…………」
 少し古いリンゴだったらしい。
 ジャリッと口の中で崩れ少し嫌な感触が広がる。
 そんなリンゴでも身体は栄養を要求し、ユリウスは黙々とリンゴを食べ続けた。


 やがてユリウスは窓を開けようとして外を見、眉をひそめた。
「何だあれは」
 時計塔広場に竜巻が数個、吹き荒れていた。
 ハートの城はというと、領土の上に巨大な雲がかかっている。
 他の領土にも変化が遠目に確認出来る。どうやら全ての領土に嵐が来たらしい。
 しかし時計塔広場に竜巻とは、迷惑この上ない。
 ユリウスは最後のリンゴを頬ばり、ため息をついた。
 腹はまだ空腹を訴えている。
「嵐の最中に、外に出るのか!」
 うんざりして、ため息をついた。
「私の外見に、奇天烈な変化が起こっていなければいいが……」
 窓ガラスに映る自分を見る。
 短髪の時計屋が、不機嫌そうに睨んでいた。

 …………

 市場はにぎやかだった。
「これと、これを……」
「へい、毎度あり!」
 ずしっと重い紙袋を渡された。
 久しく買い出しに行っていなかったので、荷物はかなり多くなって
しまった。本来なら嵐の前にすませるべきものを。
 市場を後にしながら、ユリウスは顔をしかめる。
「いや仕方なかったんだ。身体を動かせないほど疲労していたし……」
 自分に言い訳してから首をかしげる。
 それくらい疲労していて、自分はどの時点でリンゴを手に入れたのだろう。
 なぜ起きたとき服を脱ぎ散らかし、裸で寝ていたのだろう。
 だが深く考えようとすると、頭の中に霧がかかったようになり、思考が
あいまいになる。
「まあいいか……」
 これだけあれば、嵐の期間を十分やり過ごすことが出来る。
 大きな紙袋を抱え、ユリウスは時計塔に急ぐことにした。
 
 
「問題はこれか」
 時計塔広場には小型の竜巻が発生していた。
 奇妙なことに、この竜巻は意思があるかのような行動をする。
 周囲では住人たちが、巻き込まれた者を救おうとしたり、逆に挑発して
遊んだりしていた。
「何とか走り抜けられれば……」
 荷物で思うように動けないが。
 ユリウスは周囲を見ながらタイミングをはかり――走り出した。
「うわっ!」
 別の住人のところに行っていた竜巻が、ユリウスに向かってきた。
「おい! 私はここの主だぞ!」 
 だが竜巻は逆にスピードを速めてくる。
「っ……!!」
 竜巻に突き飛ばされた。幸い時計塔の方に弾かれる。
 動ける範囲に制限があるのか、竜巻もそれ以上は近寄って来ず、別の
住人の方にいってしまった。
「くそ……っ」
 だが犠牲も大きい。紙袋が破け、食べ物が全て転がってしまった。
 とても一人回収しきれる量ではない。
「ああっ!!」
 前髪を乱暴にかき上げ、苛立ちに怒鳴る。
 とりあえず、かき集められるだけかき集めようと、転がったリンゴに手を伸ばした。
 竜巻が轟々と音を立て、うるさいし果物が転がるし、最悪の気分だ。
「……?」
 誰かに見られている気がして、ユリウスは顔を上げた。
 時計塔の方だ。視線を感じる。
 懐に手をやり、スパナを銃に変える。
「誰だ!? 時計塔の敷地内で時計屋に刃向かおうとは良い度胸だ! 出てこい!」
 竜巻を背に、挑発するように怒鳴りつけると、気配があった。
「…………」
「……何だおまえは?」
 時計塔の陰から出てきたのは、少年だった。
 茶の髪に赤い瞳。くすんだ青地の服に剣をさげている。
 小さな剣士といったところか。
 彼は怯えと警戒半々にユリウスを見、

「――っ!」

 その目を見開いた。驚愕をみるみる笑顔に変え、
「――…………っ!!」
 何か言いながら走ってきた。しかし何を言ったのか、背後に竜巻があるせいで聞き取れない。
「おい! それ以上近づくと――」
 撃つ、と言う前に少年は抱きついてきた。
 衝撃で数歩下がる。
「放れろっ!」
 ユリウスは突き飛ばす。
 少年だが剣をさげている。身体に爆弾を巻き付けていないとも限らない。
「わっ!」
 突き飛ばされるとは思わなかったらしい。
 少年は受け身も取れずに地面に転がった。
 ユリウスは構わず銃を突きつける。
「両手を挙げて後ろに下がれ!! 妙な真似をすると撃つぞ!!」
「な、何するんだよ!」
 少年はとてもショックを受けたらしい。
 傷ついた顔で、こちらを睨んできた。
 だが少しするとハッとしたように、大きくまばたきをした。
「あの……――――?」
 少年は小さく何か言った。
 だが声が小さすぎ、また竜巻の音で聞き取れない。
 しかし知り合いかどうか、確認されてるらしいことは分かった。
「私はおまえなど知らないし、会ったこともない!」
 キッパリ言うと、少年の表情にみるみる失望が広がる。
 今度はどうにか聞き取れる声で、
「ご、ごめん。知り合いかと思ったけど違ったみたいだ。
 服も違うし、髪だってそんなに短くないし」
 そしてユリウスの銃を見て、
「本当に悪気はなかったんだ。そろそろ銃を向けるの、止めてくれない?」
 少年は嘘をついている様子ではなさそうだ。
 ユリウスの指示に素直に従い両手を上げ、剣の他に武器がないことを主張する。
「……分かった」
 銃をスパナに戻し、懐にしまう。
「もういい。おまえもとっとと行け」
「うん……」
 彼は大人しく背を向け、立ち去ろうとする。
 ユリウスも心が少し静まり、少年相手に少しおとなげ無かったかも
しれない、という気持ちになってきた。
「おい」
 背を向け、とぼとぼと立ち去ろうとする子に声をかけた。
「何?――え?」
 ユリウスは、落ちたリンゴを一つ、少年に投げる。
 少年は慌ててそれをキャッチし、
「え? な、何?」
「やる。持っていけ」
 理由は説明せず、つっけんどんに言った。
 少年はポカンとした顔でリンゴとユリウスをしばらく見比べ――笑顔になった。
 すぐ駆け寄ってきて、
「なあなあ! 手伝うよ!!」
「は? い、いらん! こら、勝手に拾い出すな!!」
「いいからいいから。一人で拾うの、大変だろ?」
「いい! おまえの手伝いなどいらん! 邪魔をするな!」
 さっきまでの様子はどこに行ったのか、少年はニコニコと上機嫌だ。
 ユリウスは内心『しまった……』と思った。
 知り合いとやらに、顔が似ていたこともあるのだろう。
 リンゴ一つで大した懐かれようだ。
 だが実際、紙袋も破れ、今の自分はシャツ姿だ。
 大量の買い物を一度では抱えきれない。手助けは確かに必要だった。
「盗むんじゃないぞ?」
 釘を刺すと、少年はムッとした顔になり、
「そんなことしないよ! 失礼なおじさんだなあ!」
「お――……っ!?」
 少年の口から出た言葉に愕然とする。
 あのくらいの少年から見たら、自分は確かにそう言われるに値する
外見かもしれない。それは仕方が無い。ショックを受ける方がおかしい。
 むしろどこぞのオーナーのように、否定する方が見苦しいというものだ。
 だが、だが、しかし……。
 すると、隣で少年が大笑いしていた。
「じ、冗談だよ! お、おじ――お兄さん、感情が分かりやすいなあ!」
「…………」
 ユリウスはツカツカと珈琲豆を拾う少年の元に行き……頭に拳固を落とした。
「いったぁ! 何するんだよ! 児童虐待!」
「うるさい! 大人を馬鹿にするからだ! だいたいおまえはどこの誰なんだ!」
 すると少年は頭を抑えながら、
「名前はエース。家は分からない」
「はあ? 分からない?」
 エースという名前にも全く覚えは無い。
 またふざけているのかと、拳固を落とそうとし――動きを止めた。
 少年の目を見て。
「最初はお城にいたんだけど、追い回されて逃げてきた。
 俺、迷っているみたいなんだ」
 もう一度、珈琲の袋を拾いながら、エースがポツリと呟いた。
「それで私を見て知り合いと勘違いし、抱きついてきたのか」
「……うん」
 落ちたものを拾い尽くし、ユリウスはため息をついた。
「とりあえず塔に入るぞ。ついてこい」
「あ、待ってよ!」
 両手いっぱいに荷物を拾ったエースが、ついてくる。
 振り返ってついてくるのを確かめながら、なぜかユリウスは子犬を連想した。
 
 …………

 作業室に戻り、荷物をようやく片付け、ユリウスは珈琲で一息つくことにした。
「飲め」
 熱いカフェオレを手渡した。
「…………」
 エースはじーっとユリウスを見ている。
「どうした? 砂糖を多めに入れてあるぞ」
「そ、そういう意味じゃないよ。子供じゃないんだから!」
 恥ずかしそうに言って、カフェオレを飲むエース。
「やっぱり、ちょっと似ているなと思って……」
「知り合いにか?」
「うん。髪を伸ばしたら、そっくりだと思うんだけど……」
 ユリウスも珈琲を飲みながら、首をかしげる。
 髪を伸ばしたら自分とそっくり。そんな人間に心当たりはない。
 いたら噂の一つくらい、耳に入っているはずだ。
「そんな奴はこの国にはいない」
 いったいこの少年は何者なのだろう。
 よく見ると、まだ役を持っていないようだ。
 となると少し危険な状態だ。それで保護者とはぐれたのだろうか。
「俺、もしかして別の国に来ちゃったのかな……」
 少年がカップのカフェオレを見ながら、ポツリと呟く。
 ありえない話ではない。今は嵐の最中だ。
「おまえがいた国の名前を覚えているか? チェシャ猫に扉をつないでもらった方が早い」
 嵐のさなか、ただでさえお祭り騒ぎに狂った連中の元に行き、しかも
チェシャ猫に頭を下げ、扉をつないでもらう。
 気が進まなさすぎて胃痛さえ感じるが、そんなことは言っていられない。
「いますぐ遊園地に行くぞ、エース」
 立ち上がるが、
「いいよ、俺、自分で帰るから」
 きっぱり言われ、ユリウスは少年をまじまじと見る。
 強がりでは無さそうだ。

「何を言っている、迷子なんだろう!?」
「大声で怒鳴らないでよ。迷子だけど、帰る道は自分で探すから!」
「おまえの探している相手は、この国にはいない。それでどうやって探す」
「大丈夫だって。いつかは辿り着けるさ」
 短絡的に言われ、また怒鳴りそうになったが、ユリウスはどうにか己を沈めた。
 好きにすればいい。自分でそうしたいと言うのなら、こちらとしては
それ以上つきあう義理はない。
「そうか、なら頑張れ。荷物運び、ご苦労だったな。私は仕事に戻る」
 ユリウスは作業台に戻り、眼鏡をかけた。
「……っ」
 眼鏡をかけたユリウスになぜか息を呑んだエースだが、続いてユリウスが
時計修理に入り出すと、
「お兄さん、もしかして時計屋さん?」
「それ以外の何に見える。私は時計屋だ」
 するとエースは不思議そうに首をかしげ、
「あれ? でも時計屋さんって……あれ? あれ?」
 ワケが分からないと言った顔だ。その後、何か質問された気もするが、、
ユリウスは時計修理に没頭し、耳に入らなかった。
 
「……おい……」
 しばらくして時計修理から『戻る』と、エースはまだいた。
 ユリウスの膝に頭をのせ、器用に座りながら寝ていた。
 気づかない自分に非があるかもしれないが、図々しいエースもエースだ。
「おい、起きろ!」
 苛立ちのままエースを揺さぶると、彼は目を開け、
「なあ、時計屋さん。俺、お腹が空いたよ。もうご飯にしようぜ?」
「何を図々しいことを言っているんだ! さっさと出て行け!」
 するとエースは、『帰る道は自分で探す』と言い切ったときの様子は
どこへやら、窓の外を指さし、
「今は夜だぜ? 時計屋さん、子供を夜の街に放り出すの?」
「…………。さっき食料棚にパンを入れただろう。
 それを引っ張り出して勝手に食べていろ」
「ええ、やだよ、夕食にパンだけなんて。
 ベーコンも買ってたじゃない。あれ食べたい。何か作ってくれよ」
 ……もう少しで撃つところだった。
 子供に二度と甘い顔をするまい、と決意しながら立ち上がる。
 殴って、パンだけで満足させるために。

 …………

「ポトフもいいよな。俺、大好き!」
 チーズをのせたトーストも頬ばりながら、子供は満足そうだ。
 ユリウスはこれ以上にないくらい苦い顔をし、自分の分のポトフをすする。
 あの料理の時間だけで、何個の時計を修理出来たかと、そればかり考える。
 そんなユリウスの気を知るはずもなくエースは、
「時計屋さん、ここってお風呂あるの? 
 俺、旅をしてきたからシャワーを浴びたいんだけど……」
 ……熱々の皿を、この図々しいガキにぶつけられたら。

 …………

 時計塔の浴室は、いつになく騒々しかった。
「いいよ! いいってば! 髪くらい自分で洗うから!」
「うるさい、さっき適当に洗っていただろう! 静かにしていろ!」
 怒鳴りつけ、無理やりエースの髪を洗う。
「終わりだ。ほら、お湯をかけるぞ!」
「い、痛い! 目に入った! もっと早く言って――!」
「口に入るぞ。その騒がしい口を閉じていろ!」
 本当に口にお湯が入ったのか、エースはゲホゲホ言っている。
 ユリウスは構わずエースの全身の泡を落とし、
「ほら、さっさと入れ」
 こづいてバスタブに向かわせた。
「時計屋さんって本当に神経質だな。一人でもきれいに使うって」
「迎えに行って溺れていたら、どうするんだ。
 直す時計が一つ増えても困るんだ!」
 続いて自分も湯に入りながら怒鳴る。
「溺れたりしないよ! 子供じゃないんだから!」
「さっさと上がろうとするんじゃない! 肩までつかれ! 百数えるぞ! 一、二……」
「ええ〜! せめて三十にしてよ! 百も数えてたらのぼせちゃうよ!」
「よく言ったな。なら二百だ。三、四……」
「時計屋さーん!!」

 …………

 エースはソファに横たわり、ぐったりしている。
「ほら、飲め」
 今度は冷たい珈琲牛乳だ。
 差し出すとエースは、ガバッと起きて奪い取り、一気に飲んでしまった。
「時計屋さん。もう一杯」
「腹を壊すぞ」
 だが、二杯目を注ぎ足すため受け取る。
 それを渡すと、エースはゆっくり飲みながら、
「時計屋さん。俺、もうちょっと、ここにいていい?」
 ユリウスはため息をつき、窓の外を見た。今回は夜の時間帯が長いようだ。
 窓の外の夜は、明ける気配がない。
 エースが小さくあくびをするのが見えた。
「……分かった」
「やったあ! ありがとう!」
 作業台を見ると、修理を待つ時計が山積みになっていた。
 だが自分自身、もう修理をする気にはなれず、
「エース。まだ寝るな。ベッドまで頑張れ」
「眠いよ。時計屋さん、おんぶしていってよ」
「甘えるんじゃない! ほら、しっかり歩け!」
 手を二度叩き、自分とエースの服を寝間着に着替えさせる。
 エースはユリウスの寝間着にほんのちょっとだけ、目を丸くし、
「……変なパジャマ〜」
 エースの寝間着は自分の色違いだ。
「殴って目を覚まさせてほしいか?」
「何も言ってませーん」
 ユリウスの腕にじゃれるようにし、ベッドまで歩く。
 先にさっさと上がり、横になった。

「ほら、時計屋さんも寝ようよ。過労死しちゃうぜ?」
 実はしかけた。今、そういう状況になろうにも目の前の生意気な
ガキがさせてくれない。
「時計屋さん、髪さ、もっと長くしないの?」
 エースは完全に警戒心を解いて、馴れ馴れしく髪に触れてくる。
 ユリウスは仏頂面で、
「無い。最初から私はこういう髪だ。伸ばす気は無い」
「ええ、伸ばした方がいいのに。眉間にしわを寄せっぱなしなのも、
止めておいた方がいいぜ。そうすれば、もっと似ているのになあ」
「いちいち、おまえの知り合いを基準にするな!」
 そんな調子でエースと話をしていると、時間が経ったような錯覚を覚える。
 しかしこの子供は、本当に誰にも頼らず、自力で別の国に帰るつもりなのだろうか。
 この物騒な国で。保護者も何もなく、子供一人で。
 ユリウスは長々とため息をつく。

「起きたら、他の領土に挨拶に行くぞ」

「え? 何で?」
 エースは眠そうにあくびをしながら、猫のように顔をこすりつけてくる。
「おまえの探し人を探すにしても、仮の宿は必要だろう。
 役持ちが背後についていれば、危険な目にあう確率は多少減る」
「……俺、ここにいてもいいの!?」
 ユリウスはエースの髪を撫でる。
「おまえのような、図々しいガキを引き受けるような物好き、他に誰がいると言うんだ」
 ため息をつきながら言うと、エースが抱きついてきた。
「おい、何をするんだ、気色悪い!」
「時計屋さん、本当にありがとう!」
 そうはしゃぎながら、安心したのか大あくびをする。
「時計屋さん、俺、眠い……」
「ああ。起きたら忙しいんだ。寝ろ」
「うん、寝る」
 一度目を閉じてから、目を開け、
「あのさ時計屋さん……名前、何て言うの?」
「そういえばおまえの探し人の名も聞いていなかったな。
 そいつは、何という名の役持ちなんだ?」
「それは……」
 答えを聞く前に、二人とも眠ってしまった。

 …………

 …………

「何でおまえがベッドに寝ているんだ。しかも寝間着姿で」
「あはははは!?」
 ハートの騎士エースの笑いも疑問系。
 奴なりに、状況を不思議がっているらしい。
 さっぱり分からない。
 起きたらクレイジー・ストームが終わっていた。
 それはいいとして、なぜか自分は寝間着を着てベッドに寝ていた。
 さらに分からないことに、横には色違いの寝間着を着た馬鹿がいた。
 通常、自分以外の相手の『変化』は分かる。
 なのに、双方とも相手の『変化』がさっぱり分からないのだ。
 記憶喪失というわけではない。
 街に買い出しに出かけた記憶は確かにある。
 竜巻を逃れ、少し仕事をしてポトフを作って食べ、風呂に入って寝た。
 だが、なぜ馬鹿が同じ寝間着で寝ているのか。
 詳細を思い出そうとすると、頭に霧がかかったように思い出せない。
「俺も、全く分からないぜ……」
 ユリウスを抱き寄せ、長い髪を撫でながらエースが言う。
「俺は一切合切覚えてないんだけど。
 ただ、何かすごく嬉しいことがあったって言うのは、覚えているんだ」
「嬉しいこと? それと寝間着と関係があるのか? 
 とにかく下りろ、出て行け」
 命令するが、エースはさらにユリウスを抱き寄せる。
「嵐の間に何かあったんだろ? お互い覚えていないなら、それで
いいじゃないか。それより……」
 目覚めてすぐにそれか。本当に馬鹿としか言いようがない。
「いい加減にしろ、エース。私は時計塔に異常がないかを……」
 だが強く抱きしめられた。


「ユリウス。大好きだ」


 唇を重ね、熱くささやかれる。
 だがユリウスは服を脱がされながら、どこか冷ややかな思いでいた。

 ――おまえにとって、私は永久に『代わり』か?

 なぜ唐突にそんなことを思ったのか。
 自分でも分からない。
 だが、時折思うことでもある。

 従うフリをして、実際は支配されている。
 見張られている。
 鎖につなぎ監視されている。
 何かあれば、ためらわず切り捨てられる。
 
「嘘吐きが……」

 仕返しに口づけながら毒づく。
 脳裏になぜか少年のエースが浮かぶ。

 ――もし『私』だったら、決して……。

 目の前の男の中にいる、永遠に汚されない『代えのきかない一人』。
 彼に妬心を抱くのが、どれほど愚かな行為か。

「ユリウス。集中してくれよ」
 苦言を呈され、渋々身体を開く。
 寝間着の中に忍び込んだ手は、下半身に及ぼうとしていた。
 それに反応し始める自分を忌々しく思いながら、騎士に口づける。
 大切なものは全て嵐が奪い去ってしまった。
 思い出せないのに強い痛みがあるのは、なぜだろう。
 だが思い出すことは永遠にない。

「好きだぜ」

「……うるさい」

 何度も口づけを交わしながら、嵐の空白を埋めるために、いつも以上に
強く抱きしめ合う。
「ユリウス。俺が、ずっと守るから……」
「当たり前だ、馬鹿が」
 口づけられた箇所の全てが熱い。

 傍にいてやる。代わりでもいいと、求めてくれるのなら……。

 全てが熱い。喪失の痛みも苛立ちも、全てを激情の内に流しながら、
ただ目の前の男だけを見る。そしてつながる瞬間に思う。

 好きだ……。

 決して言葉にしない言葉も深くに沈め、ただ快感のうちに全てを忘れ去った。

1/1

続き→

トップへ 短編目次

- ナノ -