続き→ トップへ 短編目次

■時計塔のチェシャ猫5

「それじゃ、がんばるからなー」
とエースが笑いながら去って、どれだけ経っただろうか。

「…………」
クローゼットの中から猫が下りた音がした。
それきり足音も立てず、こちらに近づく。
そして自分の横で、何度かためらうように息を吸う音がして、
「その、大丈夫?時計屋さん……」
「…………」
結局、今回もろくな抵抗が出来なかった。
騎士も、猫がいることに気づいていただろうに。
いつもより残酷で、存分にこちらを辱め、苦痛を強いてきた。
ユリウスはというと己がみじめで、情けなくて、されるがままになるしかなかった。
今は憐れみの目がただ辛い。
ユリウスはやっと手を伸ばし、赤と白濁した液に穢れたコートで、同じく体液で
穢れた我が身を覆った。そして床に頭を戻す。
「時計屋さん、すぐ風呂場につなぐから」
猫が遠慮がちに言う声が聞こえた。
「ああ。すまない。つないだ後は、すぐに帰ってくれ」
「…………」
肯定する返事はない。だが否定する声も戻らなかった。

…………

湯気の立ちのぼる浴槽に身体を沈め、ユリウスはぼんやりと天井を見る。
ファーを取ったチェシャ猫は、ユリウスを清めた手ぬぐいを片づけ、浴槽の縁に
手をかけ、湯に片手を浸す。そしてこちらをのぞきこんできた。
「騎士さんってさ。いつもあんたに、あんなことしてるの?」
「……ああ」
「何で抵抗しないんだよ!時間の番人は時計塔じゃ無敵なんだろ?」
自分の髪から水滴がこぼれ、白い湯に波紋を描く。
揺れる水面に映るのは、格下のカードに好きにされ、あるいは哀れまれる男だ。
「奴には私の仕事を手伝ってもらっている。あいつほどの腕の持ち主は、この世界に
何人もいない。手放したくないのが本音だ」
「だからって、あんな風に好きにされるいわれはないだろ!?」
猫は自分のことのように激昂する。
だからユリウスは湯の中からそっと手を伸ばし、猫の頭に触れる。
「……!」
葬儀屋の手であるし、濡れているから嫌がると思った。
だがチェシャ猫は黙り、何も言わずに撫でさせた。
気まずそうに、猫は湯の中の手を泳がせる。
「私が納得していることだ。部外者の心配はいらない」
そして、されるがままになっているチェシャ猫をさらに撫でた。
「ここに住んでも退屈なだけだ。私はときどき遊園地に様子を見に行ってやるから」
そして微笑む。
「元気になって良かったな」

…………

騎士もチェシャ猫も去り、時計塔は静寂に包まれていた。
ユリウスは仕事に戻る気にもなれず、痛む身体をベッドに横たえている。
身体は疲労しているが、いくら目を閉じても眠れない。
立ち去るときのチェシャ猫の、何か言いたそうな顔ばかりが浮かぶ。
騎士とのことは口外しないと約束してくれた。猫だが、約束は守るだろう。
そして自分自身はクローゼットの方を見る。
あの陰が、いつの間にか猫の定位置になっていた。
仕事で疲れ、目を覚ますと肩にファーがかけられていたこともある。
膝に頭をのせ、眠っていたことも。
地味な時計塔に似つかわしくない、派手なピンク色がなぜか懐かしかった。
「…………」
忘れよう、とまた寝返りを打つ。そして騎士にひどくされた場所を下にしてしまい、
小さくうめいて、また目が覚めた。
「……っ?」
そのとき、ベッドの中で何か動く気配を感じた。
ユリウスはギョッとして掛け布を上げる。
刺客にしては隠れる場所が妙だし、騎士ならこんなにコソコソと動かない。
猫でも迷い込んで……
「時計屋さん……ユリウス」
布団の中で丸まっていたチェシャ猫は、嬉しそうに笑う。
「……エサはもうやらんぞ。残っているのは魚肉ソーセージくらいのものだ」
「いいよ。チェシャ猫だから、エサくらい自分で何とかする」
そう言って、ゴロゴロとユリウスに身体をこすりつけた。
何となくその頭を撫でながら、ユリウスはわざと冷たい声で言う。
「遊園地に戻ったのではなかったのか?」
「ああ、戻ってきたよ。おっさんに、当分時計塔に住むからって言ったら、笑って、
頑張れよって言われたけど……まさか、おっさんにも知られてんの?」
「は?あいつにか?そ、そんなはずは……いや、そうではない!」
ユリウスはガバッと起き上がる。
「おまえ、本当に時計塔に住み着くつもりか!?」
チェシャ猫は涼しい顔だ。
普通、男と関係のある男など、不気味がって近寄らないものではないのか。
「だって、騎士さんは、いつもいるわけじゃないんだろ?
なら騎士さんのいないときは俺が見ててあげないと」
「必要ない!動物など機械修理には邪魔だ。私は一人でいたいんだ!」
甘い顔をしたのが間違いだった。痛む身体を無視して、怒鳴る。
「とっとと出て行け!」
「にゃははは。猫に命令なんて誰にも出来ないって」
そしてチェシャ猫は……ユリウスに唇を重ねる。
「……!?」

一瞬、何が起こったか分からなかった。
反応が遅れた数秒で、全ては手遅れになる。
ユリウスはベッドに押し倒された。

5/6

続き→

トップへ 短編目次

- ナノ -