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■時計塔のチェシャ猫4

チェシャ猫はまだユリウスをからかってくる。
「あ、でも俺、そっちのケはないから、好みのタイプでも襲わないでよね?」
「だから違う!私とあいつは別に、な、何でも……!」
するとチェシャ猫は膝から離れ、床で身を折って大爆笑。
「あ、あははは!時計屋さん、真面目すぎて本当に可愛いな。
騎士さんがあんたを構う理由が何となく分かってきたぜ」
「この……っ」
ユリウスは真っ赤になって見下ろし、尻尾を踏んでやろうかと半ば本気で考える。
そして、笑いすぎて涙のにじんだ目でユリウスを見上げる。
「いいだろ?『ユリウス』」
「…………」
本気でここに住むつもりらしい。
ユリウスは強引なチェシャ猫に困り果ててしまった。

……そのとき、部屋の外で小さな物音がした。

「っ!!」
ユリウスはすぐに反応する。そして猫の首を急いでつかむと、大声で言った。
「どうした?扉など急に作って!……え?冗談だった?遊園地に帰る?」
「は?ユリウス、いったい何を……んっ!」
突然、意味不明なことを叫び出したユリウスにチェシャ猫はワケが分からないよう
だった。だがユリウスに手で口をふさがれ、黙らせられる。
ユリウスはチェシャ猫をつかんだまま、足早にクローゼットに行き、そこを開ける。
「そうか。ケガが治ったなら、何よりだ二度と来るなよ。じゃあな!」
さらに大声で言い、クローゼットにチェシャ猫を無理やり押し込む。
「な、何なんだよ、いったい……」
そして、未だに何が何だか分からない様子の彼の耳元で、小さく鋭い声で、
「これから何があっても決して音を立てるな。でなければ命の安全は保証しない」
「はあ……?」
声を上げようとするチェシャ猫の口に人差し指を押し当てる。
「しゃべるな」
「…………」
そう言って、クローゼットの扉を後ろ手にしっかりと閉めた。

同時に、部屋の扉が開いた。

「ユリウス!久しぶりだなあ!」
部屋に入ってきたのは、ろくでなしの部下だった。

「遅い。何百時間帯の遅刻だ。最高記録じゃないのか?」
平静を装い、腕組みをして部下をねめつける。
「あははは!ユリウス、旅こそ人生なんだぜ?」
いつも通りに愚にもつかないことを言い、部下はいつもの血まみれの袋を作業台に
置く。そして仮面を外し、ローブをだらしなくそこらに放り投げた。
「まったく、おまえという奴は……」
と説教しようとして、
「ユリウス……」
気がついたときには腕をからめ取られていた。
「エース……!よせ……」
必死にもがくが、
「目を閉じて」
「……!」
耳元で優しく言われ、身体が動けなくなる。
「ん」
素直に目を閉じると、唇が重なった。
そのときガタッと、クローゼットから音がした気がした。
「っ!!」
ハッとするが、部下はこちらの両頬に手を当て、何度も何度も口づける。
最初は軽く、次第に深く……舌が激しく絡み、唾液の音がやけに大きく響いた。
そして部下の手が背を優しく上下し、ゆっくりと下に移動して。
やっとユリウスは、夢見心地から正気に戻った。
「エース、よせ。今はそういう気分では……!」
必死に腕を突っ張り、エースから逃れようとした。
「っ!!」
さっきの甘い口づけは何だったのか。
逃げようとしたところに、足払いをかけられる。ユリウスは無様に床に倒れ、
「ぐっ!」
背中をブーツで抑えられ、容赦なく体重をかけられる。背骨がきしむような痛みだ。
「この……っ!」
怒りと屈辱に、格下の騎士を見上げる。
エースは笑顔だった。しかしその緋の瞳は笑っていない。

「変な色の猫を飼い始めたんだって?愉しんだ?」

騎士がチラッとクローゼットを見た気がした。
「……っ!」
さらに体重をかけられ、コートの布地がすり切れるほど圧力を加えられる。
だが、部下の言っていることは完全に誤解だ。
「……迷い込んだチェシャ猫を助けはした。だが、もう帰った……」
「へえ。俺が外から聞いてた限りじゃ、猫くんは本気でここに住みたがってたみたい
だけど?どうなんだよ、ユリウス」
ローブと一緒に放った剣を、エースが見るのが分かった。
「……動物の毛は精密機械に良くない。猫など、飼う気はない」
ユリウスは言いながら、さりげなく、クローゼットの様子をうかがう。
扉が少し開いているように見えるのは、気のせいか。
いや、絶対に気のせいだ。中にいるだけなら分からないはず。
チェシャ猫は男同士の抱擁など、目撃してはいない。そうであってほしい。
この騎士と肉体関係にあるとバレたら。
最悪中の最悪の醜聞が、国中に伝播されるかどうかの瀬戸際なのだ。
「ふーん、そっかそっか。安心したぜ」
そう言って、エースはブーツをどける。
ユリウスはホッとして起き上がった。
「なら、さっさと出て行ってくれ。しばらく仕事はない」
「ユリウス、報酬がまだだぜ?」
エースが意味ありげに、飾り時計を指の角で叩く。
こちらのコートの留め具を外し、そっと手を忍ばせてきた。
「エース。気分ではないんだ。大金を払うから今回はそれで手を打って欲しい」
「何言ってるんだ、ユリウス。俺は『そっち』の報酬が欲しくて頑張ったんだぜ?」
「何百時間帯の遅刻のどこが、『頑張った』だ!いや……その、そんなに欲しければ
後でやる。ええと、その……私は火急の用事があるんだ!留守番を頼む!」
と、エースの手を振り払い、出て行こうとした。
珍しくエースが止めなかった。その代わりに、
「そ?じゃ、ユリウスの部屋で鍛錬でもしようかな。
あのクローゼットなんか……よく切れそうだよな」
「……っ!」
部屋の扉に、今にも手をかけようとしていたユリウスの足が止まる。
「エース……」
気づかれている。そしてチェシャ猫は、まだいるのだろうか。

「どうしたんだ?ユリウス。急ぎの用事なんだろう?」
黒い騎士は、爽やかな笑顔でユリウスに笑いかけている。

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