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■時計塔のチェシャ猫2

「おい、エサだ」
「…………」
返ってきたのは、猛烈な警戒のうなり声だった。
ユリウスはうんざりして、ため息をついた。
そして床に皿を置き、呼びかける。
「冗談だ。やわらかく煮込んだグラタンだ。とっとと体力をつけて出て行ってくれ」
それでも返事はない。

とりあえず命の別状がない程度に、チェシャ猫は回復していた。
ユリウスの手によって処置を受け、包帯を正しく巻かれたチェシャ猫。
最初はベッドに寝かせていたが、起きるなり毛を逆立て、クローゼットの陰に走って
隠れてしまった。それからベッドに戻るよう、何度も声をかけたが警戒される。
――全く……。
言葉の通じない動物ではないだろう。こちらは時間を取って治療してやったのに。
感謝しろとは言わないが、最低限の会話くらい協力すべきだろう。
でもあの調子なら、少し回復した時点で出て行ってくれるに違いない。
ユリウスはいつまでもチェシャ猫の相手をしていられず、作業台に戻り、時計の
修理を再開した。ドライバーとピンセットを巧みに操り、時の止まった時計を次々に
修理していく。その作業に集中しているうちに、いつしかチェシャ猫のことを忘れて
しまっていた。

「…………」
いくつ時計を直しただろう。
ユリウスは時計修理からふと我に返り、顔を上げた。
……寝息が聞こえる。クローゼットの陰からだ。
ユリウスは何となく、床を見た。
グラタン皿は空になっていた。

…………

「い、痛……っ!」
顔をしかめ、今にも銃を抜きそうなチェシャ猫に、
「動くと余計に痛い。いいからじっとしていろ」
素っ気なく言って、しかし手つきだけは丁寧に、ユリウスは包帯を巻く。
「ありがと、時計屋さん」
チェシャ猫は恥ずかしそうにお礼を言う。
グラタンがきっかけなのか、慣れてきたのかは分からないが、チェシャ猫は表面上は
警戒を解いて、ユリウスに触らせるようになっていた。
ユリウスはチェシャ猫のために作った料理の皿を出す。
「礼を言うなら、とっとと体力をつけて出て行け。
ほら、シーフードドリアは食えるか?」
「……う、うん」
コクンとうなずき、素直にユリウスから皿を受け取るボリス。
そしてクローゼットの方に持って行き、その影でゆっくり食べる音がした。
ユリウスは腕組みをし、息を吐く。
やはり猫だ。警戒している人間の前では、食べる姿を見せない。
そして汚れた包帯と薬箱を片づけ、時計修理を再開すべく、作業台に戻る。
それから最初の時計を手に取ろうとしたとき、

「……時計屋さん、あんた、食べないの?」

まだ弱々しい声が聞こえた。クローゼットの方だ。ユリウスはハっと笑い、
「私はおまえと違って自己管理が出来ているからな。
食べたくなったら一人で勝手に食べる」
「そうなんだ……」
「…………」
「…………」
それ以上、会話が成立することもなく、ユリウスは無事に修理作業に戻った。


……そして××時間帯後。ユリウスは過労でぶっ倒れた。


…………

「どーこが自己管理出来てるだよ。あんたがここまで不摂生な生活してるなんて、
全然知らなかったぜ。大丈夫?時計屋さん」
チェシャ猫はニヤニヤ笑う。
「う、うるさい……!おまえに同情されるほどでは……」
背中が痛い、肩が痛い、腰が痛い、目の奥が痛い。
頭がガンガンする。空腹過ぎて気持ち悪い。
……ユリウスは部屋のソファに寝かされていた。
倒れたユリウスを介抱したのは、クローゼットの陰から出て来たボリスだ。
ユリウスが倒れたせいか、若干打ち解けている。
チェシャ猫のファーをユリウスに被せると、食料棚を勝手に漁り始めた。
「へえ、いろいろ俺に買ってくれたんだ」
声が嬉しそうだ。ユリウスはムッとして、
「おまえなどに買うわけがないだろう!うぬぼれるな!」
「でも全部、魚か魚の加工品だろ。あー、俺、キャットフードは食べないぜ?
あとは冷凍のお魚さんに魚の干物、魚の缶詰、カマボコ……魚肉ソーセージ?」
勝手に包装を開け、ソーセージを食べ始める。
「んー、イマイチ。やっぱり食べるなら本物のお魚さんだよね」
「……勝手に食うな!私が食べる分も入っている!」
「ああ、そう?ごめんねー」
白々しくそう言って、ソファに横になったユリウスの元に来る。
そして口元にさっきのソーセージをつきつけた。そしてニヤニヤと、
「はい、時計屋さん、あーんして」
「……食べかけのものを人に食わせるつもりか?」
「だって、こんなマズイの、高級な猫は食べないよ。
時計屋さんが食べなかったら窓から捨てちゃうけど」
「食い物を粗末にするな!」
「く……はは。時計屋さんって、面白いよね」
どこらへんがツボに入ったのか、チェシャ猫は腹を抱えて笑いだす。
そして傷口に来たのか『うっ』と眉をひそめた。
「ハッ、馬鹿が……」
笑ってやるが、こちらはソファの上で動けない。
そしてボリスも痛みでやや顔を青ざめさせながら、
「ほ、ほら、チェシャ猫がかまってやってるんだから感謝してよね……」
ツッコミどころのありすぎることを言い、またソーセージを近づける。
「…………」
光景としてはマヌケだが、チェシャ猫なりに気づかってくれてはいるのだろう。
仕方なくユリウスはソーセージに口をつけ、ぼそぼそと食べる。
……確かにあまり美味しくない。しかも猫の食いかけだ。
チェシャ猫は頬杖をついて、大人しく食べるユリウスを見ていた。
「……時計屋さんって、何かほっとけないよな。
放っておくと倒れるまで仕事をしてるなんてさ。
誰か見てる人がいなかったら、そのうち絶対に時計が止まるって」
「大きなお世話だ!おまえこそベラベラしゃべってるヒマがあったら休んでいろ!」
「そう言われるとさ、何かかまいたくなるっていうか〜」
「うるさいっ!とっとと治して出て行け!」
最初の頃のぎこちなさが嘘のように、会話が途切れずに続く。
チェシャ猫はとても楽しそうだった。

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