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■時計塔のチェシャ猫1

時計塔の窓の外には、幻想的な星空が広がっている。
そして陰鬱な作業場に、人の声はない。

時計屋ユリウスは、夜空に己の時計を動かされるでもなく、時計塔の作業場で寡黙に
時計修理を続けていた。
精確な動きで工具を操り、ときおり眼鏡をかけ直し、目元をマッサージする。
ときおり珈琲を飲みに立ち上がるが、すぐに戻ってまた工具を手に取り、時計の
修理を続ける。前に休息を取ったのがいつなのか、それすら定かではないほど、
ユリウスは修理に集中していた。

…………

扉の外で大きな音がした。
「っ!」
ユリウスは時計修理から我に返る。
「く……」
途端に肩に背に、ずっしりと痛みがくる。長時間、同じ姿勢でいたためだ。
目も酷使したため、目がかすむ。さらに糖分の欠如で頭がぼんやりする。
また度を超して仕事に集中してしまったようだ。
めまいを感じ、ユリウスは腕の中に頭を伏せてしまう。
「…………」
そして少し頭を上げ、八つ当たりのように扉を睨んだ。
遅刻魔の部下が到着したのだろう。
自分がこんなにも疲労したのは、奴の到着が遅れたことが原因だ。
遅れた罰にこき使ってやる。
八つ当たり気味な決意を胸に、ユリウスはぶっきらぼうに声をかけた。
「そこにいるのは分かっている。入って来い」
『…………』
扉の外で、珍しくためらう気配があった。開けるか立ち去るか迷っているような。
遅れた自覚があるとは、珍しく殊勝なことだ。
「いいから入って来い。怒ったりはしない」
むろん嘘八百だ。ユリウスは気だるく、机に伏して部下の入室を待った。
やがてためらいがちに扉を開ける音がした。
扉の向こうから、獣と血の臭気が入り込む。
「……?」
またクマにでも襲われたか。半ば呆れたが、どうやら今回も生きているようだ。
だが、どうしてか分からないが、部下の到着に気がゆるむ自分を感じた。
――眠いな……。
相手が何か言っている気がしたが、疲労で意識がもうろうとしているユリウスは、
ほとんど聞き流していた。
「いいから、入って適当に休め。そこの戸棚にパンが入っているから……」
それを私のところに……と言おうとした。
けれどそのときには、ユリウスは夢も見ないほど深い眠りに入っていた。

…………

…………

「ん……」
窓の外は宵闇だ。
深い眠りから覚めたユリウスは小さくうなった。
そして、自分が机に伏して眠っていたことに気がつく。
――よりによって、あいつの前で……。
幸い、襲われてはいないようだ。
小さく舌打ちして、寝すぎて重い頭を起こす。
そのとき、暗い視界の中に鮮やかな色が入った。
「……?」
赤なら、うんざりするくらいに見覚えがあった。
しかし己の目に入ったのは、いかがわしく、どぎつい……。
「っ!」
部屋に部下以外の気配を感じた。
行動は一瞬だった。愛用するスパナを銃に変え、一点を狙う。

暗がりに光るのは金色の猫の目だった。

「何の用だ。チェシャ猫!」

「やっぱり……誰かと勘違いしてたんだ……。
時計屋さんが、俺を、歓迎するから……変だと思ったんだよ」

宵闇のすみでうずくまっていたのは、チェシャ猫だった。
硬くなったパンをかじって、不敵な笑みを浮かべている。だがよく見ると、いつもは
むき出しの腹に包帯が巻かれている。自分で巻いたのか、おざなりな巻き方だ。
そして、その下に小さくは無い赤い染みが見えた。
……撃ち合いか何かで傷を負ったのか。
「言っとくけど、あんたは、俺を、誰かと間違えて部屋に招き入れ、爆睡した……。
あんたの、命を狙うなら……、その間に、いくらでも、出来たんだぜ?」
嘲笑を浮かべているが、声が弱すぎる。精一杯の虚勢にしか感じない。
部下と間違え、他人を入れ、その前で眠るなど。もし相手が刺客なら、今頃こちらの
時計が止まっていた。だが反省は後だ。
ユリウスには、チェシャ猫に優しくする義理は何もない。
「それはすまない。だがここは動物病院ではない。とっとと出て行け!」
チェシャ猫とは撃ち合いをするだけの仲だ。いや、仕事で遊園地に行くたび、遊び
半分で銃撃されるわ、危険な遊具に乗らされるわと、ろくな記憶がない。
突き放すことに一片のためらいもなかった。
「はっ。言われなくたって誰が……」
チェシャ猫は立ち上がろうとし、
「う……っ」
今度は虚勢をはる余裕もないのか、激痛に顔をゆがめ、うずくまる。
「……おい。チェシャ猫」
「寄るなっ!」
思わず近寄ろうとすると、銃を向けられた。警戒しているのか、目がすわり、毛が
逆立っている。まるで手負いの獣……いやそのものだ。
「俺だって、静かな場所に、扉をつなげようとしたら……何だってここに……」
興奮したせいで、体力を消耗しているのだろうか。
息が荒い。顔色は悪くなる一方で手足からは熱が失せているようだ。
そしてにらみ合いがしばし続き、
「…………」
チェシャ猫のまぶたがゆっくり下りる。
手から銃と、小さなパンの塊がこぼれ、床に落ちた。
「チェシャ猫!」
「…………」
どれだけ声をかけても反応しない。
腐るほどに見覚えのある光景だ。ユリウスはゆっくりと椅子から立ち上がる。
「?」
立ち上がったひょうしに、肩から何かが落ちた。見るとチェシャ猫のファーだ。
さっき視界に映ったピンクはこれだったようだ。
――体力が削がれるのに、愚かな……。
プライドの高いチェシャ猫が、自分なりに対価を払おうとしたのかもしれない。
しかし疲労したユリウスが起きるまで相当あったのに、ずっといた。
それだけ身体が自由にならず、傷が深いのだろう。

「…………」

ユリウスは迷う。遊園地のオーナーにでも連絡して引き取らせるべきか?
だが、今は動かすだけでも危険な状態だ。
ならこのまま放置すればいい。放っておいても時計は止まる。苦しみもない。
それが最善の判断だろう。

「…………」
床に落ちたピンクのファーが視界に入る。そして徐々に呼吸を弱くするチェシャ猫。

「……ちっ」
ついにユリウスは舌打ちし、髪をかきむしる。
そして医療用品を取り出すべく、乱暴な足取りで机から離れた。

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