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■犬を飼った話4

「……?――っ!!」
意識が戻った瞬間、大量の水を口から吐き出した。
何が起こったか分かるわけがない。
口に手を当て、むせながら必死に水を吐くと、誰かが背中を叩くのを感じた。
「――?」
振り返ると見覚えある爽やかな笑顔が、
「大丈夫か?ユリウス」
「…………」
ユリウスはしばらく黙り――部下の頭を容赦ない力で殴った。
「い、痛ぇっ!!何するんだよ、ユリウス!」
「やかましい!今までどこをほっつき歩いていた!!」
「ひどいぜ……湖で溺れてたところを助けて人工呼吸までしてやったんだぞ?」
「おまえが迷わなければ、こんな馬鹿なことをせずにすんだんだ!」
ほとんど言いがかりと知りつつ怒鳴る。
よくよく考えれば、テント周辺や湖のほとりを捜すなど、他の捜索法もあっただろうに
あのテントを見た瞬間にまともな判断が吹き飛んでいた。
そして自分を助けるため飛び込んだせいだろうか、部下も半裸で疲れているようだった。
そこでふとユリウスは思い出した。
「エース……」
「え?何?」
どこか嬉しそうに部下が応えた。
「いや、犬だ。エースという名前らしい犬を拾ったんだが、見かけなかったか?
赤い目の大きな犬なんだ。多分、猟犬だと思う……」
「ああ、それは俺が夢魔さんに――」
エースがとても嬉しそうに何か言いかけ、言葉を切った。
「?夢魔が、どうしたんだ?」
ユリウスがいぶかしげに見る中、エースはずいぶんと長いこと宙を仰いでいた。
そして、もう一度ユリウスを見、
「知らない」
「はあ?おまえ、何か言いかけただろう」
「ごめん。知らない」
エースは爽やかに笑うだけだ。その紅の瞳には相変わらず中身がない。
これは追及しても無駄だろう。
――まあ、死体がないから殺したわけではないだろうな。
首輪のついていない大型犬だ。
旅で毛並みも汚れていたし、野犬と見て、追い払うのは間違った判断ではない。
頭のいい犬だったから、きっと飼い主の元にたどりつけるはずだ。
どこか時計が痛むが、疲れのせいに違いない。
「ん……まあ、助かった。礼を言ってやる」
「ええ、偉そうだな。ユリウスー」
そういって笑う姿は懐かしい。
そこでユリウスはくしゃみをした。
夕刻になり、風は冷たい。
ユリウスは服を着ようとし、立ち上がり――ふらついてエースに支えられた。
「あはは。ユリウス、無理するなよ」
「なら服を取ってこい。おまえも服を着ろ」
「ええ?何で?」
「…………」
エースの手が意味ありげにユリウスの肌を撫でる。
「ここは、やっぱり身体で温め合うのが定番だと思わないか?」
「……そして後で風邪を引くのも定番だと思うが」
「あはは。ユリウスと一緒なら、悪くないな」
そう言って、エースはユリウスを押し倒した。そして――

…………

「風邪を引くのはともかく何で私だけが……。
馬鹿は風邪を引かないと知っていたのに……」
「ユリウス−。同じ愚痴を背中で延々と聞かされるのも結構辛いんだぜ?」
エースに背負われ、時計塔への道を進みながら、ユリウスはブツブツ言い続けていた。
いくら嫌味を言っても言い足りない。
こいつがいないおかげで、どれだけ苦労させられたか。
「帰ったら働け。当分休む間はないと思え」
「はいはい」
だがエースは笑ってうなずく。
軽々と病気のユリウスを背負い、嬉々として歩いて行く。
人捜しの旅に出、無事に見つけ、ただ帰る。
それなのに、どこか隙間がある気がする。
気づかれないようにためいきをついたが、
「ユリウス、そんなに落ち込むなよ。たかが犬一匹だろ」
慰められた。だがエースの声はやけに明るい。
そういえば行為の最中もずいぶんと激しかった。どうせまた人の不幸が蜜の味とか
いうことなのだろう。
問い詰めるのも億劫でむすっと黙り込む。なぜか苛々して仕方ない。
「今度からは水に入るときはちゃんと準備体操しろよ。あれ、結構大事なんだぜ」
「うるさい、分かっている」
不機嫌に応えると、また苦笑する気配。
「困った飼い主様だよなあ」
「…………」
ますます不機嫌になり、近づく時計塔を見る。もう絶対に外には出ない。
そしてふと、先ほどのエースの言葉を思い出す。

――そういえば、何で私が事前の運動をせず、湖に入ったと知っているんだ?

少し考え、どうせ遠くで見て楽しんでいたのだろうと勝手に解釈し、さらに嫌味を
ぶつける。エースは笑いながら反撃の言葉を返す。そして本当に嬉しそうに言った。
「やっぱりここが一番好きだな。ユリウスを背負ってやれる、ここが」
何を言っているのか分からない。
ユリウスはおめでたい頭をこづきながら、近づいては遠ざかる時計塔を眺める。
まだ時計は痛いが、もう少しだけ旅の最後の余韻を味わうのもいいかもしれない。

犬を見かけることはそれきりなく、空はどこまでも青かった。

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