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■犬を飼った話1

※原案:和菓子屋様、夕夜様

時計屋ユリウスがその駄犬に会ったのは、仕事を終え、時計塔に帰る最中のことだった。

「ん……?」
懐かしの時計塔に向け、夕暮れの森を歩いていたユリウスは、獣の鳴き声を聞いた。

「……犬か?」

犬の鳴き声だ。キャンキャン吠えている。
だが尋常ではない。森中に鳴り響くような大声で吠えたてている。
威嚇でも喧嘩でもない、悲鳴のような叫び。
いったいなぜあんな声を上げているのだろうか。
……自分の知ったことではない。
ユリウスは足を止めずに時計塔への道を急いだ。
やがて、森をもう少しで抜けるかという地点まで来た。時計塔はもうすぐ先だ。
だが犬の悲鳴はまだ聞こえる。心なしか先ほどより声が弱っている気もした。
ユリウスが無視して森を抜けようとした。

そのとき、鳴き声が止んだ。
足が止まる。

思わず鳴き声の方向を見、そこで我に返った。
――動物のことなど、どうでもいいだろう。
苛々して舌打ちをする。人の命は軽い。まして獣の命などゴミ同然だ。
それに塔にはまだ仕事が残っている。自分は急がなくてはならない。
だが足が動かない。犬一匹どうでもいいのに。
「……生死を確認するだけだ。判別がつかないままでは仕事に支障が出る」
逡巡の挙げ句、ついにユリウスは観念してきびすを返した。
――夕暮れの森の中を、犬の死体を確認しに戻るのか……。
言葉にすると虚しさが倍増される。やはり無駄な行為だ。
ユリウスはさらに反転して時計塔に帰ろうとし――再び森に鳴き声が響いた。
「…………はあ」
ユリウスは肩を落とし、とぼとぼと鳴き声の方向に歩いた。

赤い目の大きな犬だった。
鳴き声から大型犬だろうとは察していたが、オオカミでも狩れそうながっしりした
堂々たる体躯だった。首輪はないが、毛並みもいい。
元は猟犬か何かだったのだろう。
今は後ろ足を熊用の罠に挟まれ、みっともなく鳴き叫んでいる。
幸い罠が古く、骨を砕くには至っていないようだが、それでも痛くないわけがない。
主人に従って猟に出、罠に挟まれて見捨てられたというところか。
――確認したな。よし、帰るぞ。
ユリウスは自分に話しかける。手負いの獣ほど危険なものはない。
まして猟犬ならユリウスの喉笛をかみ砕くくらい、軽くやってのけるだろう。
ユリウスは様子をうかがっていた木陰からこっそり立ち去ろうとした。
そのとき、コートの裾がしげみをかすり、音が出た。
すると犬が鳴くのを止め――ユリウスを見た。
「――っ!」
目が合った。
そして、犬が鳴き出した。前以上、いや倍くらいの音量で。
ユリウスはけたたましさに、思わず耳をふさぎ、後じさる。
だが犬は罠に足を挟まれているのにもかかわらず、懸命にユリウスの方へ身体を
伸ばし、必死に叫んでくる。
騒音に耐えかね、懐から銃を取り出し、鳴き続ける犬の頭に狙いを定めた。
――最初に、こうしてやればよかった。
動けず苦しみながら餓死する運命なら、ここで殺してやるのも慈悲だ。
犬は銃を知っているらしい。さらに騒音を増量させ、激しく吠えてくる。
「く……」
ユリウスは引き金に指をかけた。

…………

「痛っ……」
腕の痛みに指先がかすかに震え、ドライバーの動きが狂った。
「やはりダメか」
時計修理をあきらめたユリウスは、工具を脇に置くと、ためいきをついた。
眼鏡を外し、疲れてもいない目元をマッサージすると、視界のすみで動く塊がある。
足に包帯を巻いた大型犬が、ユリウスを見上げていた。
目が合うと、ワン、と元気な鳴き声をあげる。
そして激しく尻尾を振りながらユリウスに駆け寄ろうとし……怪我をしている足を
床について悲鳴を上げた。
「……馬鹿か、おまえは」
呆れて言うと、キュウン……と決まり悪そうに見上げる。
だがユリウスが椅子を立ち、近寄るとまた尻尾を振った。
「おまえのせいだぞ、この駄犬が」
やわらかな毛皮に手を突っ込む。
そのまま身体を撫でると犬は目を細め、ゴロンと横になって腹を見せた。
求めに応じて腹を撫でていると、また転がり、身体を起こしてユリウスの腕の
あたりに鼻をこすりつける。だが決して力はかけない。
――頭が良いのか馬鹿なのか、よく分からないやつだな。
服に隠れているが、その下は包帯を巻かれている。
犬が深く牙を立てた場所だ。

……ユリウスは動物に対しても押され弱かった。
生存を激しく主張する姿に根負けして、結局助けることにした。
だが一度銃を突きつけたためか犬は警戒していたらしい。
罠を外してやろうと近寄ったユリウスの腕に激しく噛みついた。
一度噛まれただけなら、包帯を巻くほどではなかったのだが、ユリウスは噛まれた
体勢のまま、犬の鼻面に布を巻き固定した。
そうでもなければ危険だ。罠の解除作業をすれば痛みは増すし、混乱した犬が
さらに他の箇所に噛みついただろう。最悪、本当に喉笛を噛み裂いたかもしれない。
犬を押さえ、その間に安全に罠を解除出来た。
とはいえ、そのおかげで腕の傷が深くなったのだが……。
「木でも噛ませておくんだったな」
急場で自分も慌てていたと認めるしかない。
よく消毒したとはいえ、犬が狂犬病でも持っていたら、洒落にならない事態になる
ところだった。
そして罠を解除したところで、犬はどうやら落ち着いた。
ユリウスが救い主だということもわかったらしい。
自由にしてやると尻尾を振り、おずおずと手を舐めてきた。
感動的な救出劇だったわけだが、思ったより傷口は深かった。
時計修理は繊細な仕事だ。巻き戻って傷が完治するまでは休業するほかない。
元凶となった犬を冷たく睨むと、尻尾を振りながら吠えはじめた。
「うるさい、黙れ」
叱りつけると、さらに吠える。
「この駄犬が……」
スパナで頭を殴ってやりたい衝動にかられる。そもそも怪我をしてまで罠を外し、
なぜさらに手間暇かけ、時計塔まで連れ帰ってしまったのだろう。
「…………」
考えるのが嫌になり、立ち上がった。
修理は出来なくとも、他にやることはいくらでもある。
備品の補充をしようと棚の方へ歩くと、犬は足を引きずりながらついてくる。
棚の前で作業を始めると、身体をこすりつけ足下にまとわりついてきた。
「おい、邪魔だ。それに治りが遅くなるから休んでいろ」
通じるはずもないかと内心思いつつ声をかける。
だが、犬は素直にユリウスから離れ、元の場所に戻って丸まった。
「?」
ユリウスは眉をひそめる。そして犬が言葉を理解したような錯覚に陥った。
「そんなはずはないか」
馬鹿馬鹿しい考えに首をふり、作業を再開した。


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