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■子犬になった話2

混乱でひっくり返される家具や珈琲器具。兵士の一人が机から転がり落ちた眼鏡を
踏みつぶす。硬い音と、飛び散る眼鏡の破片。
――おい、その眼鏡は特注品だぞ!後で覚えていろ!
ユリウスは兵士の足下をすり抜け、開いた扉から外に出ると急いで階段を下りる。
幸い時計塔の入り口は開いていた。
ユリウスは一目散にそこを通り抜け、森に駆けだした。

…………

追っ手が来ていないことを確認し、ユリウスはようやく一息ついた。
草むらに転がり、空を仰ぐ。だが人間のときとは違い、長く仰向けでいると体勢が
不安定で苦しい。それに腹を無防備にさらすことへの本能的な恐れを感じる。
――やはり、私は犬なんだな。
改めて実感するとまた転がって四つ足で立ち上がる。
――とりあえず、どこかで眠れるところを探すか。
眠りに落ち、夢魔と会えば何かしら元に戻れるヒントが見つかるだろう。
しかし、今は子犬の姿だ。人間のときは刺客に警戒したが、今は森の獣が怖い。
オオカミやクマにでも会えばひとたまりもない。
ユリウスがうろうろと安全地帯を求めてさ迷いだしたとき、
――ん?
敏感になった犬の聴覚に、獣の走る音と咆吼が届いた。
――クマか。かなり怒っているな。『俺のエサを勝手に盗りやがってっ!!』?
犬になったら動物の話も分かるのか、と内心驚嘆する。
そこでユリウスはハッと我に返る。
――『俺のエサを勝手に盗りやがってっ!!』……?
カラスかキツネのことだろうか。だが、それ以上に思い当たる存在がある。
ユリウスはしばし逡巡し、思い切ってその方向に駆けていった。

…………
――あの馬鹿……。
「あはは。そんなに怒らないでくれよ、クマくん」
どこかで見た覚えのある騎士が、木に登っていた。
木の下には、さきほど怒声をあげていたクマが、怒り狂って木をがりがり引っ掻いている。
しかし騎士はご丁寧に脱いだコートをクマに振って挑発を繰り返している。
どこからどう見てもクマが被害者だ。
――まあ、同情の余地はないな。
騎士のことだし、本気になればクマを斬り捨てるくらい出来るだろう。
ユリウスはそう思い、クマに背を向け森の奥に戻ろうと――

うなり声がして振り向くと、クマが凶悪な顔でこちらに唸っている。

……動物の言語能力を駆使するに、こちらに八つ当たりするつもりらしい。
ユリウスは思わずクマに言った。
『お、おい。私は無関係だぞ。それに盗られる間抜けが悪いんだろうが!』
あ……と思ったとき、クマの目には完璧にユリウスの殺意が宿っていた。
どうも自分は動物になっても皮肉屋の体質らしい。声を上げ、クマが迫ってきた。
ユリウスは必死になって走った。だが、子犬の足で長く走れるわけもない。
――くそ、足が……。
疲労で情けなく地面に転がる。
背後を見ると、自分に巨大な足を叩きつけようとするクマ。
長生きに興味は無いとはいえ、よく分からないうちに子犬になって、クマに人知れず
殺されるという終わり方は、正直どうなのだろう。
いまいち現実味を感じないまま、ユリウスが観念して目を閉じると――
「あはは!クマ君、弱いものいじめは良くないぜ」
ふっと身体が軽くなったかと思うと、ユリウスは宙に浮いていた。
別に死んで魂がどうとかいう話ではなく、誰かに身体を抱えられていた。

「もう大丈夫だよ。正義の騎士が来たからな!」

赤いコートの騎士が、腕の中にユリウスを抱き上げていた。
――いや、おまえが大本だろう。正義の騎士が動物のエサを盗るか?
「走るぜ。つかまってな」
――いや、つかまれって、犬がどうやって……
ツッコミを入れる間もなく、騎士はクマから逃げ、走り出した。
さすが騎士というか、尋常ではない速度だ。
木々が流れるように後ろに過ぎ去っていく。
たちまちクマの声ははるか後ろに遠ざかっていった。

…………

やがてクマの気配も完全に去り、騎士は花畑に出た。
「はあ……はあ……はははっ!」
騎士は笑って花畑に寝転がり、ユリウスを宙に放る。
そして落ちてきたユリウスを両手でキャッチし、両手で抱き上げたまま、
「あんなところを散歩してちゃ危ないぜ、それとも、おまえも旅の途中か?」
『そんなわけあるか、おまえこそまた迷子か?』
ユリウスはそう返事した。だが、
「そうかそうか、君も旅か。俺は時計塔の友達に会いに行く途中なんだ」
ユリウスの胸の時計に『?』という疑問符が宿る。ユリウスはもう一度話しかけた。
『おい、エース。私は時計屋のユリウスだ。分かるか?』
「そうか、そうか。おなかがすいたのか。今何か作ってやるから待ってろよ」
そう言ってエースはユリウスを脇に離し、上機嫌に立ち上がった。
――……?なぜ私の声が分からないんだ?
どうもおかしい。白ウサギは確か獣姿になっても言葉が通じた。
そもそも白ウサギは、獣の姿のときも服を着ていたはずだ。
それなのに今の自分は服を着ていない、言葉も通じない。
――まさか、私は何らかの別の要因で犬の姿になったのか?
焦りが見る間に内側を浸食していく。
――くそ、こんなことしている場合では……!
ユリウスは一目散に時計塔に走ろうとし――
「おいおい、逃げるなよ!」
騎士の手にすくわれた。騎士は得意そうにユリウスに食材を見せ、
「大丈夫だよ。おまえを食べたりしないって。新鮮なウサギ肉だぜ?」
――おまえ……同僚の、同族の肉を食うことに相変わらず葛藤がないんだな。
呆れつつ騎士の腕から逃げることを断念した。
とにかく騎士に守られていれば安全なことは確かだ。眠りについて夢魔に会おう。
騎士はユリウスが逃亡を止めたことを確認すると、その場にテントを張り、
鼻歌まじりに野外料理を作り出した。

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