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■時計屋の優柔不断・下

時計屋ユリウスは時計を修理する。
何もかもを忘れ、ただ時計の修理に埋没する。
何も考えたくはない。
意志の弱い自分にも、巻き込まれたくもない男同士の関係にも。
今このときだけは全てを忘れていたい。
「ん……」
しかし肉体が先に限界を訴え、ついにドライバーが手から滑り落ちる。
ユリウスは眼鏡を外す余裕さえなく、そのまま机に突っ伏した。

…………

…………

牢の壁にもたれ、ユリウスは腕組みをする。
ユリウスは、今は時計屋ではなく、ここの制服をまとっていた。
「やはり、三月ウサギの投獄は確定か?」
「そうだね。最近はたまにしか来ないんだ。罪悪感を忘れたわけじゃないんだろう
けど、あのブラッド=デュプレがバックじゃね……」
監獄の所長は肩をすくめた。
ブラッド=デュプレ。あの厄介な知恵者か。
強大な領主である上、以前にも他の囚人を脱獄させた罪状を持つ。
並のカードよりはるかに厄介だ。
三月ウサギに、監獄から目をそらさせるのは奴にとってお手の物だろう。
しかし、それでも捕らえねばならない。帽子屋を退けてでも。

「やるべきことは明白だ。私が『処刑人』を兼任し、三月ウサギを投獄する」

ユリウスはそう断言した。だが、
「君が『処刑人』ねえ……気迫は結構だけど、具体的にどうするつもり?
処刑だけなら、刺客とか闇討ちとか、やりようがあるだろうけど、投獄じゃあね」
ジョーカーは面白がるような調子だ。
「言っておくが、こっちは動かねえからな。俺たちの領分じゃねえ」
こういうときだけ、黒のジョーカーが現れ、背後からせせら笑う。
ユリウスの災難を楽しんでいるような顔だった。
「こっちは手伝わねえよ。てめえ一人で何とかしな、時計屋」
「元よりそのつもりだ」
ユリウスは冷たく答え、背を向けて歩き出した。
時間の番人として、時間を乱した者には罰を与える。
誰に頼るつもりもない。


ユリウスは外に出るべく、一人で監獄を歩いている。
だが、なかなか外に出られない。常より迷いが強いのかもしれない。
――どうしたものか……。
ジョーカーたちに大見得を切ったものの、帽子屋に守られた凶暴なウサギだ。
狩る妙案は、そう簡単には思いつかない。
だが放置すれば、奴を端緒として、時間が乱れてしまう。
奴が執着していた親友の時計も、すでに修理が終わった。
仲の修復は永久に不可能だ。
「…………?」
そこで歩みを止め、ユリウスは顔をしかめた。
赤い影が視界のすみをよぎったのだ。

……考え事をしているうちに、別の領域に迷い込んだようだ。
自分に舌打ちし、ユリウスはきびすを返そうとした。
勝手に部下を名乗り、そのくせこちらを軽く扱う男に用などない。

「…………」
なぜか足が動かない。なぜ動かないのか、自分でも分からなかった。
――ダメだ。こんなとき甘い顔をするからつけ上がられるんだろう。
己の優柔不断さが今の泥沼を招いたと、さんざん指摘され、自覚もしている。
そう自分を叱咤し、ユリウスは早足で歩き出した。

「おい、エース」

「――っ!!」

呼びかけると、赤いコートの男が止まる。
振り返るのにしばらく間があった。

そしてゆっくりと振り返る。
ハートの騎士エースが。

「その格好……ユリウス……だよな?でも何で、ここに……」

やけに大きく目を見ひらき、呆気に取られたように呼びかける。
ユリウスが看守服だったから、一瞬では分からなかったらしい。
そしてすぐハッとして、
「あ、ああ、そうか。『時計屋』だもんな。俺のとこにも来られるよな」
ユリウスが秩序を維持する側であることを思い出したようだ。
フンッとユリウスは、珍しく戸惑うエースを冷たく見る。
結局声をかけてしまったが、許すつもりはない。
「こんな場所をうろうろするな。ついてこい」
「え?」
言われた言葉が信じられない、という風に、エースはユリウスをまじまじと見る。
「いいから、黙って私についてこい。案内してやる」
「あ、ああ」
歩き出すと、慌てたようにエースが答える。
実際には、ユリウスにもエースの出口など分からない。
だが、馬鹿は気づかないだろう。
チラッと後ろに目をやると、エースは素直についてきていた。
ユリウスは少しだけ安堵した。

…………

無人の監獄を、二人の男が歩いて行く。
いつもはべらべらと口うるさい騎士も、今は無言だった。
「いったい、何をそんなに迷っている?」
やがてユリウスから口を開いた。
「ん?俺はいつでも迷ってるぜ」
エースは平然としている。
「こんな場所をあまりうろつくな。外でもだ。
いい加減にあきらめて、己の役割を受け入れろ」
「うーん、考えとく」
……少しでも諭そうとした己が間抜けだった。ユリウスは嘆息する。
「軍事責任者が男との色恋に入れあげ、それでハートの城がよく保つものだ。
おまえの上司は何も言わないのか?」
「うーん。陛下は気づいてないんじゃないかな。
春になって、花見とかひな祭りとかイースターとか忙しいし、俺には無関心だしね。
ペーターさんはどうだろう?最近、様子がおかしいんだよな。この間もさ……」
「ウサギの話はいい」
「えー、自分から聞いといて、そりゃないぜ、ユリウス。
それに、ペーターさん、最近、本当に面白いんだぜ。何たって――」
「私が聞いたのは女王のことだ。ウサギなど、どいつもこいつも狂っている」
名を聞くだけでも不快だ。
「とにかく、城に戻り、ちゃんと仕事をしろ。いいな」
「はいはい。こっちだと強気だよなあ、ユリウス」
やはりエースはまともに聞いておらず、茶化してくる。
だがこの前とは違い、上機嫌な様子が伝わってくる。
いったい何がきっかけなのか。知りはしないが、疲れる男だ。

「ユリウス。俺、やっぱりユリウスが大好きだよ。
ユリウスが頼んでくれるなら、俺はユリウスのために何でもするぜ」

エースは嬉しそうに言う。
「……おまえに頼むことは何もない」
ぶっきらぼうに答え、出口を目指す。

そして、エースとの意味のない会話はすぐに忘れてしまった。

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