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■迷う者、迷わない者・上

『引き継げるさ。時計屋が時計を修理しているんだ。直された時計はまた別の誰かに
なり、時計の『先代の容れ物』のことなんて、君も含めて、もう誰も……』
『あいつは容れ物なんかじゃないっ!俺は絶対に忘れないっ!!』
『そうかな?帽子屋は君を厚遇してくれるし、部下だって早くも信頼を寄せて
くれているじゃないか。抗争をいくつ制圧して、どれだけ難しい仕事を任された?
もう、帽子屋に追われていた頃のことは考えなくなったんじゃないのかい?』
そういえば、以前はマフィアを憎悪していた。
恐らく親友絡みでの怨恨だったのだろう。
それを忘れたかのように……という自覚はあるらしい。
「そんなわけあるかよ!ブラッドのことはまだ完全に信用しちゃいない。俺は……」
怒気を発する三月ウサギは今にもジョーカーを撃ちそうだ。
だが決して撃ちはしないだろう。
彼は、心の奥底ではジョーカーと会話を続けることを望んでいる。
ジョーカーだけが、自分を責めてくれる唯一の存在だからだ。
そして、ジョーカーに責められ、自分を責め続ける三月ウサギはいずれ……

――なるほど。これなら確かに処刑人は不要だな。

ジョーカーはチラリと、再びユリウスに視線を送った。
お楽しみの邪魔をする気もなかったのでユリウスは黙って背を向けた。
そして監獄の外に出るために歩き出した。
いくつかの角を曲がり、やがて三月ウサギたちの声も遠く聞こえなくなる。
そしてさらに歩いた頃、
「っ!!」
ふいに、赤い影がユリウスの横を通りすぎた。
間近で確かめるまでもなく、誰か分かる。
向こうはユリウスに気づかず歩いて行った。

ハートの騎士だ。
あの爽やかな笑顔は消え、空洞な瞳で、目的もないのか、ふらふらと歩いている。
ユリウスが呆然と見る中で、騎士は角を曲がり、消えた。

「うっとうしい奴だよなあ。ちょくちょく迷い込んできやがる」
いつからいたのか、ユリウスの横で別のジョーカーが腕組みをしながら舌打ちした。

「いくら迷ったところで、あいつがたどりつける場所は決まってるってのによ」
ジョーカーが吐き捨てるように言ったことは、ユリウスにも分かった。
ユリウスは騎士が去った方向を見る。
そして監獄を出るためにゆっくりと目を閉じた。


そして監獄を出て、どれくらいの時間が経っただろう。

ついにユリウスは顔を上げた。
「終わった」

そう呟いた声はかすれている。
汗ばんだ顔から眼鏡がずり落ち、机に乾いた音を立てる。
視界は、眼鏡を外したことと、ひどい眼精疲労で完全にぼやけていた。
いったいどれだけ作業をしていたのだろう。
寝食を忘れて作業を続け、途中でうたた寝して夢魔のいない夢を見、すぐに目覚め、
かろうじて水を一口飲んでパンを一口かじり、さらに作業を続けた。時折、浅すぎる
睡眠を取り、水を一口飲み、さらに作業し、意識が途切れてはまた目覚め、パンを
一口かじり、作業を続け、また目の前が暗くなり、起きて作業を再開する。
それを何度も何度も何度も繰り返した果てに、机には変哲のない時計が一つある。

一から作り直した時計だ。
ユリウスはそれを手に取った。
特に感慨もなく最終確認をすませて時計を置いた。
そして本当の休息を取るべく椅子から立ち上がろうとし――床に倒れた。
「…………」
蓄積した疲労が一気に来たようだ。
立ち上がりが困難な程度に疲弊しているらしい。
弱々しく手を伸ばし、何とか床に触れた。
だが起きようとすると頭が激しく痛み、全身の節々が疲労を訴える。
ふいに嘔吐感を覚え、床でむせるが、幸い胃は空で胃液が少し出ただけだった。
吐く息が白い。
よく考えれば今は冬だ。芯まで凍りつきそうな寒さが身体を蝕む。さっきまで普通に
作業をしていたはずなのに、今は気を抜くと自分の時計まで止まりそうだ。
今度こそ本当に危ないかもしれない。
――気は進まないが、塔の者に助けを求めるよう。
もはや、起き上がって用意していた食事を取ることも出来ない。
いや、それ以前に胃が受けつけず戻してしまうだろう。
かすむ意識と視界の中、ユリウスは時間をかけて床を這う。
「…………」
悪態をつきたくとも声さえ出ない。

…………

朝が来て夜になり夕方になり、また夜が来る。不規則な時間帯が幾度も経過したが、
ユリウスはまだ、震えながら室内を這っていた。
一歩の距離を進むのにも身を削るような体力が必要だ。
意識を失い、目覚めると時間帯が変わっていたこともあった。
体温はどんどん低下していく。
立ち入り禁止のルールは、騎士以外に解いたが、誰か来るはずもない。
寒さをこらえ、冷たい床に手をつき、身体を起こし、何とかまた少し進む。
そうやってじりじりと進み、どうにか入り口の扉が手に触れた。
――開け。
塔の主の力を持って、扉を開く。わずかな隙間が開いた。
救いの光が差し込み、視界はますます利かなくなった。
――あとは、誰かに見つけて……もらえば……
外がかすかに見えたことで一気に力が抜け、指先さえ持ち上げられなくなる。
寒い。もう動けない。
そのとき、声がした。

「ほら、もう少しだけ手を伸ばして」
誰だっただろう。
ひどく近しい誰かの声だった気がする。

「そこだとまだユリウスの領域内だから、俺は触れないんだ」
「…………?」
顔を上げたつもりだったが、きっと果たせていないだろう。
もう誰でも部屋の中に入れるというのに、なぜ来てくれないのだろうか。
声はまだ続く。
「だからさ、もう少し手を伸ばしてくれよ」
声に命じられるまま手を上げ――力を失って床に落ちる。
「だめだめ。もう少しだ。もう少し頑張って。
ユリウスの方から俺のところに来てくれよ。そうしたら、後は俺が全部やるからさ」
「…………」
「ユリウスの方から、俺のところに来るんだ」
安心させる声だった。ユリウスは不明瞭な意識のまま、最後の力をふりしぼって
冷え切った手を動かし、ゆっくりと扉の敷居を越え、室外に置いた。
そして、暖かく力強い手がユリウスの手に触れる。
「よっと!」
それは全力でユリウスを引っぱり、大きな身体を一瞬で部屋の外に引きずり出した。

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