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■時計の修復

よく晴れた朝だった。空は快晴で、薄暗い作業場に日が差し込んでいる。
作業場は一時の雑然とした様相が落ちつき、元のレベルには整理整頓されていた。
時計屋ユリウスが窓に近づくと、雪の街の賑やかなざわめきが聞こえた。
だがユリウスはすぐに窓を閉めて、それらを遮断した。
次に作業中に補給する水や食料を用意する。
修理用の部品や工具を最終点検し、通常の倍以上に壁を覆うメモに全て目を通し、
最後に椅子に腰かけた。

そしてユリウスは眼鏡をかけ、大きく息を吸う。
「よし、始めるか」

三月ウサギが破壊した時計の作り直し作業。
作業場には誰一人、入れはしない。

…………

…………

気がついたとき、ユリウスがいたのは夢の空間だった。

「何というか、おまえのその『一人で勝手に思いつめる癖』は、もはや私以上の
病の域だと思うがな。引きこもりを改めて、もう少し人と接してみたらどうだ?」
「何の用だ、芋虫」
妙な衣装で夢の空間に漂う夢魔を、ユリウスは不機嫌な顔で睨みつける。
今、ユリウスは時計を作り直す大仕事の真っ最中だ。
こちらが忙しいときに限って、何の恨みで人の邪魔をするのか。
「おいおい、おまえは確かに時計の作り直し中だよ。
ただ長時間の作業でうたたねをしただけだ」
「…………」
反論出来ない。
確かに窓の外では何回か時間帯が変わった気もする。だがその後は時間帯の変化さえ
覚えていない。もちろん睡眠も取らず用意した水や食料には、手をつけずじまい。
「だったら、もう目を覚ますことにする。ではな」
立ち去ろうとすると、夢魔が笑いながら、
「おいおい時計屋、もう少し休んでいけよ。
良い仕事のためには適度な休息が不可欠だと言うだろう?」
年中、サボってばかりの芋虫に言われたくはないが、一理ある。
仕方なくユリウスは夢の空間に座り、おまえは消えろ、と夢魔を睨みつけた。
だがユリウスの内心を無視して、夢魔は、
「ハートの騎士を捨てたそうじゃないか。もう部下として扱わないと」
「…………」
私的な人間関係について絡まれ、内心うんざりする。これだから夢魔は嫌だ。
だが芋虫は夢を漂いながら、
「本当に重く考えすぎるんだな。騎士を処刑人にするくらい、いいじゃないか。
断られたら永久にさようなら、と決まったわけじゃないだろう?」
「……余計なお世話だ。こちらの采配に首を突っ込むな」
「騎士も言った通り、おまえのような変人の代わりなど、この世界にはいない。
他の誰も変に思わないさ。双子とチェシャ猫だって、領土を越えて親しくしている」
無視された。双子と猫のあれは、子ども同士の友情だ。
この世界の根幹に関わる一人が軽い発言をしていいのかと説教してやりたいが、
からかわれるだけだろう。
ユリウスも仕方なく口を開く。
「あいつとのことは、何もかも無かった頃に戻したい」
何にも乱されない静謐の日々に戻りたい。願いはそれだけだ。
「無理だろうな。しかし……それなら、騎士を捨てたからと言って、うちの奴に走る
わけではないということだな?」
「――っ!当たり前だ。男同士で、誰がそんな関係になりたいと思うものか!」
一方で唐突に夢魔の部下の話が出て驚いた。
そういえば、この男は自分の側近が男に、それも他の領土の役持ちに片恋している
ことをどう思っているのだろう。
以前に相談を持ちかけたことはあるが未だに本心が分からない。
「さて、ね」
夢魔はニヤニヤと宙を飛び回るだけだ。そしてふいに顔を上げ、
「おっと、呼ばれているようだ」
と、上方に飛んでいく。何の用か知らないが、自分が構いたいときだけ人の夢に入る
など、迷惑この上ない。すると夢魔は消える寸前にユリウスの方を向き、
「そう言うなよ、時計屋。なら、お詫びにいいものを見せてやろう」
「いいもの?」
夢魔が指を鳴らす。すると、ふいに風景が変わった。
「――っ!」
驚いて、声をあげそうになった。

ユリウスの視界に広がったのは、冬でもないのに陰鬱で寒々しい監獄の風景だった。

何を見せる気だ、と周囲に目をこらすと、ふいに『それ』が見えた。

『帽子屋で楽しくやってるのに、過ぎ去ったものに何だってこうも拘泥するかなあ』
『うるせえよ、ジョーカー。俺はただ挨拶しに来ただけだ。元気にやってるって』
一つの檻の前で険悪な顔をする三月ウサギ。
その肩に馴れ馴れしく手をやり、話しかける監獄の所長。
監獄の所長はユリウスに気づいたのか視線をよこすが、三月ウサギは気づかずに
一点を見ている。
その視線を追うと、檻の中に一人の――
『もう、君の親友のことは誰一人覚えていない。
この世界の誰一人。親友の家族さえも』
『俺は覚えている!永久に!俺の時計が止まるまで!!』
三月ウサギが悲痛な顔で叫ぶ。だがジョーカーは本当に楽しそうに、
『そうだ。そして君の時計が止まった瞬間に消える。存在が根底から。
もう過ぎ去った者だ。君だっていつかは親友が存在していたことさえ忘れる』
ジョーカーの声は親しげながら、明らかに三月ウサギを打ちのめしている。
『忘れない。時計は俺が破壊したし、あいつの役は誰にも引き継げねえ!』
だが必死に叫ぶ三月ウサギを、ジョーカーはせせら笑う。

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