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■時計屋の疲労

夜の時間帯のこと。時計屋ユリウスは、クローバーの塔の、自分の作業室にいた。

夜で仕事の時間であるため、今は薄明かりをつけ眼鏡をかけている。
分厚い専門書を次々に開いては、内容を頭に叩きこんでいるようだった。
ユリウスはひとときも休むことなく作業を続ける。
普段はホコリを被っている専門書が抜き出され、あちこちのページに大量の付箋を
貼られ、作業台や床に山を作っている。
壁のメモは一つ残らず新しいものに刷新され、壁を覆い尽くさんばかりだ。
もちろん道具棚から取り出した大小の部品箱も、膨大な量になって床に積まれている。
文字通り足の踏み場がない。

唯一空いた作業台には、泥に汚れた数十の部品が、汚れの巻き戻りを待っていた。

…………

「…………」
ついに気力体力の限界を感じ、ユリウスは立ち上がった。
ユリウスはかれこれ数十時間帯も専門書と格闘し、道具を準備していた。
それでも作業の開始には至らなかった。
休憩するなら今しか空いていない。だがソファは専門書や道具類で埋まっている。
ユリウスはベッドに目を移すが、そこすらも同様だった。
やむなく眼鏡を外して机に置くと、ユリウスはふらふらと作業室を出た。

作業室のすぐ隣の部屋は空き部屋になっていた。
荷物置き場兼、仮眠室にと、夢魔の部下から言われていた。
もちろん使ったことは一度もなかったが。
しかし深刻に休息を必要とするユリウスは、初めてそこに足を踏み入れた。
もちろん内装を鑑賞する気も余裕もなく、ベッドに近づき、上着と靴を放り投げると
音を立てて薄紫の掛布の上に倒れ込む。
その姿勢のまま、目を閉じて夢も見ない深い眠りにつこうとし……

「上掛けくらいしろ、時計屋。ただでさえ不摂生なのに風邪を引くぞ」
「…………!」

聞き覚えのある声に目を開けると、ベッド脇にグレイが立っていた。

グレイは持っていたグラスの飲料を飲み干すと、サイドテーブルにそれを置いた。
そこから、かすかに酒の香が漂う。
いつから?と、声に出すのも億劫でユリウスが目で問いかけると、
「おまえが来る前からここにいた。一時間帯前におまえの部屋に差し入れに行ったが
重要な作業中のようだったから、邪魔をするに忍びなかった。
それで隣の部屋で寂しく飲んでいたら、何とおまえが入ってきてくれたわけだ」
どこかの誰かと違い、夢魔の部下は『役』を尊重してくれる。
声をかけてほしくないときを心得、決して邪魔をすることはない。
グレイはサイドテーブルから別のカップを持ち上げた。
「そういうわけで、冷めているがココアはどうだ?糖分が必要だろう」
ユリウスはうなずくと、ゆっくりと身を起こした。
渡されたカップはひんやりとしていた。冷めたココアは甘ったるさがより舌に来る。
それでも疲労した身体は一気に飲み干し、ユリウスはカップを返して一息ついた。
「悪いな、トカゲ」
「喜んでもらえたようで何よりだ」
受け取ったカップを片づけながら、少し嬉しそうにグレイは笑う。
ユリウスはホッと息をつき、再びベッドに横になった。
そのまま目を閉じようとし、
「だから布団をかけろといっただろう、世話の焼ける奴だな」
そう言いながら、グレイはコートを手近な椅子にかけると、自分もベッドに上がり、
ユリウスの隣に横になった。声を出すのも面倒で無言で非難すると、相手は苦笑し、
「これでも結構自制しているんだぞ。仕事中のおまえに声をかけるタイミングが
見つからず、虚しくここで休憩時間を消費して帰った回数は、両手では足らない」
「…………」
全く気がつかなかった。
そしてグレイはユリウスの髪に手をそえ、軽く自分の方を向かせると唇を重ねた。
「今は、そんな気分ではないんだが……」
「どうせこの後、何十時間帯も仕事漬けなんだろう?少しは抜いておけ」
「それはおまえだろう。自分の盛りがついているだけなのを人に転嫁するな」
皮肉げに言うと、
「はは。それならなおさらだ。お互い楽しい休憩時間を過ごそう」
「楽しい、な……」
グレイの言葉はやわらかく、顔には穏やかな微笑み。だが、ネクタイを外し抵抗を
封じるために手首を縛る動きだけは、いつものとおり。
今となっては儀式のようなものだ。
「時計屋、好きだ……」
ユリウスは言葉を返さない。早く終わるか、自分の睡眠欲が勝つことを願うだけだ。
グレイはユリウスに覆いかぶさり、身体に触れながら優しく抱きしめてくる。
「ん……」
舌が耳朶を這う。グレイは背を優しく撫でながら耳元で甘くささやいた。
「なあ時計屋。そこまで根をつめて仕事をする理由は何だ?」
「もちろん時計を修理するためだ。当たり前のことを聞くな」

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