続き→ トップへ 目次 ■夢魔の部下・下 「何か仰りたいことでも」 「仰るも何も。何度も言わせるな。私は仕事で忙しい」 「最近は大規模な抗争があったわけでもありません。 会食の余裕も無いほどご多忙であられるとは、失礼ながら思えませんが」 「なら夢魔が食事でも持ってこちらに来ればいいだろう。私は部屋を出ない」 他の役持ちなら銃が出ている頃だが、驚いたことにこの男は未だ冷静だった。 「重ねてお願い申し上げます。応じていただけませんか」 ……声が低い。内心の苛立ちが透けて見えるようだ。 しかしユリウスも譲らない。 「何度言っても分からないならハッキリ言おう。会食などごめんだ。 私はこの部屋から出る気は無い。まして相手があの芋虫ならな。 食事中に血を吐かれるなどごめんだ。あんな脆弱で悪趣味な芋虫に誰が――」 言い終わるより前に、背に衝撃が走る。 予想していたユリウスは驚くことも無く苦痛を受け入れた。 部下の男が一瞬で机を飛び越え、椅子に座っていたユリウスを床に叩きつけたのだ。 目を開ければ喉元には切れ味の良さそうなナイフ。 ナイトメアの補佐は静かな声で 「ユリウス殿。わが主への侮辱は控えていただこう。いかに領主クラスの役持ちとて、 小児のごとき暴言が許されるほど品性を欠いた存在ではなかろう」 もう敬語も無い。そして『返答次第では喉をかき切る』。 言葉に出されるまでもなく、ビリビリとした気が伝わってくる。 本気で激昂している。 ユリウスはまた舌打ちした。 それにしてもクローバーの塔はあまりにも活気がある。 誰もが役割に誇りを持ち、活き活きと働いていた。 扉の向こうからは常に賑やかな楽しそうな声が聞こえてくる。 窓から眺めれば、夜にはきらびやかな繁華街の灯り。昼は市が並ぶ賑やかな人通り、 夕刻には帰路につく楽しそうな顔無しの住民たち。治安も良く銃撃も久しく聞かない。 そして、この作業室はあまりにも静かすぎる。 「……謝る気はない」 「何だと?」 「何度でも言ってやる。芋虫を芋虫と呼んで何が悪い」 「……時計を引き継ぐ覚悟は出来たようだな」 グレイの瞳が細くなる。ナイフの先端が動いたとき、 「おーい、グレイ。だから言っただろ。時計屋は絶対来ないって」 「ナイトメア様!」 グレイが立ち上がる。 作業室のドアにもたれて、一人の男が立っていた。 夢の中よりは多少まともな格好をしていた。 生気の薄い顔に飄々(ひょうひょう)とした笑い。 ナイトメア=ゴットシャルクだった。 ………… 「……邪魔だ」 ユリウスは不機嫌に言う。 狭い作業台には無理やりフルコースの食事が乗せられていた。 夢魔が食事一式を持って作業室に押しかけてきたのだ。 そして、夢魔の背後には相変わらず仏頂面の部下が控えている。 「一度くらい来てくれたっていいじゃないか。一度会いたいと思ってたんだ。 でもグレイが変な体面を気にして、私の方から会うのを止めてなあ」 やはり部下の発案だったか。嫌悪の情が高まる一方だ。 チラッと睨むとあちらも睨み返してくる。 主を侮辱したことで、こちらに負けず劣らず嫌われたらしい。 「ちっぽけな時計塔など放っておけばいいだろう」 窓からの景色だけでも分かる。街が時計塔より遥かに遠い。 クローバーの塔は巨大だ。 帽子屋屋敷やハートの城と並ぶ、いやそれ以上の建造物だ。 対する時計塔は決して小さくは無いが、居住者は一人で常に閑散としていた。 クローバーの塔にとって取るに足りない小勢力だ。 「おいおい、自虐的じゃないか。時計屋がいなかったらこの世界は恐ろしく困った ことになるんだぞ。もっと自信を持てよ」 優位に立ったと勘違いしたのか、偉そうな芋虫。 「まあ、しばらく一緒に暮らすんだ。仲良くやっていこうじゃないか」 言って小さな作業机の向こうから手を差し出してくる。 もちろんユリウスは握り返すことはなかった。 ナイトメアは笑って手を引くが、背後の部下は今にも切りかかりそうなまなざしだ。 この男には、なぜだか苛立って仕方ない。 つくづくいけ好かない、合わない男だ。 恐らく相手も同じ思いを抱いているだろう。 その後、会談どころか、話し合いに入る前にナイトメアが血を吐いた。 病弱な夢魔は部下に抱えられて早々に退室し、会食は終わった。 ………… ユリウスは時計屋としての日常を送る。 あれから、特に何ごとも起こらなかった。 やむを得ず所用で外出することもある。 廊下で会う塔の人間を、ユリウスは目も合わせず無視した。 訪れる者もない作業室は相変わらず静かで、波風は何一つ立たない。 ユリウスは必要がない限り部屋を出ず、黙々と仕事をして過ごした。 夢魔にも、あれ以来会っていない。 あのいけすかない夢魔の部下とも、二度と会話することはないだろう。 ユリウスはそう思っていた。 2/5 続き→ トップへ 目次 |