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■行き先の無い迷子

※R15

 頭が痛い。身体が熱っぽくて感覚がない。
 ここはどこだろう?
 薄目を開けると、ぼやけた視界の中、誰かいるのが見えた。
 ――帰って、きた……?
 そう思ったけれど。

「だからさ、本気じゃなかったって言っているだろ?
 怪我をしてるから、落ち着かせようと思って……」
「それで力任せに殴るか! なに考えてるんだ、馬鹿猫!」

 誰かがギャアギャアわめいている。
 ピンクの猫と……黄色い男?
 うるさい。出て行ってほしい。
 ここは、自分の場所なのに。

「うちの門番たちとも、やりあったらしいな。
 何の目的かは知らないが、城に向かうつもりだったようだ」
 初めて聞く声。
 不明瞭な視界だが、徐々に輪郭が見えてくる。
 帽子を被った男だ。椅子に座り、紅茶を飲んでいる。
 脇には見たことのないウサギ耳の男が控えていた。
 ウサギ耳の男は少し疲れているようで、時々小さくあくびをしている。

 そしてエースは、自分が『あの部屋』にいると気づいた。
 時計塔の作業室だ。
 自分はベッドに寝かされている。
 身体の傷には包帯がまかれ、頭には氷嚢(ひょうのう)。
 枕元には水差しとコップが置かれていた。
 だがエースは寝たふりをする。
 息をひそめ、侵入者たちの会話に耳をすませた。
「遊園地で面倒を見るのは構わないぜ?ただ、うちも忙しいから、
衣食住は提供できても、きちんと面倒を見るまでは――」
 どうやら自分のことについて話し合っているらしい。
 もちろん、あんな凶暴な猫がいる遊園地なんてごめんだ。
 文句を言おうと、エースはベッドから起き上がる。
「う……っ……」
 起き上がった瞬間に頭がガンガンして吐きそうになった。
 傷の痛みが何十倍にもなったみたいで、音を立てて横になる。
 だがそれで、下にいる大人たちは気づいたようだ。

「おいおい、無理するなよ。そのまま寝てろ」
 黄色い服の男――遊園地のオーナーが、下から声をかけてくる。
 布団の中に隠れようとすると、
「おまえ、水は飲める? 食べたいものとか……」
 ――さっきのピンク猫! 
 いつの間にか枕元に来ていた。
 エースは睨みつけた。しかし猫は笑い、
「にゃはは。さっきは悪かったって。でも本当に危なかったんだぜ?
 おっさんがおまえを気にして、ここに来てなかったら……」
 頭を撫でようとするのを、ダルい身体を動かし避ける。
 猫は一瞬だけムッとした顔をしたが、すぐに笑う。

 そうしている間も、ベッドの下で大人たちの話は続く。
「後々のことを考えれば、ハートの城が適切ではないか? 女王」
 帽子の男の言に、オーナーもうなずく。
「それはそうだなあ。今は迷子でも、いずれ――――になるんだし……」
 大人達は声を潜めていて、聞き取れない箇所もあった。
 まただ。自分には一言も話を聞かず頭ごなしに話を進められる。
 猫はこちらを構うのに飽きたのか、さっさとベッド下に行ってしまう。

「『後々』? 『いずれ』? 聞いて呆れるわ。
 あんな可愛げの欠片もない子どもなどいらぬ!」
「YESかNOかと問われれば迷わずNOですね」
 きつそうな顔の女性と、冷たそうなウサギ耳の男。
 会ったことがないのに失礼じゃないだろうか。
 無理してベッドから顔をのぞかせると女性――恐らく『女王』――と目があった。
 彼女は舌打ちし、
「あの男は何をしておるのじゃ! 
 子育てなど、わらわの管轄ではないわ! ああイライラする!」
「仕方ねえだろ。あいつは――なんだ!
 子供だけあぶれる軸があったって、おかしくねえだろう?」
『あの男』
『あいつは――なんだ』
『子供だけあぶれる軸』
 ビクンと身体の内側がはねる。だが深く知りたいとは思えなかった。

「やっぱりハートの城が一番いいんだがなあ」
 遊園地のオーナーが言う。
 なにが一番いい、なんだろう。
 そして女王とウサギはハートの城の住人らしい。
 行かなくて良かった、とエースは胸を撫で下ろした。
 だが白ウサギはエースを見上げ、突然ニヤリと笑う。
 エースが身を引くほど邪悪な笑みだった。
「どうしても、というのなら受け入れないでもありません」
「本当か!? 白ウサギ!」
「ええ。今なら矯正が可能でしょう。大人になっても隷属するよう、
徹底的にしつけます。少しでも逆らう素振りを見せれば鞭で――」
「い、いや。もうちょっと穏便に行こうぜ」
 オーナーが手を挙げる。
 このままだと、とんでもないことになりそうだ。
 エースは身を乗り出して言う。

「俺だって、冗談じゃないよ!
 他人に面倒を見られたくないぜ! 動物とおばさんなんかに!!」

 …………

「……だから、ハートの城が一番良かったんだがなあ」
 遊園地のオーナーはため息をつく。
 女王と白ウサギは怒って去ってしまった。
 もっとも帰るまでに、女王がエースの首を斬ろうとしたり、白ウサギが
撃ってこようとしたり、一悶着あった。
「冗談じゃないよ。何であんな奴らが『一番良かった』んだよ!」
 ケンカ腰で言うが、オーナーはあいまいに笑い、応えない。
 そして帽子屋が席を立ち、椅子を蹴った。
 重そうな椅子が転がる音に、室内が静まりかえった。
「むろん、我が屋敷もお断りだ。マフィアが子育てなど。まして――」
 チラッとエースを見上げる。その瞳には何の感情も見えなかった。
 背後に控えたウサギ男――やはり眠そうで、話し合いの間、ときどき
舟をこいでいた――は、帽子男ほどではないが、
「うちのガキ共と合わねえだろうな。
 二対一で叩きのめされ、斬られるのがオチだ。
 第一、ファミリーにならない、ファミリーでもない奴の面倒は見ねえ」
「おい。子供の前でそういう言い方はよせ!
 一人を放っておくわけに、いかんだろうが」
 オーナーの男が少し声を低くする。
 大人に気を使われなくても分かる。自分は完全な厄介者らしい。
「養ってどうするんだよ。デカくなったって、よその領土の奴だ。
 面倒を見る義務も義理もねえ。一番いいのは、こうすることだろう?」
「っ!!」
 銃だ。
 オレンジの方のウサギが銃を向け、エースはとっさに枕元の剣を取る。
「おいっ!」
「バーカ、剣でどうやって防ぐんだよ」
「よさないか、馬鹿野郎!」
 オーナーが激昂して怒鳴るが、
「よせ。帰るぞエリオット。面倒だ」
「おう!」
 帽子男の言葉で、オレンジのウサギはさっさと銃をおさめる。
「帽子屋!」
 オーナーが呼ぶが帽子男は帽子を被り直し、
「気まぐれにつきあってやったが、無為だったな。
 子供はおまえにくれてやるから、ペットにでも何でもしろ」
 バタンと重い音をたて、扉が閉まる。
「こら帽子屋! 人を変態みたいに言うんじゃねえよ!」
 オーナーが出口に毒づくが、
「おっさーん。俺も帰っていい? 
 ジェットコースターの改造がまだ途中なんだよね」
 ピンクの猫までもが、尻尾を振って出口に向かう。
「おいボリス。おまえまで――」
 最後まで言わず、猫はどこかに消えた。一瞬のことだった。
 残ったのはオーナーという男と、エースだけだ。

「…………」
 エースは冷ややかな眼差しで、残った男を見下ろす。
「おじさんも帰っていいよ」
「……お、おじ……!? いやそうじゃねえ。
 まあそういうわけで、遊園地で面倒見てやるから。な、安心しろ!」
 そう言って笑顔になり、こちらに手を伸ばす。
 だがさっき、忙しくて面倒をきちんと見られないと、言っていたはずだ。

「いいよ。俺、ここで一人でやっていくから。放っておいてよ」

 …………

 …………

 テントの中で薄目を開ける。
 布張りの間からのぞく光は昼のものだろうか。
「うわ! いけない。早く帰らないと……!」
 ガバッと起き上がり、そこで気づく。
 自分の帰りの早い遅いを気にする者は、誰もいないのだと。
 それはちょっとした解放感を伴った。
「どうしようか……」
 ワクワクと冒険の計画を練り……腹が鳴って少し現実に戻る。
 テントから出ると、森の中だった。
「とりあえず、身体を鍛えないとな」
 エースは素振りを始めるべく剣を取り、考えた。
「一人で生きていくんだ。強くならないと……」


 あの後。あの変な服のオーナーとはモメた。
 最後には助けた恩まで売られ、とにかく遊園地に来いと言われた。
 それでも抵抗すると、治りきってない身体を担がれ、無理やり遊園地に
連れて行かれた。
 と言っても、世話になったのは怪我と熱が完治するまでの、わずかな期間だった。
 身体が全快になって、すぐに逃げ出した。
 オーナーの男は、数回は連れ戻しに来た。
 人員を割いてエースを包囲し、連れ戻し、こんな世界に子供一人で
生きていくことの危うさを、こんこんと説教された。

 だが、最後には諦めたようだ。
 どのみち遊園地は子供の出入りが多く、従業員は皆多忙。
 エースだけを警戒するのには限界がある。
 かといって閉じ込めるのも道理に合わない。
 結局、遊園地ではいつでも食料と寝場所を提供すること、遊園地にとどまる
ことが一番安全なことを重ねて伝えられ、ついにエースは放免になった。

『どうなっても知らねえぞ!』

 頑固さに呆れ果てたのか、遊園地を出るとき、そんなことまで言われた。
 周囲の従業員が驚いたようにオーナーを見ていたから、普段、そんなことを
言う男ではないのだろう。
 だがエースも、遊園地なんて二度と行くつもりはなかった。
 獲物はウサギでも狩ればいい。
 森には食べられる草も木の実もある。
 悪い奴が来ても、剣の腕だって悪くない……はずだ。
 もう少し鍛えれば、自分の剣で稼げるかも。
 少なくとも顔無し相手に負ける気はしない。
 それで次の引っ越しまで頑張って……。
 
 ――次の国でも一人だったら?

 冷たい風が体内に吹く。
「……別にいいさ。俺は元々一人だったんだから」
 エースは森で素振りを続ける。
「九十九、百……!」
 少し強くなった気がした。
 だが育ち盛りの身体は、急な運動に栄養補給の必要性を訴える。
「遊園地、行こうかな……」
 決意もどこへやら、情けなくエースは言った。そのとき、
「ん?」
 空がパッと暗くなる。
「あーあ……」
 肩を落とす。明るくなるまでテントに留まるか、危険を押して街までの
道を探すか。
「……明るい方向に行けば大丈夫だよな」
 エースはテントを畳むことにした。
「よっと……」
  しかし暗闇の中ではテントを畳むのも楽ではない。
「ええと、ここをこう……痛いっ!」
 夜に作業したのが悪かった。支柱が倒れ、手の甲を強打する。
「しくじったなあ……い、痛っ!」
 作業を続けようとして、手の甲の強い痛みに悲鳴を上げる。
「大丈夫、大丈夫……」
 すぐに痛みは消えるだろうと、無理に作業を続けた。

 …………

 リュックの紐が肩に食い込んで痛い。
「ここ、どこだろ……」
 行けども行けども森が続く。
 すでに手持ちの水を飲み干し、喉がカラカラだけど川につき当たらない。
「痛……」
 手をかばう、
 何より嫌なのはテントの支柱で強打した、手の甲の痛みだ。
 最初は少し経てば、すぐ痛みが引くと思っていた。
 だがいくら経過しても痛みは引くどころか、強くなるばかり。
 剣の素振りはもちろん、木に登ることも出来なくなった。
 ――これじゃあ……。
 身を守ることなんて無理だ。
 このまま街にたどり着けないか、熊でも出てきたら、そこで人知れず……。
「……街に出られればいいんだ」
 シャクだけど、すぐ遊園地に行って治療と食料を頼もう。
 もちろん貸しだけ作るつもりはない。何らかの形で返すつもりだ。
 そう思い、重い身体に叱咤し、一歩を――。
「…………やあ」
 目の前に熊がいた。
 どう見ても友好的な様子ではない。
 ついでに言うと、見るからに飢えているようだった。

「――っ!!」
 背を向けて走り出したところで、最もやってはいけない対処法をして
しまったと気づく。肉食動物に背を向けることほど自殺行為はない。
 まして相手が人間を捕食しうる動物ならなおさら。
「誰か……っ!……」
 エースは走って走って走って――。
 ふいに目の前が開けた。

「……っ!?」

「……は?……」

 以前見た、オレンジのウサギがいた。

 …………

 熊が逃げ去ったので、エースはウサギに礼を言うことにした。
「ありがとう、おじさ――痛っ!!」
 容赦なく頭を拳で殴られ、涙目になる。
「俺はエリオットだ。次に言ったら撃つぞ。クソガキ」
 銃で熊を追い払ってくれたおじさ――エリオットは冷ややかだ。
「エリオット。本当にありがとう。俺も戦いたかったんだけど……」
「俺まで襲われかけたからだ。てめえを守ったわけじゃねえ。
 あとその手、多分ヒビが入ってるぜ。早いとこ医者に診てもらえ」
 吐き捨て、背を向けようとする。
 その背中を、エースは慌てて呼び止めた。
「あ、待ってくれよ。街はどこにあるの? 俺、ずっと道に迷ってて……」
「はあぁ!? 迷うような道かよ。帽子屋領の近くの森だぜ?
 そんなに広くもねえ。街なんてちょっと向こうに道があるぞ」
「ええ? そうなの!?」
「……おまえ、方向音痴だな」
「ち、違う! 森が複雑なのが悪いんだよ!」

 赤くなって言い返すと、エリオットはそんなエースをジッと見る。

「……何? 気色悪いんだけど」
 するとエリオットは気まずそうにボソボソと、
「ん? あー。ちょっと溜まってるなあ、俺って思ってたんだ。
 こいつでもいいかって、一瞬思っちまってな」
「?」
 そう言いながら、やはりエリオットはエースをジッと見ている。
 エースはエリオットが、今にも銃を抜くのではと思いながら、
「何の話? 銃の練習台なら顔無しでも撃ってればいいだろ?
 だいたい、あんたこそ、こんな森で何をしてたんだよ」
 そう言うとエリオットがニヤリと笑う。少し含みのある笑みだった。
「息抜きだよ、息抜き。街に買いに行こうにも、仕事が忙しすぎて行けねえ。
 屋敷じゃガキ共がうるせえし、誰かしら俺に指示を仰いできて寝る間もない。
 だが、ここらへんは領地に近いから敵もいないし、ガキ共もここまでは来ねえ。
 だから限界で、どうしても我慢出来ねえときは、ここに来るんだ」
「よく分からないけど、銃の試し打ちでもしてたの?」
「まあ、そんなところだ」
 エリオットは笑う。
 何か他の意味が含まれている気がしたが、エースはよく分からなかった。

「おまえ、本当にゴーランドの世話になった方がいいぜ。
 いくらこの世界がデタラメだからって、つい最近まで――――だった
おまえが、一人でやっていけるほど甘かない」
 エリオットがどうでも良さそうに話すから、また一部聞き取れなかった。
「やっていけるよ! 食べ物だって――」
 瞬間に大きく腹が鳴る。エリオットが立ち止まり、呆れたように振り返った。
 エースはバツが悪く、
「エ、エリオット。何か持っていない? 水でもいいんだけど」
「金は?」
「ない」
「じゃあダメだな。遊園地の道を教えてやるから、その途中で行き倒れろ」
「ひっどいなあ。でも俺だってタダでとは言わないよ。
 お礼に何かするから……」
 危険なものを運ぶ、金を受け取りに行く、連絡の仲介をする。
 何かしら見合う労働は出来ると思う。しかし、
「バーカ。その腫れた手で何が出来るんだ」
「手が治ったら……」
「願い下げだ。第一、うちは部外者に仕事を頼むほど人手不足じゃねえよ」
 にべもなく言われては、引き下がるしかない。
「分かったよ。それじゃあね」
 手が治ったら覚えてろよ、と心の中で毒づき、去ろうとした。
「何?」
 怪我をしていない方の手をつかまれた。
「あ……」
 エリオット自身も無意識だったのか、意外そうに自分の手とエースの顔を
見比べる。しかしすぐ表情を消し、
「……誰にも話さないと約束出来るんなら、考えてもいいぜ」
「本当!?」
 顔が明るくなるのが分かる。エリオットは目に少し暗い色を宿し、
「ああ。ただし……」

 …………

「エリオット……疲れ……」
 口を離そうとしたが、頭をつかまれ、強引に奥まで押し込まれた。
 危うく喉の奥を突きそうになり、涙をにじませ、咳き込むのをこらえる。
「畜生……溜まりすぎだ……こんなガキに欲情するとか……馬鹿か……」
 一方のエリオットはエースの苦痛を意に介さず、奉仕を続けさせている。
 ――何で……。
 口が疲れた。唾液が首筋に滴り気持ち悪い。
 何で女でもないのに、こんなことをさせられるのか。

 誰も来ない森の奥で、突っ立ったウサギに奉仕させられている。
 使えない剣は草むらに放られ、頬は痛い。
 逃げようとしたとき出来た傷だ。
 鳥の鳴き声と木の葉が風に揺れる音。木もれ日がきれいだ。
 こんな状況でなかったら、楽しめただろうに。
 荒っぽいウサギの発情する声と、自分の苦しげな息づかい。
 頭を軽く撫でられた。
「本当に初めてか? 悪くねえ。ああ、でもおまえは、もともと――――
だからな。俺はその影響を受けたのかも……なあ、他の男とも
寝てたんだろう? 何人と寝た? あいつとは、どこまで行った?」
「何の話? ね、寝てないよ!……ぅ……っ!……」
 言葉の一部が不明瞭な上、意味もよく分からない。
 けど侮辱されたことは分かる。
 抗議しようとしたら、殴られた。頬が痛い。
「止めてんじゃねえよ! 撃たれたいのか? 続けろ!」
「…………」
 いつの間にかエリオットの方が立場が上になっている。
 だが拒めば銃を取り出しそうな雰囲気だったので、仕方なく熱く
硬くなった××を咥え、必死に舐める。
「はあ……ん……――……っ……」
 あとはエリオットも奉仕に集中したいらしい。
 葛藤を抱えた表情のまま眉根を寄せ、エースの頭を半ば強引に動かす。
「ん……んん……」
 首を振って苦しさを訴えたが、逆に苦痛が増すだけだった。
 穏やかな森の中に熱に浮かされたような声がしばらく響き……、
「――――っ!!」
 口の中に苦いものが広がり、思わず口を離した。
 直後に顔と服に生温かいものがかかり、独特の臭気が広がる。
 慌ててぬぐったが、不快な感覚は消えない。
「はあ、はあ……」
 全身がひどくショックを受けていた。涙をこぼしたくてたまらないが、
エリオットの前では泣きたくない。
 しかしエリオットは服を整えながら、侮蔑を含んだ眼差しで笑う。
「いい格好じゃねえか、ガキ……ほらよ」
「っ!!」
 水の入った袋とパンを放られ、慌てて飛びつく。
 栓を開けて音を立てて水を飲み、パンを貪った。
 エリオットはその間、立ち去るでもなくエースを見ている。
「おまえ、今はどこに泊まっているんだ?」
 懐から煙草を取り出し、吸い出した。
「……時計塔」
「メシは?」
「自分で取るし、どうしても無いときは遊園地に……」
「ウソつけ。たどりつけねえだろ」
「あんたには関係ないだろ」
 袋は空になり、パンも食べ終わった。早くこんな最悪な場所から離れたい。
「それじゃあ……」
 行こうとした。
 だがエリオットは煙草を靴でもみ消し、立ち上がる。
 エースは一歩引いた。だがエリオットは距離を縮める。
 身を翻そうとしたが、そのまえに腕をつかまれた。
「は、放せよっ!!」
「なあ。多少の手持ちがあった方がいいと思わないか?」
「…………っ……!」
 全身をわしづかみにされたような恐怖が襲う。
「い、いらない! あんたに恵んで欲しいとは思わないっ!!」
 しかしエリオットは、エースを腕の中に引き寄せる。
 全然嬉しくない。むしろ猛獣の牙を突き立てられた気分だった。
「女よりは落ちるが、まあ我慢してやってもいい。
 俺もぜいたくは行ってられないからな」
「何を勝手な……。ぅ……っ……!」
 頬を張られ、引き倒される。
 睨みつけると、エリオットは無表情だった。
「俺は別に×××とか××とか変態ってわけじゃねえ。
 手近な女が出来たら、すぐおまえをお払い箱にしてやるさ」
 そう言って銃を取り、エースの額につきつけた。
「――っ!」
「誰も信じないだろうが、万が一吹聴されても困るしな……」
 エリオットは少し笑ってさえいた。だが目は全く笑っていない。
 切羽つまった欲望と、自分がしようとしている行動が葛藤を引き起こしている。
 そんな顔だった。すぐに銃を引き、強ばるエースに嘲笑を見せる。
「だが今はしねえ。おまえが良い子にしてるんだったらな。
 おまえが――――だったから、まだ誘惑をしかけようとしている。
 それだけだ。俺は忙しい。女を買いに行く暇もない。今だけだ」
 そう言って、エースの両腕を草の上に押さえつけた。
「ま、待って……! ま――」

 …………

 …………

 目を開けると、森の木々が見えた。
 動こうとしたが、全身の痛みですぐには動けない。
 時間をかけ、ゆっくり身体を起こす。
 身体の脇には、少し薄い紙幣の束があった。
 自分の格好は? ひどいものだ。上は首筋までたくし上げられ、下は
剥ぎ取られ、近くの草むらに放られている。
 両足の間から、白濁した液体が流れていくのが見えた。
「…………っ!……」
 紙幣をつかみ、ビリビリにしようとした。
 だが出来なかった。少し前ならためらわず出来たのに。
 エースは震える手で紙幣を懐にしまう。
 そして急いで汚れを拭き、服を整え、傷だらけの身体を覆う。

「……遊園地、行かないと」

 だが行かないだろうと思った。
 自分が心の中で目指す場所は、常にあの塔だ。
 主のいない、独りぼっちの……。

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