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■サーカスの後

ひんやりとした陰鬱な空気が頬を撫でる。
監獄の牢は、どこも滑稽な被り物をした囚人で埋まっていた。
その中の一つ。
そこに鎖につながれたウサギがいる。虚ろな目で遠くを見ていた。
「三月ウサギ。私だ」
ユリウスは声をかけた。だが、憎き時計屋の声に、彼はまばたきもしない。
その瞳は遠い過去だけを見ているようだった。
「…………」
なおも声をかけたものかためらっていると、
「お疲れさま、ユリウス」
後ろからポンと肩を叩かれ、振り向く。
監獄の所長が二人、そこに立っていた。
「無事に罪人を収容できたみたいだね」
「おまえにしちゃあ、派手な方法だったな。まあ、最後が締まらなかったけどな」
粗暴な方のジョーカーが嫌味な声で笑う。
「サーカスの演目ではないんだ。そうきれいに行くか」
「また葬儀屋の評判が下がったみたいだね。まあ、あっちでも頑張って」
ジョーカーの言葉にユリウスはフンッと鼻をならす。
粗暴な方は、鞭をかまえ、嬉しそうに牢の鉄格子を叩く。痛そうな音がした。
「さて、エイプリル・シーズンはまだ残ってる。たっぷり可愛がれそうだな」
三月ウサギはやはり反応をしなかった。

…………

暗く重い海底から、ゆっくりと浮上する。
「ん……」
そしてユリウスは目を開ける。
最初、視界はぼんやりしていた。さらにユリウスは動こうとし、
「く……っ」
ズキリと身体が痛み、眉をひそめる。
だが逆にそれで意識が明瞭になった。
「……エースっ!!」
ユリウスは叫んで飛び起きる。だが返事はない。
慌てて辺りを見回すと、おなじみの作業場だった。
窓の外は晴れ、青空が広がっている。
作業場のストーブがつけられ、室内の空気は暖められていた。
だが、肌に感じる空気に、以前ほどの冷たさは無い。
もちろん作業台には、どっさりと時計が積まれていた。
ユリウスの身体には、あちこち包帯が巻かれ、ご丁寧に寝間着を着せられている。
ゆっくりとユリウスは利き手を動かした。
指先まで動かせる。抹消神経に至るまで傷はない。
ならすぐに修理に入らなければならない。
「……っ……」
身体を動かすと、他の銃創が痛んだ。
しかし構っていられず、ユリウスはギシギシとハシゴを揺らし、ベッドから下りた。
そして慌ただしく着替えていると、作業場の扉が開いた。
ココアを二つのせた盆を持った、トカゲだった。
「時計屋。あまり動くな。傷口が開く」
渋い顔だった。
「私が起きていたのに、気づいていたのか?」
「中で動く音がしたからな。それにそろそろ起きる頃だと思っていた」
そう言って、盆を作業台に置く。そして湯気のわきたつカップを一つ取り、
「飲んでくれるな?」
とこちらに差し出した。

「外はどうなっている?」
作業台に腰かけ、ユリウスは聞いた。ソファに座るトカゲは、
「おおむね落ちついている。帽子屋屋敷は、例によって情報をつかめない」
ユリウスはうなずき、甘ったるいココアを飲む。
「それで、あいつは……いや、何でもない」
聞きかけて言葉を止める。だがトカゲはごく普通の調子で答えた。

「あのガキなら城に強制送還だ。おまえを探して塔の中をうろついているところを、
兵士を引き連れた宰相がやってきて、連れて行った。
奴も抵抗しなかったし、クローバーの塔として、特に止める理由はなかった」

「…………」
「騎士が処刑されたという報はない。だが解任されたという情報もない。
生存は確実だが、噂ではかなり酷使されているらしい」
「そうか……感謝する」
ユリウスはほんの小さく息を吐く。
処刑しなかったということは、生かして苦しませる道を選ばせたということか。
逆に言えば、ハートの騎士の役割から解放されることはありえない。
――しばらくは会えそうにないな。
急に、ココアの味が薄くなったような気がした。
上澄みに糖分が集中しているとは、どういう淹れ方だ?とユリウスは口に出すこと
なく不思議に思い、一気に飲み干した。
そして皮肉気な声がする。
「それで、俺は最後のチャンスまでふいにし、完全にフラれたわけか」
トカゲはこれ以上にない苦い顔だ。ユリウスはしばし沈黙し、
「……あのなあ、トカゲ。おまえ、私があいつを選んだことを、婚約か何かのように
考えているんじゃないのか?私には部下がいないから駒を作った。それだけだ」
「……あのガキはただの馬鹿だ。俺ならナイトメア様に仕えることを絶対に止めたり
しない。あってはならないことだ。役割を放棄し、二君を持つなど……」
嫌悪を顔ににじませ、トカゲが吐き捨てる。大人になってしまえば、何もかも捨てて
恋に走る、という選択肢はそうそう出来るものではない。
「あ、当たり前だ。それが当然のことだ。あいつは少しおかしいんだ」
なぜかトカゲに合わせ、奴をなじってしまう。
「少し?」
「……ものすごく、おかしい」
やや押されつつ訂正すると、トカゲは当然だ、とうなずく。
ユリウスはため息をついた。


ソファに座るトカゲは、かなり落ち込んでいるように見えた。
「確かに俺はナイトメア様を捨てられない。
だが、心の隅で、醜いことを考える自分もいるんだ。
もし俺が、あいつと同じように何もかも捨てて、おまえの下に走ったら……」
「想像がつかないな」
こればかりは即答する。
夢魔を捨てるトカゲ。どう考えても戯れ言でしかない。トカゲは天井を仰ぐ。
「そうだろうな。俺だって想像がつかん。
ナイトメア様は俺の恩人だ。生涯、お仕えする覚悟でいる」
「…………」
トカゲはしごく当たり前の事実を言っただけだろう。
だがユリウスはふいに不安が胸に去来するのを感じた。
自分は、どう考えても、これだけの忠誠を向けられるに足る器ではない。
そして役に縛られた関係でもない。恐ろしく不安定だ。
――私もいつか飽きられ、捨てられることはあるのだろうか。
しかしユリウスは自己嫌悪よりトカゲに注意を戻す。
「その、何というか……トカゲ……」
トカゲは明らかに気落ちしている。
何度も弁解はしている。エースとは主従の誓いを(適当に)立てただけで、決して
同性の恋愛関係を承諾したわけではない。
しかしトカゲは明らかにそう勘違いしている。
ユリウス自身も、もはや訂正する気になれなかった。
……あまりに否定しすぎて、トカゲに変な希望を与えるのも怖かったので。

「振ることはあっても、振られることは初めてだな」
自嘲するようにトカゲは笑う。
「いや、ずっと前、いや最初から時計屋に相手にされていなかったな」
「ん。いや、その……うむ……」
肯定も否定も出来ない。
そして時間帯が変わり、朱い夕日が室内に差し込む。
夕日を背に、トカゲはどこか透明な笑みを浮かべ、言う。
「時計屋、安心しろ。俺は未練がましくつきまとったりはしない」
「あ、ああ」
「ただしばらくは……下手をすると何度か季節が巡るまでは、おまえに冷たくしたり
過度によそよそしくするかもしれない。だが心の整理をつける時間が欲しい」
言っていることは、物わかりのいい男そのもの。
だがその声の裏で、必死に爆発しそうな何かを、押さえている。そんな気がした。
「すまない」

ユリウスもうなずき――意外なことに、小さくはない痛みを己の中に感じた。

――ああ、そうか。
どこかの馬鹿と比すまでもないが、自分も少しはトカゲに惹かれていたのだと。
思い起こせば、辛いときや、危うかったところを救われた記憶は数しれない。
そして頭の中に一瞬だけ、雪の散歩道のことを思う。
あんな時間がずっと続けば、いつかはトカゲに恋心を抱くときも来たのだろうか。
――馬鹿馬鹿しい。
ユリウスはすぐに、妄想を打ち切った。

トカゲが立ち上がり、こちらに近づく。
そして身をかがめ、ユリウスに口づけた。
いつも冷たいと感じていたそれは、意外に暖かかった。
「では、俺はもう行く。ナイトメア様が、また倒れているかもしれないからな」
「ああ、またな」
するとトカゲはフッと笑い、ユリウスの頬に手をあて、言った。

「ありがとう」

その瞳に移る恋情は、未だ冷めてはいなかった。

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