続き→ トップへ 目次 ■笑顔 それから後は、特に劇的な何かが起こったわけでもない。 しばらく野宿生活を続けた後、ユリウスの傷の一部がどうにか戻った。 仕事を長らく放置したユリウスは『まだ大丈夫だろ?』と引き止めるエースを殴り、 どうにかクローバーの塔に帰還した。 ………… 窓の外は分厚い雲がたれこめている。 ユリウスの作業室に立つトカゲは、いっそ怖いほどに無表情だった。 今にもナイフを抜きたいように見えるのは、気のせいだろうか。 「……で?」 外の雪に勝るとも劣らぬ、凍てつく声。 「だからさ、俺はユリウスの正式な部下になったんだよ。 トカゲさん、悪いけどもうユリウスにつきまとわないでくれないかな」 「…………」 馴れ馴れしくユリウスの肩に手を回してくるエース。 ユリウスは手をはらいたい……のだが、腕の傷がまだ癒えていない。 自分から痛いことをするのも面倒だった。 それを良いことに、馬鹿はさらに身体をくっつけてくる。 前にも増して調子に乗るようになったエースに、 ――私は、ケガで判断を誤ったのではないか? という後悔が、ひしひしとユリウスの時計に押し寄せてきた。 「ガキのたわごとは雪山で言え」 案の定『部下』に関する言動を、トカゲは一蹴した。 「おまえが時計屋の何だと主張しようと、俺には相手にする気にもなれん。 俺が聞いているのは、時計屋の傷のことだ」 「…………」 エースとトカゲから注目され、ユリウスは気まずく、工具をいじるフリをする。 三月ウサギの復讐心が苛烈すぎたのだ。 ユリウスの全身は、まだあちこちが包帯だらけだった。 傷の一部は戻ったものの、どうにか日常生活を一人でこなせる程度。 完全復帰には、まだしばしの時間帯が必要だった。 「その……襲撃を受けた」 三月ウサギのことは伏せる。時計破壊の大罪も。 クローバーの塔の有力者に、時計塔のゴタゴタを知られたくない。 「時計屋!騎士にされたのか?そうなんだな!?」 ……トカゲはのっけから決めつけだった。 「あはははは!トカゲさん、俺が恋人に暴力をふるう男に見えるんだ」 『見える』 ユリウスとトカゲの即答が重なった。そしてさらに笑うエース。 ――例え恋人が女だろうと、斬りつけるのを厭わない気がするがな……。 だいたい、三月ウサギのときは、助けようと思えば助けられたのに放置された。 情報収集のためとはいえ、仮にも部下に、恋人にと望む相手への態度だろうか。 ――やはり恋愛感情は建前で、見下して嘲笑う対象として欲されていたのでは……。 根暗なことを考え続けるのが虚しくなり、咳払いをした。 「ゴホン……とにかくトカゲ。エースの仕業ではない。 第一、それだったら、この部屋に入れるものか」 「まあ、それは一理あるな」 「襲撃を受けたんだ。そのせいで帰還が遅れたことは詫びる」 しかしトカゲはまだ納得した顔ではない。 疑わしげに笑顔のエースを見、ユリウスの顔と見比べている。 「だが役持ちの時計屋に、こんな重傷を負わせるとは……相手はいったい誰だ? ナイトメア様や、塔の利害に関わることかもしれない。時計屋、話してほしい」 トカゲの声が一転、低くなり、塔の補佐官の顔がのぞく。 これは以前のように、後々、拷問まがいの追求を受けるかとウンザリする。 「いいから聞け、トカゲ。この件は芋虫……蓑虫やクローバーの塔とは関係な――」 「トカゲさん」 ユリウスを遮り、エースが言ったのは、それだけだった。 だがその声を聞いた瞬間、トカゲの空気が変わる。 身を低くし、いつでもナイフを抜ける体勢になる。 そしてユリウスが止める間もなく、エースも一歩前へ出る。 「トカゲさんさ、ユリウスの事情も察してあげたら? いちおう俺と、ユリウスを奪い合ってるんだぜ? 無理に問いつめたら、ユリウスに嫌われるとか思わないんだ?」 「奪ってみせるさ。だが、それと厄災の種を放置することは別問題だ。 俺はナイトメア様に仕えている。自分の役目を忘れたりはしない」 勘ぐるまでもなく、エースへの皮肉だろう。けれどエースは飄々と、 「へー、恋より仕事なんだ。トカゲさんってつまらないよなー」 ――いや、『役』より自分の欲望を優先するのは、おまえくらいのものだぞ。 ユリウスは突っ込もうかとも思ったが、賢明に止めておくことにした。 「いいから落ち着け。この件は、私の『役』絡みのことでもあるから黙秘する。 だが、この塔の権威や芋……蓑虫の安全を損なうことではない。保証する」 「黙秘を貫くなら、クローバーの塔が支援の手を引く、と言えば?」 トカゲがニヤリと笑う。 現在、時計塔の領土は作業室一室しかない。 そのため、クローバーの塔から支援を受けている、とりわけ時計回収の人員などに。 ――また偽悪者気取りか。 爬虫類の悪趣味にはうんざりする。 だが、クローバーの方から、時計回収の人員をさっ引かれるのも……。 そこでユリウスは気づく。そして冷淡に言ってやった。 「好きにしろ。これからは私の部下が動く」 「……っ!」 トカゲがハッとした顔をした。 ユリウスに新しい手駒が出来たことを思い出したようだ。 「…………」 だが、驚いた顔をしたのは、エースも動揺だった。 ――何だ? てっきり、勝ち誇った笑みでも浮かべると思ったのだが。 エースは笑顔を消し、驚いたような顔でユリウスを見ていた。 「ユリウス……」 ……そしてその表情に、見せかけではない明るさが広がっていく。 ――いったい、何なんだ? 淀んだ何かが払拭され、鮮明で生気に満ちあふれた喜び。剣に触れる手は力強く、 全身に力が入り、隠しきれない本心からの笑みが浮かんでいる。 それはカラッとした不気味な空ではなく、雨が上がった後の青空のような……。 「エース。もしかして、おまえ……」 思わずユリウスは言いかけて、言葉を切る。 ――誰かに必要とされたことがなかったのか? しかし、あまりにも馬鹿馬鹿しい言葉だったので、永久に胸にしまうことにした。 1/5 続き→ トップへ 目次 |