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■忘れた話13

私はナノ。記憶を無くした発酵……じゃない薄幸の少女。

今、ブラッドの本棚を前に私はうなっている。
――うーむ……。
これからブラッドのベッドで寝ようと思っています。
だから、数ページ読んだら確実に安眠出来る本が欲しい。
候補はいろいろあるけど、第一候補はニーチェの『道徳の系譜学』。
うん、迷うことはない。確実に、爽快な睡眠を約束してくれるであろう。
何より、部屋に帰ったブラッドが、難解な本を片手に眠っている私発見。
何て読書熱心、難しい本を読む賢い少女!
うん、好感度が一気に20くらいアップしそうだ。
「うう……」
テーブルに置かれた麦わら帽子を見て、ちょっと頬が熱くなる。
このごろ、ブラッドのことを考えるとなぜだか胸がドキドキする。

偉くてカッコよくて優しいブラッド。
私になかなか以前のことを教えてくれない、意地悪なブラッド。
彼の前ではなぜか可愛い女の子を装いたくなる。
――まあ、私なんか相手にされてないでしょうけど。
でなければ、年頃の少女を自分の部屋に泊めようとか考えるはずがない。
きっと慈善で迷子を置いている、くらいにしか考えられていない。
うん、迷うことなくこの難しそうな本だ。
「…………」
しかし、私の手は動かない。なぜなら隣の本が……。
「…………こ、これは……」
タイトルは言えない、言ってはならない。
普通なら辞書のカバーなんかでこっそり隠しておく類の本。それが堂々と……。
私は、ぶるぶる震えながら隣の本を取ろうとし、ハッとして手を引く。
そして視界に入れまいと目をそらしながら、またチラッと見てしまう。
「ちょ、ちょっとだけ、ちょっとだけですよ?」
誰にともなく言い訳し、そーっと本棚から引き出し、ドキドキしながらこっそりと
最初の1ページを……。

「ほう、お嬢さんはこういった本に興味がおありかな?」
「――っ!」
心臓が止まるかと思った。
いつの間にか、真後ろにブラッドが立っていた。

「興味があるなら、もっと過激なものを取ってあげよう」
ブラッドはニヤニヤと言う。私は大慌てで、
「ちちちち違います!×××××になんて興味ないです!
た、た、ただ、私、キスもしたことないし、大人の世界ってよく知らないですから、
どういうものなのかなーって触りだけでも……ええとあのそのあの!」
「そうかそうか、それは失礼した」
ブラッドはアッサリ引き下がり、私はなぜだかガッカリした気分になる。
そしてニーチェを取ろうとするけれど、ブラッドが私の手を押さえた。
――あ……。
ブラッドは白い手套をしているとはいえ、一瞬重なった手にドキドキする。
――わ、わわ!ブラッドの手が……。
顔が赤くなったのは丸わかりらしい。ブラッドは私に微笑んだ。
「あの本はお嬢さんには早い。それに私がいるとき、本への浮気は禁止する」
「はいです……」
ブラッドにはお見通しだったようだ。彼は先に立って優雅に歩き出す。
私は若干の未練を残しつつ、手招かれるままにブラッドについていった。
――うう、やっぱり全然相手にされてないです……。

…………
ソファに座ってダージリンを飲みながら、私は隣に座るブラッドに言う。
「ブラッド。私、何かお仕事しようと思っているんですが」
「必要ない。君はこの屋敷で好きに過ごしなさい。私が許可しよう」
キッパリと言い切られた。私は若干鼻白みつつも、
「で、ですが、こんな大きなお屋敷に住まわせていただいて、何もしないというのも……」
「君一人を養う余裕くらいは十分にある。とやかく言う者がいれば私に言いなさい。
そいつはすぐにこの屋敷から消えるだろう」
「い、いえ、別に誰にどうこう言われたわけでは……」
冷や汗が出る。知的な外見に似合わず荒っぽい発想の出る人だ。
――というかブラッドは本当に何の仕事をしてるんですかね。
「なら、以前の私は何をしてたんですか?何もせずにブラブラ遊んでたんですか?」
だとしたら自分をちょっと叱ってやりたい。
「そうだな。私に紅茶を淹れてくれていた」
「紅茶?」
記憶喪失前の私は紅茶スキルがあったらしい。
「うーん、淹れられるなら淹れて差し上げたいですけど、今の私には……」
澄んだ色の紅茶に、困った顔の私が浮かぶ。
――でも、ブラッドが喜んでくれるんだったら……。
出来そうな気がする。ちょっと時間はかかるけど。
ちょっと頬を染め、私はブラッドを見る。
――あの、紅茶の淹れ方を私に……。
すぅっと息を吸って、思い切って言おうとした。
でも言葉が出る直前にブラッドがさっさと言った。
「だろうな。あとは、私の飼い猫をしていた」
「へ?」
タイミングを失い、私はボケッと聞き返す。
「飼い猫って何ですか?」
「すぐに分かるさ」
「え?え?」
戸惑っていると、ブラッドがそっと私の手からティーカップを取り上げる。
「ブラッド、それまだ全部飲んでませんよ?」
取り戻そうとするけれど、それはかなわなかった。
ブラッドが私をソファに押し倒した。
「ブラッド?」
よく分からず、友人を見上げていると、ブラッドは襟元のタイを外した。
そして私に向かって、別の誰かに語りかけるように言った。

「君の愚かな試みに感謝しよう」
「は?」
「歓心を買うことで君が手に入れるなら、いくらでも優しくしてあげよう。
それで逃げられると思うのなら……逃げてみろ」
そう言って、私に唇を重ねた。

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