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■怒らせた話13

その劇場の大ホールは、大勢の観客で埋まっていた。
着飾った男女の誰もがこれから始まる演目について、期待をこめてささやき交わして
いる。そして、そんな整然とした秩序に守られた空間が、ふいにざわついた。
ホールを正面から見下ろすバルコニー席。
本来なら王侯貴族しか、入ることの許されない最高クラスの特等席。
そこに、貴族ではない――だが誰もが知っている姿が見えたからだ。
ざわめきは一瞬で収まり、正装した客の群れは、再び取りすました雑談に戻る。
けれど話しつつも、その視線は何度もバルコニー席を盗み見する。
そこには帽子屋ファミリーのボスとその幹部。ボスの連れている女の姿があった。


バルコニーの座席に座った私ですが、どうも落ちつきません。
やはり胸元の涼しさが気になる。
「ブラッド。やっぱり胸が開きすぎじゃないですか?」
隣のブラッドに、ヒソヒソ声で言う。
そう、いつぞやドタキャンした観劇に、情け深くもご主人様はもう一度連れてきて
下さったのです。この観劇、確か再演しないと言ってた気もするけど……マフィア兼
役持ちの権力でも、フル活用したんだろうなあ。
私は、専門職の方に、髪型からメイクから念入りに飾りつけられました。
着せられているのは、高いヒールに、胸と背中が大胆に露出した黒いドレスです。
あちこちに、派手すぎない程度、でも十分に存在感を主張する宝石の類。
トドメに、どこぞのチェシャ猫を連想させないでもない、毛皮のファー。
チェシャ猫さんのファーは自前でしょうが、こちらは光沢のあるパール色。恐らく
本物の高級毛皮でしょう。動物愛護団体に怒られてしまえ。
そして今、ブラッドはチラリと私を見、
「ナノ。顔を上げて堂々としていなさい。十分すぎるほど、似合っている」
「そうそう。アゴ引いて、ツンとすまして『当然よ』って顔をするんだ」
ブラッドの背後に立っていたエリオットが、やけに具体的にご教示下さる。
「そうだよ、お姉さん。あんまりうつむいてちゃダメだよ」
「すっごくきれいなんだから、もっと自信を持った方がいいよ」
私の側を守るのは大人バージョンの双子。彼らも激励してくれる。
バルコニーは広く、もちろん空席はまだあるのに、座っているのは私とブラッドだけ。
もちろんエリオットたちの背後にも、護衛の使用人さんたちがもっと控えている。
でも誰も座ってない。みんな、長い観劇の間、ずっと立ってるのかなあ。
かといって椅子を勧める雰囲気でもないし、私以外はみんな『これが当たり前』って
いう顔をしています。
――はあ、何だって誓っちゃったんですか、私。
ボスに誓ってから、とりあえず××な扱いからは解放されました。
私はちょっとの休憩をさせられた後、飾りつけられ、観劇に同行させられたのです。
そして万雷の拍手が響き、オペラの開演を告げたのでした。

…………

…………

そして××時間帯後。
「なかなか素晴らしい公演だったな。特にあのバリトンのソロは――」
ブラッドはフォークとナイフで肉を切り分けながら言います。
そう、観劇の後はフルコースの料理です。
天井にはきらびやかなシャンデリア。流れるのはクラシック。
壁ぎわにはズラッと控えたファミリーの皆さん、あとウェイターさん。
目の前には……たくさんのお皿と、芸術品のように盛りつけられた高級料理。
ここは、劇場のある通りの中で、最も格の高い料理店です。
今はマフィアのボスの貸し切りで、席につくのは、またも私とブラッドのみ。
「……音楽は素晴らしかったのですが……」
サラダを口に運びながら、私は歯切れ悪く言います。
率直に言えば難解でした。何が何だか分からず、とにかく歌いまくってたとしか。
でも感動したのは確かです。壮麗すぎる舞台に衣装、何より音楽と歌声は、私の胸を
熱く揺らし、娯楽に飢えた身をガンガン打ちのめしまして。
……ただし難しくて、おつむの処理能力をオーバーしたようです。
感動と混乱でいっぱいいっぱいです。
「そう難しい話ではないさ。たかが結婚にまつわるドタバタ劇だ」
対照的に、ブラッドは優雅に子羊のローストをお召し上がりです。
頭の良いボスには、内容がしっかり分かったようで。
「いえ、最初から結婚式だの浮気だの初夜権だのと、かっ飛ばしてて。
あの医者は何だって、理髪師にあそこまで逆恨みしてたんですか?」
慣れないエスカルゴを、喉の奥に押し込みつつ聞いてみた。
「あのオペラは三部作の二作目にあたる。
一作目であの医者は、伯爵夫人との結婚を妨害されているし、理髪師は――」
いや、聞いてないし。
「観てないから知らないですよ、いきなり二作目を観させられても……」
さすがに抗議しますと、ブラッドはワインを飲みながら、驚いた、という顔で、
「ふむ。観ていなくとも、内容くらいは聞きかじっていると思っていたが……。
あの名歌劇のあらすじすら知らないとは、思い至らなかった。君に詫びよう」
真顔で言っている。じ、上流階級め……。
「……ていうか、初夜権って何ですか」
高尚な雰囲気の歌劇では、どうも説明があいまいで分かりませんで。
するとブラッドはニヤッと笑う。
「ああ、それはだな――」
……その後、詳細にご説明いただき、子牛のリブを噴き出すところでした。
まあ貴族風刺の流説にすぎず、実際にはなかっただろうとか何とか。
そして、下世話な方向に話が流れようと、耳の奥に残る歌劇の音楽は、忘れがたい
ほどに美しいものでした。
「あの少年役の方の歌が素晴らしかったです。でも何で女装してたんですか?」
「やれやれ。そのあたりから分からなかったのか。あの下僕は女中のフリをし――」
ブラッドは呆れた顔ながらも、どこか楽しそうに解説してくれる。
そうして、話は途切れることなく、食事の時間は過ぎていきました。


……何だかんだ言って、観劇と高級料理のコースを満喫した私でした。

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