続き→ トップへ 短編目次 長編2目次

■時計屋の親切と不愉快と

雑然とした室内と機械油の匂い。
ずいぶんと久しぶりに見るユリウスの作業場だった。
呆けて立ち尽くしていると、
「おい」
振り向くと、手に湯気の立つ珈琲カップを押しつけられた。
「まず落ち着け。珈琲だ」
「どうも……」
私は呆然と受け取り、立ったまま一口飲む。何でだか味が分からない。
色んなことがあったせいかもしれない。

つまり私は浮気の疑いをかけられ、エリオットに撃たれかけて。
なぜかそこに邪魔が入り、ユリウスが助けてくれた。
そして彼の作業場に連れて行かれたのだ。
でも頭の中はエリオットのことでいっぱいだ。
ユリウスは大丈夫だと言ってたけど、本当に何ともないんだろうか。
大丈夫なのかな。帽子屋屋敷に何ごともなく帰れたのか、すごく心配だ。
そればっかりが心配でソワソワする。
「落ちついたか?」
「あ……はい」
いえ、多分どう見ても落ちついてないけど。
そんな私にユリウスは、室内の棚の方に行き、何か箱を持って戻って来た。
「……足の傷を治してやるから、そこの椅子に座れ」
「え?足の傷?」
私は怪訝な顔でユリウスを見た。すると時計屋は眉をひそめ、
「床を見ろ」
「?……うわっ!!」
床はすごかった。ホラー映画のように、赤の足跡が点々と……。
「裸足でドアの木まで走ったんだ。足の裏が傷だらけになって当然だろう」
「え?ええ……と」
そう言われると、このホラーな足跡の大きさは、ぴったり私の足のサイズで……
「い、痛いっ!!ユリウス!足の裏がすごく痛いです!!痛すぎです!!」
「だから言っただろうが!いいから座れ!動くと余計痛いぞ!!」
窓の外は夜。静かな作業室に、私の悲鳴とユリウスの呆れた声が響いた。

…………

「誰がエリオットを撃ったんですか?」
私はユリウスのベッドから顔を出し、聞いた。
今、私の足は包帯でぐるぐる巻きだ。
とりあえず処置をしてもらって床をきれいに拭いて。
疲労もあるし、立っていられないだろうからと、ベッドに追いやられたのだ。
時計屋は薄明かりの中で修理をしていた。返事をしてもらえないかなと思ったけど、
「私の部下だ。二手に分かれ、後で合流する予定だったが……」
部下って、やっぱりあの人のことだろうか。
病気レベルの方向音痴と合流とな。今も合流地点を目指しさ迷ってることであろう。

「ユリウス。何で、助けに戻ってきてくれたんですか?」
彼は明らかに私を迷惑がっていた。エースにも相談していたらしい。
なのに、私を助けるという、彼らしくない真似を何でしたんだろう。
「自惚れるな、おまえのためではない。ただ……」
ユリウスは言葉を切り、しばらく何か考えている風に、間があった。
「……コートを買い直すのが、面倒だったんだ」
コート一枚のために、わざわざ部下を伴い、陽動作戦まで立てるとか。
「エリオットは大丈夫なんでしょうか」
「他の手駒から連絡が入っている。奴は手傷を負いながら、しばらく狂ったように
おまえを探し回っていたが、最後にはあきらめて帽子屋屋敷に戻ったそうだ」
「そうですか。無事なら良かった……」
天井を眺め、ホッとして呟く。すると下から皮肉気な声が
「良かった?おまえにひどい真似をし、言い分も聞かず撃とうとしたんだぞ?」
……どこから見ていたんだろう、ユリウスは。
「エリオットはしたくてしたわけじゃないですよ。そうさせる私が悪いんです」
「原因があれば、女にどんな非道をはたらいてもいいというのか?
馬鹿じゃないのか?おまえ」
うう、こっちでも相変わらず物言いがきっついなあ。
でも、要はエリオットに怒り、彼に従属する私を諫めているのだ。

「エリオットは会ったときから、ずっとあの調子でしたし……」
「狂ったウサギにあてられ、おまえまで狂ったか?
奴がああだからと、永久に奴隷にされ、振り回されているつもりか?」
「…………」
そう言われると確かに嫌だ。
即効でくじけたとはいえ、一時期は対等な関係を模索もしたし。
ああいう脅しが、この先何度も起こるのは耐えきれない。
元の世界だったら警察なり病院なりが介入するところだけど、ここは異世界だし。
そもそも職業からしてマフィアですしねえ。
私は頭を枕に沈め、ベッドの中でため息をつく。
――私がもっと一途なヒロインだったらなあ。
そうすればきっとエリオットだけしか見ない。
何かあっても勇敢に対処し、自分への疑いを晴らせる。
しかしまあ私だと、ヘタレすぎてビビッてはすぐ逃げ出し、一箇所に長くいない。

「どうすればいいんですかね……」
「知るか、自分で考えろ」
今度こそ素っ気ない返事。
そしてそれ以上、会話は続かず、ユリウスは本格的に修理に集中する。
私も徐々に眠くなってきた。あくびをして、布団にくるまる。
この布団にもう一度くるまる夢をずっと見ていた気がする。
でもいざ実現してみると、ずいぶんとアッサリした感じだった。
けどこれからどうすればいいんだろう。

――エリオットと、別れる?

自分の中で言葉を転がし、ズキッと、ハンパじゃない痛みを感じた。
それに実現性も限りなく低い。私を撃ってでも側に置いておきたいと言われてるし。
そしてそこまで求められて、不誠実な対応しかしてこなくて。

――本当に、私ってダメな奴……。

自己嫌悪と罪悪感だけが、耐えがたいほどにヒドくなっていく。
それきり私は、眠りの中に沈んでいった。

5/5
続き→
トップへ 短編目次 長編2目次


- ナノ -