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■嘘と逃避の代償・下

ピアスは悲惨なことになった顔なしさんを見ただろうに、いつも通りの声だ。
「すごいね、エリーちゃん。またナノが逃げたの?俺、掃除が大変だよ〜」
『ナノが逃げた』という言葉に私はビクッとする。
「いいから掃除しとけよ、ピアス。そこに転がってる奴と、店の中の女だ」
エリオットがぶっきらぼうに言う声がして、足音が去って行く。
そしてちょっと沈黙。あと茶屋の扉を開ける音。ピアスが開けたようだ。
「うわぁ、こっちもすごいねえ。『あのとき』ほどじゃないけど」
「『あのとき』は人数も桁違いだし〜××とか××とか普通にエグってたもんな〜」
「うん、ナノにひどいことした店員とか、弱ってるのを見て見ないフリした、
三人組とか、特にひどかったよね!あのときはお掃除、大変だった!
生きてるのに×××だけ原形を留めてないとか!××つぶされてるとか!
悲鳴がすごいし、動けないようにするの、俺、大変だったよ!」
――……?
一瞬ワケが分からなかったけど、思い当たる。
こちらの世界に来た最初の頃にお世話になった酒場の人たちや、屋敷から逃げて、
路上で死にかけたとき、通りかかったチンピラさんたちのことだ。
でも店員さんが冷たいのは私が仕事出来なかったからだし、チンピラさんたちが
私を見捨てなかったら、私は彼らに××され、どこかの店に売られていただろう。
でもエリオットはどうやって調べたのか、片っ端から制裁を加えたようだ。
当の私でさえ忘れていたのに、何てことを……。
「あと小さい子への××は仕事でも嫌だったな〜」
「でもその方が親もよく吐くだろ〜まあ、最終的にどっちも××するんだけど〜」
まるで野菜の値段の話でもしてるような軽い声。笑い声さえ混じる。
「でも抗争じゃないだけいいよ〜しらみつぶしに×していけばいいんだし〜」
「ちゅう。簡単に言わないでよ。俺の仕事増えるんだから!」
また笑い声。
――マフィアだ……。
あんな、笑いながら、無関係な人たちに……。

急にウッと喉に何かがこみ上げる。
気がつくと湯呑みを持ったまま身を折って、猛烈に吐いていた。
不快な臭気がむわっと立ち上るけど、吐かずにはいられなかった。
変な汗がどっと流れる。目の前のことがガラス一枚へだてた遠い世界のように感じる。
「あれ?変な音しない?」
動物のピアスが言ったのが聞こえる。
「逃げ遅れた奴?ちゅう?俺が拷問しなきゃいけないのかなあ……」
声が聞こえた。私は口元をぬぐい、顔を上げた。
そして明るい通りから、こちらをのぞきこむ可愛い眠りネズミさん。

「ああ、ナノ見つけた!エリーちゃん!エリーちゃーん!!
ナノいたよーっ!!」

誇らしげに、自分が見つけた朗報を伝える大きな声。
そしてこちらに走ってくる音。逃げたいけど逃げられない。逃げてはいけない。
私は湯呑みに残った茶で口をゆすぎ、湯呑みをそっと地面に置いた。
「ナノ!どうしたの?かくれんぼ?エリーちゃん探してるよ!行こう!」
ニコニコと微笑み、私の手をつかんで引っ張っていく。
私は転びそうになりながら、ついていく。

そして通りに引き出された。ピアスがゴミのように、最初の不幸な顔なしさんを
蹴ってどかせ、歩いていく。そして向こうから聞き覚えのある足音がした。
「ナノっ!!」
怖い怖いウサギさんが走ってくる。私はピアスに手を握られ彼に……
「うわっ!ひどいよ、エリーちゃん!」
ピアスの手が突然離れて、何かが倒れる音。
相変わらず扱いが気の毒なピアスが、三月ウサギに、突き飛ばされたらしい。
そして私を抱きしめる大きな腕。
「ナノ、心配したぜ!」
……スーツから、硝煙と赤の匂いがする。
「どこで道草食ってたんだよ!心配して探しに来たんだぜ?」
心配……逃げたと思った、の間違いでは?
それにイライラして、顔なしさんに八つ当たりして回っていたようですが……。
人目構わず、ぎゅうぎゅう抱きしめられながら、私は何とか横を見る。
そこからお茶屋が見えた。
開いた茶屋の中には、赤に染まった、半分だけ人の形をとどめた何かがあった。
そしてビリビリに破られ、メチャメチャに踏みにじられた何かの写真……。
それ以上は直視出来ず、目をそらす。
――私が、勇気を出して踏み込んでいたら……。
通りに倒れてる顔なしさん。彼の家族もどうなるのか。
私が何か頼めば、エリオットは色よい返事をしてくれるだろう、表面上は。
でも最終的に、動かない××が二つ増えるだけだ。マフィアは慈善事業をしない。
近所の人が看てくれることを祈るしかない。そう祈るしか……。
そして私が知らないだけで『あのとき』は、こんな顔なしさんがたくさんいた……。

私の嘘と逃避の代償。
借金みたいに、重ねるほどに膨らんでいく。

狂った三月ウサギは、何も変わらない明るい顔で私を抱きしめ、頭を撫でる。
「よし!屋敷に戻ってメシにしようぜ!あ、先にお茶会かな。
ブラッドの奴、何だかんだ言って、ナノの紅茶にハマったみたいでさ〜。
なら先にどっかホテルにでも……ナノ?」
私は答えない。
そして何度か促され、やっと顔を上げた。
言いたいことは山ほどある。
顔なしさんたちにした、ひどい行為を責める言葉。
他の領土に引っ越すという決意の言葉。
あなたを愛していない。もう従いたくありません、と宣戦布告する勇ましい言葉。
その全てがノドの中をグルグルし……最後に口から出たのは。

「あはは。どこでもいいですよ。あなたの行きたい場所なら」

自己犠牲精神などではない。力と恐怖に膝を折った。
顔なしの人たちに向けられた暴力が、自分に向かうかもしれない。
その恐ろしさに耐えきれなかった。それだけ。

「そっかそっか。じゃ、おまえがそこまでねだるならホテルに行くか」
「もう、そんなこと、一言も言ってないじゃないですか、エリオットぉー」
私は笑いながら、ふざけてエリオットの胸を叩く。エリオットも笑う。
ホッとする周囲の部下さんたち。ずるいずるいと不満そうに言うピアス。

そして私はエリオットに腰を抱かれ、歓楽街に歩き出す。
底の見えない自己嫌悪と罪悪感の泥沼につかりながら。

マフィアが怖くても。エリオットを愛していなかったとしても。
もう私は二度とエリオットから逃げたりしない。


……逃げられない。



(2012/03/05)

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