続き→ トップへ 短編目次 長編2目次

■お仕事始め・塔編

「…………」
人、人、人と三回、手の平に書いて飲み込む。
私は、執務室の前で何度か深呼吸。
そしてグッと唾液を飲み込み、扉をノックした。
「こ、こ、こんにちは、ナノです。お約束通りココアを淹れに……」
すると目の前で扉がうすーく開く。
「入りなさい」
そして中から、氷点下のごときグレイの声がする。
「はいです……」
私はぶるぶると震え、開いた扉の中に、身体を滑り込ませた。

お茶会からちょっと時間帯が経って。私も屋敷内の生活に慣れ、仕事がしたくなった。
そして渋るエリオットに、約束したことだからと説得して、やっと出してもらえた。
飲み物をタダで淹れて回るというお仕事の開始である!

…………
薄暗い執務室には夕日が差し込んでいた。
で、夢魔が逃亡し、誰もいない執務室で、私はグレイにガミガミと叱られていた。

「俺は君という子には心底から呆れた!君を守るため準備した膨大な資料と答弁書が
全て無駄になった!そしてコトもあろうに、俺の目の前で奴に媚びを売るとは……」
「は、はい……何とお詫びを申し上げて良いやら……」
ていうか、媚びなんて売ったっけ?あの会合に関しては何か記憶があいまいで……。
しかしグレイは怒りに震え、声をかけられる状態では無い。そのくらい激怒してる。
「領主会談に俺を同席させず、君をろくに弁護しなかったナイトメア様にも呆れるが
君も君だ!マフィアに少し脅されたくらいで陥落し、三月ウサギに手の平を返して
愛を誓い!これまでの行いを許し、奴の愛人に戻る!そんな馬鹿な話があるか!」
ガミガミガミガミ。私は床に正座し、ひたすら拷問のような時間をやり過ごす。
ナイトメアがいない理由が分かった。こんな大荒れのグレイにつきあってられない。
――いえ、でも顔なしさんをひどい目に合わせるという脅しは『少し』では……。
というかエリオット相手に愛を誓った覚えはないんですが。何なんだろう?

そして気が済むまで私にお説教したグレイは、半泣きの私に、
「……だが、おかげでコトが丸く収まったのは事実だ」
と、最後に渋々認めた。

…………

私はコンロから片手鍋を下ろし、二つのカップに茶こしを当て、ココアを注ぐ。
生クリーム入りの美味しいやつだ。この甘さでグレイの疲れなど取れるがいい。
「どぞ……」
ソファに座るグレイの前にカップを置き、ソファの向かいに座る。
グレイは疲れたように煙草をふかしていた。
「それで、君はこの結果に満足しているのか?2の女でかまわないと?」
グレイは煙草を灰皿に押しつけ、火を消す。そしてココアに口をつけた。
「…………」
エリオットは大好きだ。命を助けられ、他にもたくさんたくさんお世話になった。
抱かれるのも嫌じゃない。ただ……。
私も甘い甘いココアを飲み、ポツリと言う。
「燃え上がった炎ほど収まるのもまた早いと申します。
もしくは、釣った魚にエサはやらない、と」
グレイはしばらくその言葉を吟味し、そしてクククっと笑った。
「三月ウサギも手のかかる女に惚れたものだ」
愉快そうだ。この場にいない相手への嘲笑にも思えた。
そして空になったココアのカップを置き、ふところから煙草を出すと火をつける。
うう、煙いなあ……。
煙を吐きながらグレイは私を見る。
「いつかまた逃げるとして、その後は、また塔で頑張るのか?その紅茶や珈琲の腕を
頼りに生きていこうと思わないのか?喫茶店なんかでは大歓迎だろう?」
グレイがふと思い出した、というように聞いてくる。私は頭をかき、
「そうしたいところなんですが、昔からどうもトラブルの元なんですよね」
余所者はどうしてもモテてしまう。
役持ちが怒鳴り込んでくると分かっていて、私を雇う店なんかない。
「個人店を開いたこともあったんですが、肝心の経営能力が無くて」
帳簿は毎月真っ赤だった。どうでもいい技量だけが備わり、何も活かせやしない。
私は冷めかけたココアをそっと飲む。
「生きていければ、何でもいいです」
「……そうか」
グレイは寂しそうに言った。
そして吸い殻を灰皿でもみ消し、立ち上がった。窓辺に立ち、夕日を見る。
私はその端正な横顔を眺めた。
「時間だけは、この世界に腐るほどある。俺は待とう。君が三月ウサギから解放され、
自由の身になり、俺の元に戻るときまで。君がもう嘘をつかなくてもいいように」
「そのときまで、あなたが私を覚えていてくれたら」
「忘れない。決して」
「グレイ……」
夕日で染めた顔で振り返り、優しく微笑む。
グレイはいい人だなあ。ナイトメアから私のことを頼まれ、その命令を一途に守って
いる。なんて上司に忠実な人なんだろう!
ナイトメアも、表に出さないグレイの忠誠心を分かってあげればいいのに。
――それにしても何で『塔に』戻るではなく『俺の元に』戻るなんでしょう?
その点についてだけ、心の中で首をかしげていると、
「では、互いの決意も新たになったところで……」
グレイが満面の……ちょっと怖い笑顔でデスクに向かう。そのデスクには……。
「え……ちょっとグレイ。それ……っ!」
「とりあえず初日だから、ほんの少しだけにしよう」
「あ、あの、グレイ……それ『ほんの少し?』?」
背中がぞわっとする。本能が告げる。ここから可及的速やかに逃げろと警告する。
「で、では私は次の仕事場に……」
立ち上がる前に、ソファの前のテーブルにドサッと何かが置かれる。
「……っ!」
視界を遮る量の紙の山……。
そして目の前に鉛筆と消しゴムが降ってくる。慌てて受け止めると、
「算数と国語と道徳の問題集だ。簡単なものばかりだから、一時間帯もあれば終わる
だろう。よし、はじめ!」
試験官のような声で勝手にスタートされる。
「ちょ……グレイ?算数と国語はともかく道徳って。あとせめてシャーペンを……」
他にもツッコミたい箇所は山とあったのに、
「言っておくが、終わらない限り、塔から出られないと思いなさい。
これを乗り越えなければ、俺の部下としてやっていくのは不可能だ」
「いやあぁっ!!」
そして急いで、立ち上がらなければ取れないくらいに高い、問題集の一枚目を取る。

『問い1:1+2+3+……+100の合計数を答えよ』

「いやああああぁっ!!」
「ナノ、ほら時間帯が変わるぞ。早くしなさい」
「は、はいです。え、ええと、1+2は3、3+3は6、6+4は……」

妙に楽しそうなグレイの監視を受け、私は泣きながら計算を始めたのだった……。

2/8
続き→
トップへ 短編目次 長編2目次


- ナノ -