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■白ウサギの乱心・下

「……分かりました。あなたに従います」
ついに私は折れた。
とにかく、助けが入らないことには、生命が危うくなるばかりだ。
城に行った後で逃げるという方法もある。
表面だけでも従っておくべきだろう。
「ハートの城に行きます。あなたから礼儀作法と教養を学び、女王陛下の紅茶係を
つとめさせていただきます」
ほとんどヤケで言った。
「フン、最初からそうしていればいい」
ペーターは当たり前だとばかりにうなずいた。そして再度、銃を時計に戻した。
「あ……」
私は思ったよりビクついていたらしい。緊張が解け、情けなく地面にへたばる。
白ウサギは冷酷なまなざしで私を見下ろし、
「顔なしの娘。僕は忙しいウサギだ。
こんな雑菌まみれの場所に、いつまでもいる気はない。さっさと立ちなさい」
彼はすぐにお城に帰りたいようだ。私は困り果ててペーターを見上げ、
「す、すみません。腰が抜けちゃって。ちょっと手を貸していただけませんか?」
一瞬だけ、沈黙があった。
「全く手間のかかる。本当に顔なしときたら、どいつもこいつも愚鈍だ」
私は差し出されたペーターの手にすがり、何とか立ち上がった。

――あれ……?

何だろう。また違和感。それも、とてつもない違和感だ。
「さっさと行きますよ。愚鈍な顔なしの娘」
ペーターは私に背を向け、歩き出す。
ていうか、私はずっと『顔なしの娘』なんだろうか。
「えーと。あの、私は顔なしの娘じゃないです。ナノって言うんですよ」
とりあえず主張してみた。まあ無視されるだろうけど。
するとペーターの足が止まる。

「……ナノ……」

彼の表情は見えない。
でも小さく、本当に小さく、ペーターが私の名前を言う。
そして、こちらを振り向いた。無表情だったけど。
「分かりました。ナノ、ですね」
私は思わず嬉しくなって、
「そうそう、私はナノって言うんですよ!ペーター!」
とさっきまで私に銃を突きつけていたウサギに笑顔で言った。

「――っ!」
瞬間、ペーターの顔が真っ赤になった。

……は?

「ど、どうしたんですか?ペーター」
「……っ!」
顔色を戻しかけていたペーターが、またも紅潮する。
何だ何だ。交感神経の異常か?あれ、副交感神経だっけ?
と、そこで前の不思議の国のように『ペーター』と名前で、しかも呼び捨てにしたと
気づいた。まずい。怒りで真っ赤になった!?BADENDフラグ再来!?
「あ、し、失礼いたしました!ホワイト卿!」
大慌てで頭を下げる。
しかし、ペーターは挙動不審に視線をあちこちにさ迷わせ、顔を赤くしながら、

「……ペ、ペーターでいい。と、と、特別に、許可します……」

「……っ!!」
違和感が己の中で爆発した。

ちょ、ちょ、ちょっと待って下さい。
ない!ないないない!これだけは絶対にない!
狂った世界がカンペキに狂った!あり得ないことが起こっている!
――まさか……。

そうだ。さっきからの違和感の正体はこれだった。
ペーターらしからぬ行動が多すぎたのだ。
嫌っているビバルディのため、自分から紅茶係を探す。
しかも部下に誘拐を命じず、宰相自らが城を出て、塔まで迎えに来る。
私がビバルディに処刑されないよう、礼儀作法や教養の教育係を買って出る。
雑菌まみれだの愚鈍だの、罵りまくった私に手を貸し、立たせてやる。
ペーターじゃない。こんなの冷酷非道な宰相様じゃない。

まさか……まさか……。

そう、私は誰にでも好かれる余所者。けど好かれ方はケースバイケースだ。
例えばこの世界のグレイのように、私を嫌って、なかなか警戒を解かない人もいる。
でも、数えるくらいしか会わないうちに、好意を持ってくれた人もいる。
なら中には一回会っただけで……という極端なケースも、あっておかしくない。

ナイトメアの言葉が私の中で蘇る。
『ともかく帽子屋の連中、それと君に一目惚れした男には気をつけることだ』
あれはエースのことだと思っていた。でも、まさか……。

「ほら、何をボサッと突っ立っているんです、ナノ。
さっさとハートの城に行きますよ」
ペーターは明らかに怒っている。彼は、自分の感情を自覚していないんだろう。
私は恐怖さえ感じ、後じさる。

この世界で、私に興味を持たず、雑菌まみれの顔なしとしか思ってなかったはずの
『白ウサギ』ペーター=ホワイトが。
こちらでは、最も縁遠い存在で居続けるだろうと思っていた彼が。
「ナノ。来なさい」
ペーターはこちらに手をのばす。
その赤の瞳に交錯するのは、殺意と葛藤。


――あのペーターが……私に一目惚れをしたっ!?


そのとき、背後から声がした。イライラしたような声だった。
「ナノ。そこにいるのか?いい加減にしてくれ!全て終わらせることまで期待
していなかったが、せめて煙草……ゴホン、皆の弁当を運ぶくらいは……」
「!」
窓の外の時間帯はとっくに変わっている。

後ろを振り向くと、廊下の角を曲がり、グレイが姿を現した。

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