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■夕日と爬虫類1

「っ!!」
足がもつれ、盛大に転んだ。
とっさに手をつくべきだったのに、それさえ出来ず、スッこけた。
「い、痛いです……」
膝をすりむいたかな。ちょっと痛い。
あとエプロンが汚れた。嫌だなあ。
ていうか街の中だ。見られてますね、私。
顔を赤くしつつ、私ことナノは立ち上がりヨタヨタと、石畳の階段に腰かける。
夕方は人の帰る時間。行き交う人たちの顔は明るい。
うう、私は走りすぎだ。痛いよう。

「…………」

空を見上げた。
赤い空だ。三月ウサギの時間、騎士の色。
どこか遠くでクジラの声が聞こえる。
もっと近くには、クローバーの塔が見える。

こんなところまで、なりふり構わず走ってきた。
余所者とバレたくなかったもので。

「逃げちゃいましたね……」
あれだけお世話になったエリオット。野菜泥棒……もとい、懐いてくれた双子。
彼らの上司たるブラッドに背を向けて。
でも仕方ない。
だって、前の不思議の国での、嫌な記憶があったから。
マフィアとか抗争とか、物騒なのが嫌いだったから。
余所者とバレることで、迷惑をかけたくなかったから。
そもそもこの世界に来た経緯の説明が、面倒くさかったから。
「い、いえいえいえ!最後の一つは余計ですよ!」
い、いや、理由としては確かに小さくは無……ん、コホン!
通行人さんの視線を咳払いでごまかし、膝を抱える。

…………

鐘が鳴ろうとカラスが鳴こうと、帰る場所もなく、私は一人でいる。

「……何で、紅茶なんか作っちゃいましたかね」

紅茶を作っていれば、いずれブラッドに結びつく。気づかれる。
その可能性が頭になかったとは言えない。
なのに何で作ったかと言うと……。

「まあ、そういう細かいことまで考えてなかったんですよね」

……人はそれをウマシカと呼ぶ。

「はあ……」
大好きな紅茶を淹れたかった。誰かに喜んで欲しかった。
私の好きな人たちが、私の淹れた紅茶で喜ぶ顔を、また見たかった。
本当にそれだけ。先のこと、他のことは考えちゃいなかった。
「またダメダメですねえ」
ナノさんは自分に苦笑する。そして決意する。
もう二度と役持ちには関わらない。
紅茶や珈琲とは絶対に縁を切る。二度と飲まない!
「……何か違わないですか、私」
いや、もういいや。面倒くさい。
私は私。不思議の国で自立して生きていこう。
一生懸命探せば、私にも出来る仕事があるはずだ。

私はちょっと元気が出て来て立ち上がる。
そして希望の明日へ向けて第一歩を……。
……いや、日付の概念はないから、希望の時間帯?
――何だかそれだと『明日』と比較し、急にショボくなる!?
と、一人漫才をやらかしながら、悶えていると。
何やら道の向こうの方から、ドスのきいた乱暴なやりとりが聞こえた。
「てめえ!俺に肩、ぶつけただろう!!」
「知らねえっつってんだろっ!!」
うわ、ケンカだケンカ。
マフィア関係じゃないらしいけど、怖そうな男の人たちが乱闘寸前だ。
私が巻き込まれることはなさそうだけど、ああいう手合いは、近づかないに限る。
他の顔なしさんたちに紛れ、自立への道を行くのであ……

「……っ!!」


…………

…………

「うーむ……」
美味しそうだなあと、私ナノは、珈琲店のウィンドウに張りつく。
ガラスの向こうの茶色の宝石に、目は釘付けであった。
珈琲は完全に絶とうと思ってたんだけど……うーん。
やっぱり我慢は良くない!胃にストレスがたまる!
精神の健康維持のため、多少の嗜好飲料摂取は許されるべき!
うむ。最初から全部絶つのはダメだから、少しずつ減らしていこう。
まずは一時間帯に一杯くらいから……。
まあ、お金がないので、絶っているようなものですが。

私はため息をつく。
あれから××時間帯。帽子屋屋敷の人たちは本当に私を探しているようだ。
表通りでは、構成員さんたちが私を捜している。
私の特徴を通行人に尋ねる声を、何度か耳にした。そのたびに隠れ家に逃げた。
ちなみに私は今、中立地帯の塔近くに隠れ住んでいた。
お金がないって辛いなあ。珈琲も買えない、ケガの治療も出来やしない。

「はあ……」
そろそろ行かないと。
前の不思議の国、いや元の世界でだって、気軽に入れた珈琲店。
今は金銭的な意味でも、状況的な意味でも、高嶺(たかね)の花だ。
もっと欲しくなる前に撤退しよう、そうしよう。
「はあ……」
肩を落としてウィンドウに背を向けようとしたとき、店の入り口が開いた。

「…………」
グレイ=リングマークは、私を見て、ほんのわずかに目を鋭くする。
その手には、恐らく珈琲豆の包み。
上司に命令され、高価な珈琲でも買いに来たのか。

「あ……」
私は一瞬だけ迷った。彼にこの窮状を打ち明けてはどうだろう。
助けて下さいと。

「ど、どうも……」

でも結局、そんな言葉しか出なかった。
私は、ただ伏し目がちに頭を下げる。

「…………」
グレイからは返事が無い。
彼はこちらに声をかけず、私に冷たく背を向ける。
そしてクローバーの塔へ歩いて行った。

私はホッとして息をはき……そっと右の脇腹を押さえた。
服の下では包帯がグルグル巻きになっている。どうにかバレずにすんだ。

私はさっきから、激痛を意識しないようにしていた。
でも額には、びっしょりと汗が浮かんでいる。

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