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■脱出と再会

そして聞こえたのは、あまりに意外な声だった。
「おーい、ディー、ダム。いるかー?ちょっと追われてるんだ、匿ってくれよ!」

――……え?

チェシャ猫だった。この世界では初めて聞くボリスの声。
というか何でいきなりこんなところに。でもチャンスだ。
私は気づいてもらおうと、もぞもぞと動き……
――う……っ!
激痛に身を折る。
――でも今行かないと……。
「いないのかよ。慌てすぎて出口を間違えたな……」
小屋に誰もいないと思われたようだ。ボリスはブツクサ言い、扉を開けてさっさと
走って行ってしまう。
――追いかけないと……。
私は必死に起き上がり、上を軽く羽織ると、汗びっしょりでベッドを下りようと……
無様にベッドから転げ落ちた。で、でも構ってられない。
いや構うべき?ちょっと傷が開いたかも。

流れる体液と熱で全身が冷たい。私の頭に非常に嫌な単語が明滅する。
でも、それはここにいたって同じ事だ。
私は床に手をつき、這い出した。

…………
身体が冷たい。視界がぼんやりする。
薄い包帯は、すっかり液体に染まり、もう身体に引っかかっているだけ。
全身のあちこちの感覚が失われている。一歩一歩が大きな岩を背中に乗せられている
ように重かった。時間帯が何度か変わり、外の音も絶えて久しい。
何のために動いているんだろう。
ボリスはとっくに行ってしまったに決まってる。
例え、気づいてくれたとしても、彼は猫だ。
遊園地のオーナーや余所者には気安いけど、どうでもいい相手……例えば、お掃除
ネズミや顔なしには冷淡極まりない。追いついたところで、撃たれるだけだ。
でも……。
振り返ると私が這ったあとにはホラー映画のように、特定の色の道が出来ている。
量を考えるとかなり危険だ。
でも行くしかない。
エリオットはどこで何を間違ったのか、己のコントロールを失った状態だ。
戻って来たら、冗談ではなく生きて小屋から出られないかもしれない。
――行かないと……。
私はついに、扉のところにたどりついた。
小屋の建て付けが古かったのが幸いした。
扉は押せば開く状態だ。
私は、誰もいないことを予期しつつ、扉を開けた。

…………

ボリスはいた。
「ふにゃ〜」
奇跡だ。何度も時間帯が変わったのに、ボリスはまだ畑にいた。
――でも、あれはちょっと……。
畑というか、ハーブ区画のど真ん中に転がっている。
さながら酒に酔いつぶれた酔っ払いのごとく。
……どうもハーブの中にマタタビが混じっていたらしい。
ろくに雑草を取ってなかったので、勝手に生えてしまったもののようだ。
――でも、あれじゃあ話が出来ないですね。
とはいえ彼以外に状況を打破出来そうな人がいない。
意識が飛びそうになるのを押さえながら、とりあえずボリスの方へじりじりと移動
を開始する。
あ……小屋の前の階段で、手がズルッと滑った。
私はそのまま転がり、地面にぶつかってしまう。
痛さで少し気が遠くなった。

何だか視界が狭くなってきたなあ……このまま目を閉じたら楽になれそう。

いやいや。ダメ絶対ダメ!
私は目を開けた。もう周囲はぼやけた色くらいしか判別出来ない。
それでも体力を総動員して、手探りでボリスがいると思われる方向に前進する。
その手が、別の何かをつかんだ。
――……?
動きを止める。何だろう。よく見えない。小さくてサラサラしている。
匂いを嗅ごうにも嗅覚が失われている。
ボリスのとこに行かなきゃ、と思うけどその感触にも惹かれる。
ついに私は無理やりに方向転換し、そちらに這った。

「…………」
傷口が地面にこすれるけど、もう痛みの感覚がない。
光しか判別出来ない視界で、一歩に一時間帯もかけ、ゆっくりと『何か』のある方向
へと向かう。
どのくらい経ったのか。自分は動いているのかいないのか、それも分からない。
もしかすると同じ場所で蠢いているだけかも、という不安を胸に、それでも最後まで
残った自分の生存本能を信じ。また一歩進む。

――……。
光が失われたのか、目を開ける体力も尽きたのか。
ついに全てが真っ暗闇になってしまった。
でもまだ気を失っていない。私が惹かれた『あの感触』がいっぱいにある。
何だろう、これは。
小さくてスベスベしていて、可愛い。
――花びら……?
花は畑では育てていないし、小屋周辺にも咲いていない。
何の花だろう、と形を確かめようとして……花びらを持つ体力も失せた。
手が地面に落ちてしまう。
もう本当に動けない。
ゆっくりと意識を閉ざし、深く深く落ちる寸前。

近くの地面を誰かが踏んだ気配がした。

…………

…………

――暖かい……。
暖かい暗闇に包まれている。私はそれに心地良く身をゆだねる。
いつまでも、包まれていたい、優しい黒。
その心に警鐘が鳴らされる。

――ダメ。そろそろ畑を見ないと……。

エリオットのためにニンジンを作ろう。大きくて甘くて美味しいニンジン。
それを二人で食べるのだ。私の命を救ってくれたエリオットに恩返しをしたい。
エリオットに会いたい……。
優しい闇に別れを告げ、私は目を開けた。

目を開けても黒だった。
もう一度目を閉じ、開けても。それでも黒。
――んん……困りましたね。
いつになったらこの夢から覚めるんだろう。
仕方がない。私は気合いを入れて、こぶしを闇にくり出した。
「う……っ!」
暗闇から、かなりいい声がした。
そして、私は闇から引きはがされた。

「命の恩人に向かって、ひどいなあ君……」

闇だと思っていたのは、単に真っ黒い服だった。
赤いコートを脱いだ、黒い騎士エース。
私を抱きしめて眠っていたらしい彼。目覚めた私に、爽やかな笑顔を浮かべた。

「元気だった?傷だらけのお姫様」

いや、傷だらけで元気なわけがないでしょうが。

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