続き→ トップへ 小説目次へ ■最悪の・後 一つ。私はユリウスに淹れる珈琲を、いつものように研究していて、寝不足が続いていた。 一つ。ユリウスは仕事を普段以上に抱えていた。 エースは遅れ、他にも悪いことがいろいろ重なって、切羽詰まってイライラが最高潮に達していたらしい。 最後の一つ。床はいつも以上に乱雑で、片づけられていない修理道具や本が散乱していた。 そこに私は、会心の珈琲を一緒に飲もうと、ガラスのサーバーや珈琲セット一式を持ってきた。 私は、寝不足で注意散漫だった上、自慢の珈琲に気を取られるあまりに足下をよく見ていなかった。 きっと疲れたユリウスを笑顔に出来る、そう自信を持っていたのだ。 そして床の上の工具箱につまずいた。 「あ……」 スローモーションのように最高の珈琲は宙を飛び……ユリウスが苦労して修理した時計や、細かい部品が大量に詰め込まれた部品箱に無残に落ちた。 微細な部品も多い箱には砕けたガラス片が大量に混じり、分別しようがない。 修理された時計には珈琲の汁が吸い込まれ、いくつかは動きを再停止させる。 「あ……」 ユリウスは呆然とそれらを見た。私もだ。 彼の仕事をこれ以上にないくらい妨害してしまった。私はあわてて、 「ゆ、ユリウス、ごめんなさい。ごめんなさい。今きれいに……」 「おまえ……この時計がどれだけ大事なものか分かっているのか!? 細かい部品一つ一つを素手で選り分けるつもりか! 全部やり直しだ、この大馬鹿者!!」 「ユリウス……ご、ごめんなさい、ごめんなさい!」 私は必死に頭を下げる。 ユリウスは仕事を誰よりも大事にする頑固職人だ。 何度謝ってもガミガミと怒鳴られる。 しまいには、 「もう私が全部やる!!おまえは塔から出て行け!!二度と戻ってくるな!!」 きつく怒られたことは何度かあるけど、『出て行け』とまで言われたのは初めてだった。 「わかりました……出て行きますよ、出て行けばいいんでしょう!!」 怒鳴っていた。 最近優しくしてくれていたユリウスにそこまで言われ、ショックを受けたのかもしれない。 私は興奮でがくがくする手で、床の珈琲カップの破片を集めた。 ユリウスは手伝ってもくれない。 破片で指を切り、血が床や時計の上に何滴も落ちるけど構っていられない。 残りの破片を急いでお盆にのせると、背を向ける。 「さよなら、ユリウス!!」 「ああ、出て行け!おまえのような役立たずの居候などいるか!!」 もう最悪だった。 私は出せる最大の音を立てて扉を閉めると、階段を駆け下りていた。 ……きっと泣いていることはバレた。 私は判断力の鈍くなった頭で厨房に駆け込むと、エプロンを床に投げ捨て、今やお守りに近い玉露の袋を抱えて走り出す。 二度と戻らないつもりで塔を出た。 ……そして、さっさと後悔する。 「はあ。どうやって謝りましょう」 夜の森で、根性も無く私は呟いていた。 こちらも悪かったとはいえ、あれは明らかにユリウスの八つ当たりも入っていた。 ゆえに素直に頭を下げづらいのだ。 ――破片で手を切ったこと、ユリウスは絶対気にしますよね。 それとも気づかず、私の失態による遅れを取り戻そうと奮闘している最中だろうか。 ――それでも、今夜は戻れませんね。 ユリウスが本気で私を塔から閉め出すことはないだろう。 でも今でも私を怒っている可能性は高い。 頭を冷やす時間は必要だ。お互いに。 私は適当な木を見つけ、玉露を落とさないようによじのぼる。 木の上までチェックする痴漢は少ないだろうし、熊やオオカミといった猛獣対策にもなる。 「うう……風が冷たい」 丈夫な枝の上で身を震わせ、防寒具くらい持ってくるんだったと後悔した。 とはいえそんな時間も心の余裕もなかった。 場所から言っても寒さから言っても眠れるわけがない、と思った。 けど寝不足だった私は、次第にまぶたを落としていった。 「か、風邪を引きました」 目を覚ました朝の時間帯、私は見事に風邪を引いていた。 関節が痛くて悪寒がして、熱もある。 玉露以外、身体を温める上着もなく、熱は上昇しているようだ。 私は時計塔への道を小走りに駆ける。 でも、どうも頭がガンガンして、思考がぼやけている。 塔への道が、初めての道のように感じるくらいだ。 ――とりあえず、厨房で緑茶を淹れて、ベッドに飛び込もう……。 ユリウスに怒られたことには、もう構っていられない。 そして私は、ようやく塔の場所にたどり着き、ぼやける視界で扉を開けようとすると、 「失礼ですが、許可証をお持ちですか?」 「え?」 声をかけられた。 見ると、どうやら扉を守る守衛さんらしい人がいる。 「セキュリティのため、許可証を拝見させていただいております」 「きょ、許可証……?」 ユリウスはそんな話をしていただろうか。 いや、それ以前に時計塔に守衛さんなんていたことがあっただろうか。 「い、いえ、でも私、中に用事が……」 しどろもどろに言うと、守衛さんは急に冷淡な口調になり 「許可証のない方はお通し出来ません」 ときっぱり言って私を追い払った。 「??」 私は混乱する頭のまま、その場を離れる。 高熱で幻覚でも見ているのだろうか。 よく見ると、周囲の街並みはいつも時計塔から見下ろしていたものとまるで違う。 ――ここは……? 私は時計塔を振り向いた。 「――!!」 声が出ない。 時計塔ではなかった。 それよりはるかに巨大な、要塞のような塔が、時計塔のあった場所にそびえたち、私を見下ろしている。 私は通りすがりの人を捕まえ、つかみかかる勢いで尋ねた。 「あ、あの、あの塔、なんていう塔ですか?」 相手は不審そうな顔をして私の手をふりほどき、去り際に素っ気なく言った。 「クローバーの塔ですよ」 2011/04/05 10/10 続き→ トップへ 小説目次へ |