続き→ トップへ 小説目次へ ■最悪の・前 そして、日々は平凡に流れていく。 というか流れすぎだった。 なのに、私は元の世界に帰ることが出来ない。 ユリウスもそのことに触れない。 彼は相変わらず仕事一筋で、私は厨房で珈琲と緑茶に余念がない。 少しはユリウスのご飯も作るようになった。 窓の外では銃声が絶えることは無いけれど、塔の中は静かで平穏そのものだった。 「いつかは、こんな日が来るだろうと思っていた」 薄暗い厨房で、ユリウスは静かに呟いた。 「わかってはいたつもりだった。 わかっていながら何一つ対策を講じなかった私の責任でもある」 よほど悔しいのだろう。 ユリウスは怒りを抑えきれない様子で拳を振るわせている。 「だが……だが……」 私はそんなユリウスを見ることに耐えられなかった。 「落ち着きましょう、ユリウス。ね?」 真剣な眼差しで彼の目を見る。海の底のように深い藍の瞳だ。 けれど今はその瞳がかすかに揺れている。 いったい何が彼をそこまで激情に狩らせたのだろう。 「落ち着いて。ね? こういうときは珈琲よりお茶が一番ですよ。 ちょうど手に入れた抹茶の粉末が……」 「その抹茶……どうやって手に入れた?」 震える声。今にも大地を突き破ってマグマが吹き荒れそうな。 「えっと、珈琲ミルで茶葉を……」 そう。硬い珈琲豆を粉末に出来る珈琲ミルなら、お茶の葉を粉末……つまり抹茶に出来ると思ったのだ。 もちろん、珈琲ミルにはいくら洗ってもお茶の細かい粉末と匂いがしみついているわけで……。 「ナノーっ!!」 「ぎゃああー!!」 容赦ないヘッドロックを受けて、悲鳴を上げる。 でも悲鳴を上げながら、私はふざけてユリウスに抱きついた。 「お、おい、叱られているのに笑う奴があるか」 そう言うユリウスも何だか笑っている。 いつの間にか、こんなやりとりが出来るほど近しくなったことが嬉しかった。 するとユリウスは私を抱きしめ、動きを封じる。 「はは。これなら何も出来ないだろう」 「うわ! 反則ですよ!!……や、やあ!」 何とユリウスは脇をくすぐってきた。 「ゆ、ユリウス、止めてください。や、やだ、そこダメです!」 賑やかな笑い声が響く。 ――ゆっくり近づいていけばいいですよね。 ユリウスは私が甘えることを許してくれている。 彼が大好きだ。彼を尊敬している。 私はユリウスを好きになりたいと思っている。 出来ればユリウスに恋したいと。 でも今はまだ……。 「お、二人で何やってるんだ、俺も混ぜてくれよー」 エースが厨房に入ってくるやいなや、楽しそうにくすぐりっこに参加し出した。 「だ、ダメ!エース、そこ弱いんです!本当にダメ!」 「あははは。ナノ、言い方がいやらしいぜ」 「エース、何で私までくすぐ……や、やめろ……」 そして三人分の笑い声がいつまでも響く。 私は失った記憶を取り戻すより、新しい思い出で埋めようとしている。 帽子屋屋敷が今どうなっているか聞くことは無いし、二人も話さない。 それでいいと思う。 そしていつか、ブラッドに新しい女性が出来たと聞いて『あ、そうなんだ』としか思わない自分がいるだろう。 そのとき自分には、愛する時計屋の夫と、彼の子どもがいるに違いない。 ――でもそれは、まだまだ先の話ですよね。 私とユリウスはまだ友達同士。良くて歳の離れた兄妹というところで、でもそれだけでお互いに満たされていた。 ……『そして二人は結婚し、いつまでも幸せに暮らしました』と、おとぎ話ならここで幕を閉じる。 でも『現実の不思議の国』では、恋より玉露の私はまだまだ幼い。 親切なユリウスだって、以前のように毒舌全開になるときだってある。 私の方だって、大切な相手に大失態をさらすこともある。 そう。 そのとき。 何もかもが悪い方向に動いていた。 最悪な状況に最悪の事態が重なった。 ただそれだけ。 9/10 続き→ トップへ 小説目次へ |