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■例のあれの行方

そして足音が遠ざかり完全に消えたとき。
ユリウスがようやく肩の力を抜いて銃をしまった。
「どうにかだまし通せたようだな……さて、これからどうする?
エースがカクテルバーにまだ居座っていると思うが、酒でも飲んで気を……」
私は渾身の力でユリウスを殴った。
「――っ!何をする!」
「それはこちらの台詞ですよ!よくも……よくも女に恥をかかせるようなことを平然と……!!」
何回殴っても殴り足りない。
嘘も方便とは言え、言うに事欠いて何てことを。
というか、状況的には二人の男が一人の女を取り合うという夢のシチューションだ。
助けられて何だけど、もう少し格好いい撃退文句は言えなかったのか。
ドレス姿という事も忘れ、私は殺意をこめてユリウスを睨みつけた。
「仕方がないだろう。
ああでも言わなければ、帽子屋は延々と私やおまえをつけ狙うことになる。
おまえが身重だと思えば、ちょっかいをかけることも無くなる。
これでまた、おまえは堂々と外に出られるようになるんだ」
「だからといって、妻とか、子どもとかなんて嘘を……」
まだ顔を赤くする私にユリウスは小さく、

「なら……嘘にしなければいいだろう?」

「え?」
耳にした言葉が信じられず、聞き返すとユリウスは沈黙した。
そしてしばらく経って、
「何でも無い」
そう言った。
――何だ。
私は拍子抜けしたようなガッカリしたような、微妙な気分だった。

このとき、ユリウスを追及しなかったことを私は後に後悔することになる。

紅茶保管庫を出た私たちは何となく薔薇の迷路を散歩していた。
ドレスはちょっと変わっている。
露出が気に入らなかったのかユリウスが控えめなデザインのものに変えてくれた。
「どうする?今からでも踊りに行くか?」
「いいですよ。ここで星を見ていましょう」
ブラッドたちとまた顔を合わせるのも気まずい。
いや、きっとブラッドは今頃、一夜の女を漁っている最中だろう。
しかも、あの大まじめなやりとりの最中、私はずっと玉露を持っていた。
玉露を後生大事に抱えた女なんて、ダンスホールで好奇の目を集めるだけだろう。
私たちは並んでベンチに座って、きらびやかな星を見ていた。
もちろん怪しげなことは何もせず、いつまでも二人で話をしていた。

「で、いつも茶しぶを落とすのが手間なんですよ。
いくら汚れがきれいになるといっても、次の時間帯にはもう新しいお茶を淹れるわけですし」
「それならクエン酸洗剤は試したか?重曹も使うと意外とよく落ちる」
……舞踏会とも満天の星とも全く無縁の話題を。

――でも、何だか楽しいですね。

私は思う。
この世界に来てから本当にいろんなことがあった気がする。
記憶は未だに戻らないけど、最近はそんなことがどうでもよくなってきた。
苦い思い出も出来た。
楽しい思い出も出来た。
自分が何であろうと誰であろうと、大切にしてくれる人がいる、大切に思う人がいる。
それは元いた世界で本当に私が実感していたことなのだろうか。

私はほんの少しだけペーターに感謝した。
そしてユリウスの話を聞きながら思う。

――ああ、この世界に来て良かった。いつまでもここにいたい。

そのとき、ピシッと、何かガラスのような音がした。
玉露の袋の中だ。
「え?」
「どうした? ナノ」
ユリウスも言葉を止めて聞いてくる。私は、
「いえ、玉露の中で、何かにヒビが入ったような音がしたんです」
結局ここに来てから一度も開けていない玉露の袋をガサガサと触る。
すると、中に茶葉ではない硬い感触を抱いた。
「なにか瓶みたいなものが入ってますね。
細長くて変な形です」
異物混入にしては大きすぎる。
するとユリウスがハッとした。私もだ。
「え。おい。それはもしかして……」
「ええと。あの。私が無くしたアレは……」
二人は同時に沈黙する。
そして、
「そ、それでだな。油汚れに強い洗剤でお勧めなのは……」
「そうなんですかー! さっそく使ってみますね……」
ぎこちなく会話を再開する。

いったい何が原因で『あれ』にヒビが入ったのか、誰も知らない。
とにかくそれきり、互いの口からそれについての話題が出ることはなかった。

――というかガラス片や瓶の水分が、茶葉に混じった可能性もあるから、もうこの玉露、飲めないですね。

私は泣く泣く、思い入れある玉露を永久未開封とすることに決めたのだった。


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