続き→ トップへ 小説目次へ

■銃とそよかぜ・前

振り向かせられ、強引に唇を重ねられた。
「ん……」
覚えのある熱い舌が入り込んで、口内を探る。
だが以前と違い、ブラッドはすぐに離れた。
そして不快気に私を見下ろし
「唾液や息まで珈琲が混じっているな。
帽子屋屋敷に連れ帰ったら徹底的に洗浄しなければ」
「いえ、あの、そこまで全身これ珈琲まみれになっているわけでは……」
あるかもしれない。
髪には珈琲豆の薄皮があちこちついているし、焙煎作業は煙が出るから服に匂いが染みつきやすいのだ。
起きてから寝るまで珈琲を飲み続けている。
――冗談ですよね。だ、唾液の成分に本当に珈琲が混じってたりしないですよね?
糖尿病患者の尿は甘い香りがする、という嬉しくない知識が、勝手に頭に浮かぶ。
それはともかく。
久しぶりに見るブラッドは、相変わらずな感じだった。
今も私を不愉快そうに見下ろす態度は、傲慢という言葉が似合う。
私への後悔とか謝罪といった感情は、その瞳からは全く見て取れない。
「珈琲は可愛い子ですよ、ブラッド。
扱いづらいけど、手をかけた分だけ味になって返ってくるんです」
「そんなものは君一人で十分だ。
臭いはひとまず耐えるとして、珈琲に浸食された服だけでも何とかしなければな」
ブラッドは手を叩く。
すると、
「え……」
私は、やや露出のある、でもとても華やかなドレス姿になっていた。
「ええー……」
黒髪に触れるけど、珈琲豆の薄皮なんかまるでない。
今しがた美容師にセットされたように、指の間をサラサラと心地よく滑っていく。
とりあえず髪が直って薄皮が取れたのは良かった。
だから素直にブラッドに頭を下げる。
「どうも」
すると、吹き出す声が聞こえた。
ブラッドだ。深い緑の瞳が私を捕らえる。
「君は……相変わらずだな。のんびりした子だ」
そ、そんな決めつけはちょっと……。
こっちだってちゃんと泣いたり笑ったり悩んだりしているのに。
「珈琲の臭いを取るのに時間はかかりそうだが、これでまた手元に置いておける」
言うなり私の手をつかむ。
「来なさい、ナノ。もう舞踏会などどうでもいい。
帽子屋屋敷に帰るぞ」
「ブラッド……」
私はちょっと呆れた。
「あの、その前に私に言うことがあるんじゃないですか?」
「言うこと? 何だ? 愛の言葉でもささやいてほしいのか?」
ブラッドは真顔で聞いてくる。私はちょっと頭痛がしてきた。
「だから、私に謝るとか」
「謝る?何を?」
「…………その、あなたが、私にしたことを……」
さすがにストレートには言えない。
だけど勘のいいブラッドには通じた。
「ああ、あのベッドでのことか。すまなかった。
エリオットから報告を聞き、時計屋から書簡も受け取っている。
君が私を怒ったと知って、私も自分のしでかしたことを深く反省したよ」
「は……?」
自分で話を振っておきながら、あまりにも意外な返事が戻ってきた。
あの帽子屋ファミリーのボスが?
あのブラッドが私にしたことを素直に反省?
「え、えーと。反省してくれてるんですよね」
「ああ」
困惑するのはなぜか私の方だ。
これでブラッドの態度が口だけなら、まだ追及しようがあるのに、どうもブラッドの目には真摯な後悔が浮かんでいる。
ブラッドはドレス姿の私の両手を取り、真剣な口調で言った。
「ナノ。どうか許して欲しい。
二度とあんなことはしない。
だからどうか、私の元に戻ってくれ」
私は戸惑いながら、その手をふりほどけない。
「えと、あの……ブラッド……」
頬が熱い。心臓がドキドキと鼓動を打つ。
「本当に、本当に反省してくれているんですね?」
「ああ」
信じてもいいのでは、という嬉しさが心に浮かぶ。
だからつい、何度も確認してしまう。
「二度と、しませんか?」
「帽子にかけて誓おう」
「嘘、言ってませんよね」
「君にこのことに関して嘘はつかない」
ブラッドの答えはどこまでも真剣だった。
「二度と、君を中途半端なまま放り出して、仕事に行かないと誓おう。
例え屋敷が陥落寸前であろうとも、君の快楽を優先することにする」

――……えーと。うん。こういうオチになる気はしていたんですよね。

ああ、お茶が飲みたい。


5/10

続き→

トップへ 小説目次へ

- ナノ -