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■珈琲の採点が終わった・前

その時間帯、私は張り切っていた。
珍しくユリウスの方から、珈琲と夜食のオーダーがあったからだ。
……この間、珈琲を運んだ私は、気づかずに不摂生で倒れたユリウスを踏んだ。
そのせいかもしれない。

私は鼻歌を歌いつつ手回しミルのハンドルを回す。
布フィルターをドリッパーにセットし、ミルで砕いた珈琲の粉を入れる。
「おいしくなあれ、おいしくなあれ」
どこかのパン屋のおじさんが唱えていた気がしないでもない、謎の呪文と共に、ドリッパーに湯を注いでいく。
フィルターの下の、サーバーというガラスの器に、抽出された珈琲がたまっていく。
苦労して抽出したそれは、私にとって黒い宝石だ。
最後の一滴まで気が抜けないと、私は湯を注いでいく。

そして、湯気の立つ珈琲を口に含み、私は目を閉じる。
珈琲は不思議な飲み物だ。
ただ珈琲が珈琲であるだけで人を惹きつける。
珈琲のシェアは紅茶を遙かに上回る。
単にカフェインのせいだと言う人もいる。
でも飲み物や抽出法によっては、緑茶や紅茶の方が珈琲を上回ることもある。
悔しいけど、珈琲には人を夢中にさせる何かがある。
私もその魔力に取り憑かれつつあった。
――うん、苦みと酸味のバランスも良いし、えぐみも少ないですね。
自分の舌だけを頼りに美味しい珈琲を追及する。
最高の味とは言えないけど、不味すぎるわけでもない。
「とはいえ、まだ四十五点くらいですかねえ。
ユリウスにあげられる味じゃないですね」
そして私はその時間帯の一杯を飲み終え、ほっと一息つく。そして、
「では片づけて寝ますか」
と厨房の椅子から立ち上がった。
「おい……」
低い声が後ろから聞こえた。
「あ……」
ぎこちなく後ろを振り返ると、ユリウスが両手を腰に当て、立っていた。
「NO.2規格のブルーマウンテンを使って、今度こそ最高の珈琲をごちそうしてみせる……おまえ、私にそう宣言したよな……?」
こめかみに青筋が立っている気がするのは目の錯覚だと思いたい。
「あ……あはは」
私は後じさりする。冷たい汗が頬を伝う。
ユリウスはさらにじりじりと私に近づき、とても怖い顔で怒鳴った。
「自分が飲んでばかりだろう、おまえは!
人が仕事をしていれば、高価な豆を大量に使ってガバガバ飲んで……貸せ!!」
ガミガミ叱り、私の手から珈琲カップをひったくると、冷めかけたブルーマウンテンを一気にあおる。
「六十点。少しは遠慮しろ、この居候が」
吐き捨てるように言って、カップを流しに置くと、背を向けた。
乱暴に靴音が階段を上る音。
それを聞きながら、
「もしかして、用事ってこれだけですか?」
首をひねる。
厨房に住みつつある私だけど、珈琲の腕はどうも上達しない。
ユリウスは毎度毎度、苦労して淹れた珈琲をこき下ろしてくれる。
最近では、それが趣味に成りつつあるのではないか、とさえ思えてきていた。
……でもさっきは、私の自己採点より高い点をくれた。
何だかんだ言って、珈琲には正直な人だ。
「……よし!」
私は脇に置いておいた玉露の袋を胸に抱き、ユリウスの後を追うように階段を駆け上った。
「ユリウス、珈琲の本を借りますよ!」
部屋の扉を開けるなり本棚に駆け寄ると、時計修理の仕事に戻っていたユリウスがうんざりしたように顔をあげる。
「ナノ。おまえ、まだ珈琲研究をするつもりか?
緑茶が専門なんだから、珈琲にこだわるなと言っただろう」
「いいえ。ユリウスのために今度こそ美味しい珈琲を淹れて見せます!」
胸を張ると、ユリウスは少し意地悪い表情になり、
「それはそれとして、いつ夜食を作ってくれるんだ?」
「――はっ!」
そういえば、ユリウスに頼まれたのは珈琲『と』夜食だった。
それでも分厚い珈琲読本を棚から引き出しながら言う。
「えーと、パンでいいですか?確か硬いのが一枚残っていたような……」
「頼むから、たまには、まともなものを出してくれ」
心底呆れたような、ユリウスのためいきが聞こえた。
「本当に、おまえという奴は……」
けれど、どこか笑っているような声だった。

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