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■時計塔に滞在しよう

「お風呂、どうもでした」
時計塔の浴室を借りた私は濡れた髪をタオルで拭きながらユリウスさんの仕事場に入った。
「ん……まあ、珈琲でも飲め」
ユリウスさんは珍しく仕事にかかる様子もなく、私に珈琲を勧めてくれる。
私はお礼を言って珈琲を飲んだ。
うーん、カフェインが全身に染み渡る。
ユリウスさんはそんな私を見ながらソファに座る。
私は彼に頭を下げた。
「いつぞやは、どうもありがとうございます。
おかげでペーターと婚約せずにすみました」
記憶喪失ではないときの私は、ペーターと凶悪だったらしい。
ユリウスさんがそのことをエースに話してくれたおかげで私は白ウサギの魔の手から逃れられたのだ。
思えばずいぶんと昔な気がする。
「運が良かったんだ。
それで、あの後、城を出たおまえは帽子屋屋敷に行ったと聞いた。
そのおまえが、なぜ丸太に正座して川に流されていたんだ」
「あ、あはは……正座はさておき。話すと長いことながら」
私は珈琲をすすり、話し始めた。


「白ウサギに続き、帽子屋にエースか。
つくづく、厄介な連中に好かれる運命のようだな、おまえは」
ユリウスは呆れた目で私を見た。
詳細は省いたがブラッドに強要されそうになったことも話した。
どうしてだか、ユリウスさんには話しても大丈夫という雰囲気がある。
彼はそんな人だった。
「それで、これからどうするんだ? 帽子屋屋敷に戻るのか?」
「いえ、戻りたくありません。
ブラッドのことはちょっと嫌いになりました」
「ちょっと、か。あれだけのことをされて?
多少は未練があるように思えるがな」
皮肉っぽく笑う。
嫌な感じだけど本当は悪い人ではないことは分かっている。
「さて、これからどうするかだな。
盗みに入ったことがあるならハートの城も危険だ。
ビバルディは紅茶のことなどとうに忘れているだろうが、何かの拍子に思い出したらおまえの身が危ない。
なら今度は遊園地に住むか?
あそこのオーナーは他の領主に比べて温和だ。
私が一緒に行って事の次第を話せば、間違いなく居候させてもらえるだろう。
よし、次の昼の時間帯に遊園地に……」
勝手に親身になって私の身の振り方を考えてくれた。
でももう賑やかな場所はごめんだ。
私は頭を下げる。
「どうか時計塔に住まわせてください」
「……は?」

「最初から、時計塔に来るつもりでした。
ブラッドに何かされなくても、その前から」
「え……な、何だと?」
なぜかユリウスの顔が一気に紅潮する。
狼狽したように二、三歩後じさり、珈琲を取り落としそうになった。
「ずっとここに来ようと思っていました。
それでやっと来られたから、もう出て行きたくはないです」
「ちょ、ちょ、ちょっと待て!!」
真っ赤になってユリウスは叫んだ。
「な、何で今頃になってそんなことを……。
ここは帽子屋屋敷に比べて寂しい場所だぞ?
男が一人で住んでいる陰気なところで……」
「だから、落ち着くんです」
ユリウスは口を何度か開け閉めし、私をじっと見下ろし、最後に大きく大きくためいきをついた。
「おまえがこの世界に来て、それなりの時間が経ったな」
「ええ。どれだけか分かりませんが、ずいぶんと時間が」
「それなら、おまえがもうすぐ元の世界に戻るときが来る。
最後に静かな場所に滞在したいというのならそれもいいだろう」
私は顔を輝かせてユリウスさんを見た。
「ありがとう!!」
「帽子屋にはおまえが、領を出る旨を伝える書簡を出そう。
まあ、奴らが納得するかは分からんが。
いつも気持ちいい別れが出来るものではない」
「すみません……」
いろんな人に迷惑をかけ通しだ。
「別にかまわん。厄介ごとを持ち込みまくる奴なら部下に一人いる」
「部下?」
あんまり偉そうな感じではないのに部下がいたのか。
「まあおまえと再会したときを思うと頭が痛いが……。
とりあえず寝ろ。疲れているだろう」
ユリウスさんは少し分からないことを言って私をベッドに追いやった。
素直に私はロフトベッドに上がって、横になる。
敷布は硬く、毛布は薄く、帽子屋屋敷とは比べものにならない簡素さだ。
――でも、何だか懐かしいですね。
元の世界のことは(ネタ以外)ほとんど覚えていないけど、このベッドは自分の身の丈に合ったものの気がする。
横になって本当に落ち着くことが出来た。
――最初から時計塔に来ていれば良かったな。
もしくはブラッドがこちらの意思を無視して強行しようとせず、段階を踏んで愛の告白をしてくれていたら。
世の中はままならない。
夢のような不思議の国でも。

私は小さくあくびをすると、そっと目を閉じた。

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