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■私とブラッドと、とある死闘・前

 私は言った。
「まあ、おおむね上手く行ってますよ」
「そうか。それは何よりだ」
 夢の中で、ナイトメアはいつも通り、死にかけた羽虫のように漂っていた。
「……容赦ない比喩を使うのは止めてくれ。ストレスで吐く」
 内蔵片は勘弁。想像をすると恐ろしい。
 いったいどれだけ苦しんだことか……。
「そういう悪趣味な冗句は止めてくれ! 想像もするな!!」
 本当に吐きそうな顔色になるナイトメア。
「失礼いたしました。謹んで前言を撤回させていただきます」
 私は正座したまま、ほうじ茶をすすっていた。
 ナイトメアはゴホンと仕切り直しの咳払い。
「相変わらずだな。で、『おおむね』とはどうなんだ? 
 一部では問題ありなのか?」
 ニヤニヤニヤ、と心を読める夢魔。
「そうですねえ……」
 どう答えたものか、悩んでいるうちに夢の世界がぼんやりしてきた。
 どうやら目覚める兆候らしい。
「ブラッドとはおおむね上手くいってますよ。
 ただ、あの腐れ帽子と来たら、私に……」
 最後まで言い切る前に、私は覚醒した。

「んん……」

 目を開けると、目の前に端整な顔があった。
「おはよう、ナノ」
 私の頬に手を当て、薄く微笑む姿。
 その顔は、女性なら誰でも放っておかないだろう、というくらいに整っている。
 私に手を出す前は、数々の女性と浮き名を流し続けていたそうな。
 なぜ私を選んだか未だに分からない。
 帽子屋ファミリーのボス、ブラッド=デュプレである。
 私は彼の部屋のベッドで、彼に腕枕をされ、寝ていたようだ。
「それでお嬢さん。良ければ、夢魔だけでなく、この『腐れ帽子』にも
教えてほしい。夫たる私の何がご不満かな?」
 どうやらナイトメアとの会話の一部が、寝言になって漏れていたようだ。
「ございません、ございません。帽子屋ファミリーのボスたる偉大な
あなたに、ご不満なんてあるわけないじゃないですかあ」
 私はニコニコと微笑む。顔を青ざめさせ、全身をぷるぷる震わせながら。
 だがブラッドの空いた方の手は私の頬を撫で……首筋に、鎖骨に、さらに
その下に忍び寄ろうとする。
「ブラッド、ブラッド。目覚めの紅茶はいかがですか?」
 私は身体を起こし逃げようとした。
 だがその前に、ガシッと両腕で拘束され、逃げられない。
 気がつくと気だるげなブラッドに、押し倒されていた。
「ああ、いただこう。だが妻を満足させてからだ。
 色々と不満もあるようだからな」
「満足しています、満足しています。
 あなたとの営みに不満なんて……んっ……」
 胸のあたりに軽く歯を立てられ、声がうずく。
 ブラッドはニヤリと、
「やはり不満はありそうだな。君の淫乱な気性を満足させられず、
夫として、ふがいないばかりだ」
「いやですから、誰が淫乱ですか……や……んっ……」
 ネグリジェの肩紐を下ろされ、そのまま身体をはだけさせられる。
 夜の時間帯に散々愛され、疲れ切った箇所が、また熱を帯びていく。
「ナノ……」
 唇が重なる。ブラッドの手が、ネグリジェの裾をたくしあげ、潤い始めた
谷間を探っていく。やがて室内に喘ぎ声と、卑猥な水音が響きだした。
 私は完全に力を失い、されるがまま。
「ほら、もっと私を誘ってみろ……良い子だ……」
 誘うと言ったって、彼にすがりつき、求めることしか出来ない。
 それでもブラッドは、満足そうに私を支配するのであった。

 …………

 …………

 ナノと申します。
 このたび帽子屋ファミリーのボス、ブラッド=デュプレと結婚を
させられ……コホン、結婚いたしました。
 長いこと根無し草だった私にも、めでたく『家』が出来たのです。

 …………。

 落ち着かない。

 …………

 場所はブラッドの部屋である。
 私の部屋はブラッドと一緒だ。彼の執務室兼、私室で寝起きしている。
 とはいえ、私は別々の部屋にするんだと思っていた。
 マフィアのボスの部屋ともなれば機密事項のかたまり。
 帽子屋屋敷は広いんだし、私用の部屋なんて、その気になれば十も
二十も持つことが出来る。
 だから部屋を一緒にする必要は――と主張したけど、結婚同様、押し切られた。

 同じ部屋なら、いつでも私に命じ、紅茶を淹れさせられる。
 ……よこしまな目的もある気がして仕方ないが、追及すると恐ろしいので止めておいた。
 私が機密事項を外部に漏らしたらどうするんだ、と言ったこともあるけど
鼻で笑われた。いつか見てろ……。
 
 そして目覚め、シャワーを浴びた後は、ブレックファーストのお時間である。

「どうぞ、ブラッド」
 腹いせに、ややきつめに淹れたセイロンを渡す。
「いただこう」
 ブラッドはすまし顔で受け取った。
 そして一口飲み、ニヤリと笑う。
「相変わらずだな。刺激を強めたようでいて、口当たりはなめらかだ。
 完全に思い通りとは行かない。君もまだまだのようだな。お嬢さん」
 ……何でしょう、軽く沸き立つこの殺意。
 ほめられているのか、けなされているのかすら不明だ。
 私も自分用にセイロンを淹れ、席に座るとトーストを頬ばる。
 ブラッドはニヤニヤと、
「そうすねるな、後でいいものをあげよう。二時間帯後には着くだろう」
「今すぐ下さい。いただいたら、すぐ出て行きます。お世話になりました」
「そう急く物ではない。楽しみにしていなさい」
 ブラッドは笑う。本当に楽しそうに。
 以前は苛立った顔や険しい顔を見ることが多かったが、こうして私が
彼の物になったせいか、笑顔を見る機会が圧倒的に増えた。
「つまらないものだったら、出て行きますよ」
「そんなことはない。必ずや君の期待に応えられるだろう」
 そして、そんな顔を見ると、悔しいことに、私の怒りもしぼんでくるのである。

 …………

 食事が終わると、私はノートと筆記具をマイバッグに入れ、さっさと席を立つ。
「それじゃ、茶園を見に行ってきますね。その後、ちょっと出かけます。
 紅茶はメイドさんに淹れてもらって下さい」
「本当に熱心だな。そこまでやらなくとも、部下にやらせればいいのではないか?」
「仕事ですから」
 ブラッドに手を振って外に出る。

「よお、ナノ!」
 廊下で出会ったのはエリオットである。
 結婚当初、私を『姐さん』と呼び、部下にも徹底させようとしたので、
ブラッドにも説得してもらい、どうにか止めさせた。
「また茶園に行くのか? ブラッドのために本当に熱心だな」
 上機嫌である。だがグリグリと頭を撫でないでいただきたい。私は冷たく、
「エリオット。あなたは茶園への入園禁止ですからね」
 すると三月ウサギの耳が垂れた。
「ええ〜? まだ怒ってるのか? スペースが余ってたから、ニンジンを
植えただけだろ? そんなにムキになるなよ」
「土を休ませてただけです。もう少し時間帯が経ったら、また植える計画が
あったんですよ。ブラッドは入園禁止令に全力で同意して下さいました」
 ますます垂れゆくウサギ耳。
 ちょっと前のこと、エリオットが私の茶園にこっそりとニンジンを
混入させやがった。私も怒ったけどブラッドの怒りはもっと凄まじく、
エリオットは相当な制裁を受けたと聞いた。
「分かった。もうしねえ。俺は、俺のニンジン畑を作って、ブラッドに
最高に美味いニンジンを食わせてやる!」
 ……その時が永久に来ないことを祈りましょう。


 仕事に行くエリオットと別れ、私は屋敷の外に出る。
 空は晴れ、良い天気だ。しばらく歩くと敷地内の外れに出た。
 その先には一面の緑がある。
「あ、お嬢様〜!」
「ご苦労様です」
 不在の間、茶園の管理をしてもらっている使用人さんたちに挨拶をする。
 茶園の入り口には『ナノ茶園』。隣には加工用の作業場もある。
 以前のような実験的なものではない、本当の茶園だ。
 ダイヤの国でせしめたノウハウや、こちらの国の、専門家の人たちの
知識も総動員し、小規模ながら本格的なものになっている。
 私は名前だけでなく、実質的な管理者だ。
「自らを犬と名乗るウサギ畜生は来ていませんか?」
「ご安心下さい〜昼夜交代で見張っています〜」
 真顔の使用人さんたちと苦笑しあい、私は茶園の見回りに出る。
 なんちゃってカフェのオーナーだった私も、今は帽子屋屋敷の紅茶総責任者。
 たいした出世である。
 今日も茶樹は青々と生い茂っていた。

 …………

 …………

 ブラッドの部屋に戻った私は、ノートを広げ、ブレンドのアイデアを
練ったり書き込んだりしていた。
「やっぱり#4012と#1025の配合を変えて、#998と#664を……」
 番号は全て、実際に作った紅茶のナンバーだ。
 何しろブラッドが無尽蔵に資金を出してくれるので、それをいいことに
色んな種類を作りまくってしまった。まあ九割は失敗であるが。
 だがいずれは市場に流通させ、資金を回収するつもりだ。
 実際にいくつかはもう商品化され、それなりの利益を出してくれている。
「ブラッド、ブラッド。この間お入れした#574と#2365はどちらがお好みでした?」
 するとしばし沈黙があり、
「#574だが……君は自分が作った茶葉の味を全て記憶しているのか?」
 私を膝の上に乗せ、腰に手を回しながらブラッドが言う。
「ノートもありますし、定期的にティスティングで味を確認しますから」
「出来ればその回数も控えてほしいものだな。毎度急性カフェイン中毒に
対応させられる、こちらの身にもなってほしい」
「ブラッド。全てはあなたのためです」
 私は誠意をこめて言う。だが、
「そうか。たまに、私を味見係かテスター程度にしか、思っていないようにも感じるのだが」
「いえいえ、まさかまさか」
 私からノートを取り上げ、テーブルに放り出すと、より強く抱き寄せる。
 私は髪に口づけられながらノートを取ろうと悪戦苦闘。
 そしてブラッドを振り向き、
「もしかして……すねてます?」
「…………」
 沈黙と、ギュウッと抱き寄せる腕が、何よりの本音だった。
 一度紅茶作りに熱中すると、同じ敷地内にいながら数十時間帯、顔を
合わせなかったりする。
「ブラッド。大丈夫ですよ。私にはあなたしか見えません」
「今、明らかに紅茶研究しか眼中にない様子だが」
 必死に手を伸ばし、ノートを取ろうとする私に、不機嫌そうなブラッド。
「あ! そうだ。ブラッド、#1034と#305を試してみるのはどうでしょう。
 どちらもクセがありますが、きっと新たなる発見が――」
「私も君同様に、全ての紅茶を把握している――という前提で会話するのも
止めてほしいのだが……ちなみにその組み合わせなら、私は#1046を推すね」
「さすがはブラッド! ではさっそく――」
 ジタバタとブラッドの腕から出ようとする。
 だがブラッドはがっしりと私を抱き寄せ、放さない。
「紅茶禁止令など出したくもないが、出さざるを得ないかもしれないな」
 ブラッドのため息。
 市販品では出せない、生産地直結の紅茶の鮮度。
 ゆえに紅茶研究でブラッドをほっぽり出すのを、見逃されていたフシがある。
「何てことを! 鬼! 悪魔! 変な帽子! 服装センスも言っちゃ悪いけど――」
「おや、夫を罵るなど、いけない妻だな。私は、これを手に入れるのに
苦労を要したというのに」
「…………!」
 ブラッドが空いた方の手で取り出した物に、私は目を見開いた。
「そ、それは……!」
 和紙の包装が光り輝いて見える。
 同じ重さの黄金を差し出されたとて、私は目もくれなかったであろう。
 ブラッドは『玉露』の袋を持っていた。
「一級緑茶園の玉露を取り寄せてみた。君のために」
「素晴らしいですくださいいますぐ」
 私はそのブラッドの膝上に、向かい合うように座っている。
「最高級の旨みと透明感、あと引く余韻は、その筋の愛好家には
何物にも代えがたい至福だそうだ――まあ私には分からないがね」
「くれよこせころしてでもうばいとる」
「正気を失っているようで何よりだ。苦労した甲斐があった」
 私は手を伸ばし、ブラッドから玉露の袋を奪おうとする。
 しかし、その度ブラッドは私の手の届かない高さに、玉露の袋を遠ざける。 べ、別に玉露なんてそんなに好きじゃないしー。
 でも日本出身だから、緑茶を見ると魂がうずくのだ。
 私はソファに座るブラッドの膝によじ登り、何とか玉露を取ろうとした。
 だがブラッドは私を膝にのせたまま、器用に玉露の袋をあっちにこっちに
動かしてくる。
「ブラッド〜」
 間近の端整な顔を、恨みがましく見つめると、
「取り寄せには相当な対価を必要とした。少しは楽しませてもらわないとな」
 かなり偉そうに、玉露を私に見せるブラッド。
 しかし取ろうとすると、ヒョイと遠ざけられる。
 まあ、この世界で、緑茶は流通しているとは言いがたいから、お取り寄せ
には実際に苦労したんだろう。
「あざーっす。じゃ、ください」
「心がカケラもこもっていない上、感謝も足りない」
 私の腰を抱き、グイッと引き寄せてくる。
 私は虎視眈々と玉露を狙いながら、ブラッドに微笑む。
「ブラッド。本当にありがとう。私、超感激です」
「演技ではもっと空々しく感じるな。それに目が少しも笑っていない。
 今の君は猛禽類の目をしている」
 ……チッ。
 仕方なく、私は口でブラッドの首元のタイをそっと引っ張る。
 それは思ったよりもアッサリほどけ、彼の首元の肌が少しあらわになった。
 私は渋々、そこに口づけた。
「分かっているじゃないか、ナノ」
 ブラッドは、どういう手品なのか、いつの間にか玉露を消していた。
「で、そのお取り寄せに苦労した最高級の玉露と引き替えに、どんな
プレイを強要させられるのでしょうか?」
「人を変態のように、言わないでくれ。晴れて夫婦となったのだから、
常に刺激を求めなければな」
 私の服に手を忍ばせ、肌に触れながらブラッドが笑う。
 ちなみに今の時間帯は昼間ですが。
 ブラッドはついさっきまでお仕事だったのですが。
「刺激ですか……」
 ブラッドがソファに横たわり、その上に乗っかる体勢にさせられながら、
私は冷たくブラッドを見下ろす。ブラッドは私の頬を撫で、
「君にそんな目で見下ろされるのも、たまには悪くない」
「何を馬鹿な……んっ……」
 下から敏感な箇所に触れられ、声が漏れる。
「ナノ……」
「ん……んぅ……っ……」
 支配的な位置にいるはずなのに、支配されるのは私の方だ。
「ダメ、そんなに激しくしちゃ……やぁ……!」
 
 そのまま私は、ブラッドの好きにされていくのだった。

 …………

「どうぞ、ブラッド」
 二度目の起きがけ紅茶は、さらにきつめのディンブラである。
「いただこう」
 欲求を果たし、ブラッドも満足そうに紅茶を受け取る。
 一方、私は私専用の茶器棚から、急須や湯飲みを取り出し、いそいそと
緑茶を淹れる準備をする。茶器棚は私がこの部屋で暮らすにあたり、
用意してもらったものだ。
 鍵付きの引き出しも一つあり、プライバシー保護もバッチリである。
 そしてニコニコとブラッドの前に立ち、
「ブラッド、ブラッド」
 彼が隠し持っているであろう、玉露をねだる。
 ブラッドは悪戯っぽそうな目で私を見、
「さて何の話だったかな? あの逸品を渡すにはもう少し新たな境地を
――冗談だから、私に向かって椅子を振り上げるのは止めなさい。腕を痛めるよ」
 しかし椅子を戻した後、ようやく目的のブツが手渡された。
 うふふふふ。これを手に入れるため、どれだけサービスさせられたか。
「気色が悪いから、袋に頬ずりするのは止めなさい」
 キッパリ言われた! しかし以前にも誰かに同じことを言われたような……。

 私は急須に必要量だけ入れると、すぐ袋を厳重に密閉する。
「それしか飲まないのか?」
 ブラッドは意外そうだ。
「緑茶は二煎目、三煎目と楽しめますからね。
 量も多くはないのだし、大事に飲むことにします」
 ルンルンと、自分の茶器棚に向かい、鍵を出す。

「ナノ」

 そのときブラッドの静かな声が響いた。
「君は貴重品を、鍵付きの引き出しに入れているようだな」
 この棚には、一つだけ鍵付きの引き出しがある。
 私は一瞬だけ沈黙し、
「はい、そうですよ? でもまさかブラッド……」
「私を疑り深い伴侶と思わないでほしい。君がこちらの機密事項に触れて
こないように、私も君の秘密をのぞき見しようとは思わないよ」
「そうですか。良かった」
 私は心底からホッとして、ニッコリ笑う。そして棚に向かったとき。

「ナノ」

 もう一度ブラッドから声がかかり、私はビクリと背を跳ねさせる。
「どうした? 私が『鍵付きの引き出し』に触れただけで、ずいぶんと
過敏な反応だな」
 ブラッドがソファから立ち上がる。
 私は滝のような汗を流しながら立ち尽くす。
「どうした、お嬢さん。早く開けたらどうだ?」
 真後ろに立たれている。
 後頭部に銃を突きつけられているかのような威圧感がするのは、なぜだろう。
「ブブブブラッドこそどうしたんです。ここここ怖いですよ」
 私はビクブルしながらどうにか鍵を使い、引き出しを一つ開けた。
 そこには自分用のナノさんブレンド紅茶缶が、いくつかと香料の
箱が置いてあるだけだった。私はそこに玉露をおさめ、
「ほほほほほーら、何もないでしょう?」
「お嬢さん。なぜ香料の箱を入れてある。匂いが紅茶に移るのではないか?」
「……いえ、その……しゅ、趣味で……わっ!」
 ブラッドが私の肩をやや乱暴に押し、棚の前からどかせる。
 そして鍵付きの引き出しに手をかけた。私は必死の形相で、腕にすがりついた。
「ブラッド! 何をするんです! 止めて下さい!
 勝手に見ないんでしょう?」
「なら今すぐ見せてもらおう。同意は不要だ。やましいことがないのなら、
隠す道理もないからな!」
「勝手に完結しないで下さい! あなたでもダメなものは――」
 ブラッドが引き出しを抜いた。そして私に、引き出しを見せつけるようにし、
「棚の奥行きに比べ、やけに浅い引き出しだな」
 そう。その引き出しは他の引き出しの半分の奥行きしかない。
「べべべべ別に。あああああまり使わないのできききき気づきませんでした」
「ほう……」
 ブラッドは引き出しを絨毯の上に置き、空いたスペースに手を入れる。
「あ……ああ……」
 私はもう顔面蒼白で、立ち尽くすしかなかった。
 ほどなくして、ブラッドはニヤリと笑う。
「隠し棚付きか。『隠し』とさえ言えない、子供だましの仕掛けだな。
 いかにも君向けだ」
 失礼な……。

 奥の隠しスペースについては、茶器棚の納入時、業者さんから聞いた。
 ほぼお遊び要素の単純な隠し棚だ。
 だがプライバシースペースが出来たのが嬉しくて、私はそこに
『あるもの』を仕舞い、たまに『堪能』していた。
「ああ……」
 ブラッドがゆっくり、ゆっくりと『それ』を引き出す。
 彼の手に少し余るくらいの小さな箱があった。
 彼は迷わず、それを開ける。
 
「…………ナノ……」
 
 それきり、深海の底よりも深い沈黙。
 私は彼に背を向け、逃げ出した。
 逃亡は不可能だろうと知りながら。

 私が(私なりに)厳重に隠したブツ。
 ……珈琲である。

 あの腐れ帽子と来たら、私に珈琲を許可しやがらないのである。

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