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■ダイヤの国への帰還

 足がつかない恐怖と、落下で内蔵が浮く不快感。
 深淵から吹き、私の全身を叩きつける風。

「ナノっ!!」
 
「さよなら、ジョーカー!!」

 上空に遠ざかる汽車と線路、そしてジョーカーに中指を立てる。
 ダイヤの国にたどり着けないのなら、同じ事だ。
「だけど……」
 汽車を取り巻いていた数字。
 あれがハエの群れのようにざわめき……今、一斉に私に向かってきた。

「わ……っ!!」

 空中でもがくけど、落下している状態では何も出来ない。
 しかも数字の群れは、落下する私より早く迫ってくる。
「ぶ、物理学を踏襲して下さいよ!!」
 あの数字に捕まるのか、落下して心臓が止まるのか。

 ……別の国に行く?

 私は目を閉じる。
 もう、他の国には行きたくない。
 
 ブラッド。

 やっと分かった。私は紅茶を淹れるのが好きで。
 本当に好きで。
 私の紅茶を分かってくれるあなたが、誰よりも大切だった。

 ――会いたい……。
 
 数字の群れに、今にも捕まりそうになりながら、目を閉じる。
 諦めない。

 私は、あなたたちに――もう一度、会う!

 手を伸ばす。
 私の全身を覆い尽くさんとする数字の群れから、浮上するために。

「ナノっ!!」

 その手を、誰かがつかんだ!


 監獄を歩く。暗い監獄を、二人の靴音がやけに大きく響く。
「私、私、たくさん勉強したんですよ!」
 腕に腕を絡ませ、私は大はしゃぎである。
「そうか」
 ユリウスはあまりしゃべらない。
「以前は5回に1回の割合で0点を取ってたんです。
 でも今は10回に3回の割合で0点を取るくらいに成長したんです!」
「…………そうか。確かに成長したな」
「でしょでしょ!!」
 ユリウスは時計屋の姿だ。でも分かる。
 彼はハートの国の彼だ。
 私はユリウスにすがってピョンピョンと跳ね、
「ユリウス。私、ハートの国に連れて行ってもらえるんですか?」
「……おまえ、帽子屋のところに戻ると決めたばかりだろう」
 呆れ果てたようにユリウスが私を見下ろす。
 な、なぜそれをご存じか!
「とはいえ、理解はしかねるがな。あんな狂った男の元に帰るとは……」
 私は視線を薄暗い石畳に落とし、ポツリと言う。
「ブラッドは、私の紅茶の味をたくさん分かってくれるんです。
 だから私も頑張ろうって思えて。頑張った分だけ分かってくれて……」
 言い訳みたいに繰り返す。無人の監獄に私の声が反響する。
「他は?」
「え?」
 言われて言葉につまる。えーと、えーと……。
 ブラッドの長身、妙な帽子、私に向けた笑顔、偉そうな態度、捕らえた
私に向けたサディスティックな笑み、紅茶を批評する上から目線。
 い、いやいやいや。これだとマイナスだらけでしょうが。
 でも、でも……。
「他はないの、かな? でもよく分からないけど、好き、みたいなんです」
 理由になってないって、怒られるかなー。
 ビクビクしてユリウスを見上げるけど、
「そうか」
 ユリウスはそう行っただけだった。表情はよく見えない。

 やがて彼は立ち止まった。
 歩こうとした私はつんのめりそうになり、
「ユリウス?」
「私がついて行けるのはここまでだ」
「え……」
 ユリウスは動こうとしない。
「そんな……ユリウス!」
 すがろうとして、少し視界が塞がれる。
 ユリウスが大きな手で私の頭を撫でたと分かった。
「おまえに渡した砂時計を、返してもらえるか?」
 次の瞬間、私はバッと後じさる。
「……っ! 嫌! 嫌です! 持っていたいんです!」
 懐を庇うように後じさった。
 だがユリウスは優しく笑っている。
 私や彼の友人にしか分からない、かすかな微笑だ。
「もう必要ない。むしろ、今後、厄介の種になりかねないものだ」
「嫌です! せっかくユリウスが……私のために……」
 私のために……いつ? どこで砂時計を……?
 不安で、つい懐の砂時計を確かめる。
「あ……」
 その隙を逃さず、ユリウスは私に近づき、ヒョイッと砂時計を取った。
「あっ! ユリウス! 返してください!」
 だがユリウスは砂時計を宙へ放り――銃で撃ち抜いた。

 銃で撃ったのに、やけに乾いた音が響く。

「あ……ああ……!……」
 宙に舞うガラス片やキラキラした砂を取ろうとしたが、指の間をすり抜け、
消えていく。
「ひどい! ユリウス、ひどいですよ!!」
 涙をにじませ、ユリウスの胸を叩き、食ってかかるけど、
「あれは役割は終えた。もういいんだ」
「…………」
 ユリウスの服をつかんだままうつむく。
「!!」

 瞬間、ユリウスに抱きしめられた。
 強く、強く。

 顔を上げるとユリウスの顔が間近にあった。
 そのまま、唇が重なる。
 なのに涙があふれてあふれて止まらない。
 これだけの悲しみを、どうすればいいのか分からない。
「ユリウス……ユリウス……っ!……」
 私は子供のように時計屋にすがり、泣きじゃくった。
 ユリウスと一緒になれたかもしれない。そんな時が確かにあった。
「いつか、いつかまた会えますよね?」
「……幸せになってくれ」
 いつ何の拍子に命を落とすか分からない世界。
 生真面目な時計屋は、私を安心させてくれない。


 そして涙が涸れるほど泣いて、やっとユリウスから離れられた。
 彼は真っ赤になってるだろう私の目元をこすり、軽く口づける。
 それから指をさす。監獄の中なのに、ユリウスが指さした先は、やけに
明るかった。まるで天国に向かうトンネルのように向こうが見えない。
「ここから先は、別の奴が一緒に行く」
「ユリウスは一緒に来てくれないんですか?」
「ああ」
 ユリウスはそう言っただけ。
 この世界は全てが不確定だ。私自身も。
「帰るんだろう? 好いた男の元に」
「……はい」
 私はもう一度目元をぬぐい、次の案内人を迎えるべく前に、
「――て、ジョーカー!?」
 光の向こうから現れたのは、間違いなくジョーカーだ。
 車掌服ではなく、いかにも監獄の所長という格好だが。
「ユリウス……」
「心配いらない。今回は組んでいるんだ」
「組んでるって、あれはジョーカーですよ!?」

「……ンだよ。俺様の案内じゃ不満か?」

 その声を聞いてピタリと止まる。私の思考の全てが。
「…………」
 私は迎えに来たジョーカーをじっと見た。
 汽車の中のジョーカーとは違う。
 一体彼は誰なんだろう。
 なのに、なぜかまた、止まったはずの涙が出そうになった。
 私はユリウスから離れ、ゆっくりと彼の元に向かう。
 ユリウスはジョーカーに、
「後は頼んだ」
「ああ。任せておけ」
 でもユリウスはその場に留まり、私は彼の手を取る。
 すぐ、ジョーカーは歩き出した。
 私は手を引かれながら、
「ユリウス……ユリウス! もう会えないなんて言わないで下さいよ!
 本当に、本当に、お元気で!!」
「大丈夫だ。私は死なない……死ねないからな」
 ユリウスはまた笑う。
 私を慰めるため、というより自虐的なものを含んだ笑みに見えた。
「?」
 一瞬、ユリウスの向こうに何か人影が見えた気がした。
 ――エース……?
「行くぜ。引きずられるな」
 ジョーカーが私の手を取り、前に引っ張って行く。
「あ……」
 道の先はキラキラしていて、まるでダイヤの宝石の中のようだ。
 私はあまり不安と思わず、少し乱暴に見えるジョーカーと歩き出した。
 ユリウスをもう一度見たいと振り返ったけど、もう道の向こうは
闇に包まれ、見えなかった。
 だから悲しさをこらえるため、ジョーカーに話しかける。
 何を話そうかと思ったけど、言葉は思ったよりすんなりと出た。

「ねえジョーカー。私、あなたにたくさん話すことがある気がするんです」
「そうかよ、俺にはねえな」

 私は笑う。
 そんなやりとりさえ、とても懐かしい気がした。
 光り輝く道を、私たちは歩き続けた。

 …………

 …………

 ええと。

 記憶がしばし飛んでいる。

 鏡の国に行って一命を取り留めたのはいい。
 で、ちょこっとだけ、お金を稼がせていただいて。
 それからどうしたんだっけ?
 鏡の国のブラッドとまあ、友好的にお茶会をした気がする。
 グレイの家に半日くらいの時間帯、泊まった気もする。
 だが、そのあたりで記憶が途切れている。
 ……私、どうやってダイヤの国に帰ってきたんだっけ。

 そして何でここにいるんだっけ?

『おおっとー!! これは測量会始まっていらいの大珍事!!
 前代未聞!! 砂時計の中から、余所者が出てきたぁーっ!!』

 何らかの粋な見世物と勘違いしたのか、お客さんは大歓声。
 私は滝のように上から振ってくる青い砂にまみれながら、呆然としていた。
 私は測量会に使う、大きな砂時計の中にいる。
 つか、帽子屋領の砂時計の中に入るってどうよ。
 しかも三回目の測量会ですか。
 鏡の国にいる間に、時間帯が飛んでいたらしい。
 ガラスの向こうで、予想外の事態に慌てる腹黒シドニー氏。
 鋭い顔で立ち上がるジェリコさんとユリウス。
『チッ』という顔をするエース……クソガキ、貴様との友情は決裂した。
 あとで覚えてろ。
 そして慌てふためいた顔のエリオットを抑え、ブラッドが立ち上がる。
 瞬時にステッキをマシンガンに変え……。

「――て、ちょっと待って下さい! 撃つんですか? 
 私、撃たれるんですか!?」
 
 マシンガンで肉片に変わるとか、斬新ですなあ。
 逃げようとするけど、巨大砂時計の中に逃げ場などあるわけがない。
 というか砂が落ちる落ちる。さっきまで腰までだったのに、今はもう首元
まで埋まっている。ううう。下着の中に砂が入ってきて、気持ち悪いったら。
 もうガラスを叩くことすら出来ず、私の全身は砂に――。

 そして鼓膜が破れそうな轟音とともに、私の頭上部分の砂時計が
砕け散ったのであった。
 駆け寄ったユリウスが、銃で砂時計の側面を叩く。
 側面のガラスが砕け散り、大量の砂とともに、私はユリウスに引っ張り出された。

 …………

 ええと、それでまあ。
 
 測量会の領主用待合室にて。
「すみません。最後の測量会を台無しにしちゃって本当にすみません!」
 私は両腕が使えない状態のままペコペコと謝り続ける。
「あら、かまいませんわ。いつもいつも無意味な繰り返し。
 あなたが助かるかどうか、私、ワクワクいたしましたわ」
 喪服のごとき黒きドレスに身を包むクリスタ様。
 言葉の内容はともかく、確かに怒っている様子ではない。
 まあ……。

「これは墓守領の住人だ。おまえたちが力ずくで奪い、暴力で洗脳し、
支配下に置いているだけだろう。返してもらう」
「彼女は私の物だ。陰気な時計屋風情が触れるな」

「あのお〜」

 時計屋と帽子屋に両側から腕をつかまれ、取り合われるとは。
 エースは目が笑ってない。
 エリオットは銃を抜いてユリウスを狙っている。
 残りのメンバーは……野次馬の目で半笑い。
 この状況をどうしろと。
「まあ何だ、とりあえずナノはどう思ってるんだ?」
 困った顔のジェリコさんが聞いてきた。
 ここで両方をフッて前の国に帰りますと返答して良い物か。
 考えろ、ナノ。状況によっては撃たれるかも知れぬ、
 

「実は前の国に帰ろうと思ってるんですよ。あははは!」


 ……考えすぎて一周して、一番考えない答えを口にしてしまった。

 …………

 …………

 帽子屋屋敷にたどり着くと、すぐにブラッドの部屋へと連れて行かれた。
 背中を強く押され、前につんのめり、膝をついて座り込む。
 ――思ったより、すんなり行けて良かったですかね。
 いや、状況はまったくもって良くない。
 すぐに撃たれなかったものの、もっと悪いことになる可能性も……。

 ユリウスは引き下がった。そして受け入れた。
 私が彼を選ばないことも、私が一度帽子屋屋敷に戻るということも。
 罵倒なり、詰問なりを予測していたが、それも無かった。
 ジャンプして喜ぶエースをたしなめただけだった。
 悟ったような笑顔が、不思議でもあり、寂しくもあった。
 とはいえ帽子屋屋敷に行くことには、やはり猛反対された。
 事例をあれこれ並べ説得されたが、自領を悪く言われたエリオットはじめ
帽子屋領連中が激昂。撃ち合いになりかけた。
 しかし私はどうにか抑えた。抑えてもらった。

 ユリウスはどこまでも優しい。
 本当に身の危険を感じたときは、その場で帰るようにと別れ際、大声で言われた。
 エースは……私がブラッドたちに連行され、見えなくなる寸前、一瞬だけ
泣きそうな顔になった。
 でも私を斬った挙げ句、崖から突き落としたのも彼だ。
 エースは小さくてもエース。本心は迷子のままだ。

 そして哀れなヒロインは。

 目の前には、足がある。
 座っているブラッドを見上げると、彼はゆっくり立ち上がった。
「お嬢さん、よく戻ってきた。帰還を歓迎しよう」
「どうも……」
「さて、君がさんざん私をコケにした挙げ句、別の国に帰ろうとしている件だが……」
「あ〜あはははは! いやあその。あれは言葉のあやというか何というか!!」
「ではその発言は君お得意の虚言と捉えていいものかな?」
「お、お得意って……」
 一瞬、ウソをつこうかと思った。だけど、
「いいえ。帰ります。別の世界の……あなたの元に……」
「っ!!」
 ブラッドの余裕の笑みが崩れる。
 その激しい怒りと嫉妬の感情に、私は気圧されそうになった。
「さんざん私を振り回し、貢がせ、捨てるとは。
 帽子屋ファミリーのボスもずいぶん軽く見られたものだ。
 よほど、その『私』は――」
「能力の優劣ではありません。ただ……」
 ただ、何だろう。だけど優先するのなら、彼だ。
「ならなぜすぐに帰らない。他の国から一度戻る暇があるのなら、真っ先に
その男の元に帰ればいいだろう!!」
 うわあ、怒られた。
「いや、そのあなたに会いに戻ったんですよ」
 あとユリウスにもね。
「何となく帰らなくてはいけないような気がして」
「大した覚悟もなしに……すぐに後悔することになるだろう」
 ブラッドは手を叩く。
 すると扉が開き、使用人が二人入ってくる。
「何をするんです。ブラッド、お忘れですか? 
 わ、私は帰ろうと思えばいつでも帰れるんですよ?」
 精一杯の虚勢をはるが、両腕を使用人につかまれる。
 お二人とも顔が見えない、分からない。

 ――まさか……帰らせる前に……私に何かを……?

 引きずられるように部屋から出されながら、私の顔から血の気が引いていく。
 冗談じゃない。もっと冗談じゃない。
 せっかくすんなり、ブラッドの元に帰れると思ったのに……!

「それでは、お嬢さん。地下でまた会おう」
 ブラッドの声が冷たく、部屋に響き渡った。

 私は目を閉じ、汽車をイメージしようと思った。
 今すぐ、今すぐに帰るんだ……!
 だけど目を開けても、ダイヤの国の帽子屋屋敷が見えるだけだった。

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