続き→ トップへ 小説目次へ

■鏡の国の余所者3

 前回までの詳細なあらすじ。
 鏡の国でなぜかグレイのお世話になってます。
 特にいる理由もないので速攻で帰ります。

 以上。

 …………

 帽子屋領のグレイの隠れ家入り口にて。
「それじゃ、行ってくるからな。良い子にしててくれ」
「いってらっしゃーい」
 やる気のない声を出したが、グレイは笑顔で手を振って『お仕事』に
出かけてしまった。
 私は見えなくなるまで見送り、扉を閉めて部屋に戻る。
 そして汚れたお皿やカップを、台所に運びながら考えた。

 ……なぜこんなことに。
 
 出会った人に、片っ端から好意を抱かれる余所者特権。
 最近、パワーが減退したと思っていたら、思い出したように息を
吹き返しやがる。迷惑極まりないです。

 そんなわけで私は、完全なる通りすがりの、グレイの家にご厄介になっている。
 グレイは、私の屋台を台無しにした責任を感じてくれているらしい。
 もちろん、変なことはされていない。
 グレイは私がずっと住んでいて、かまわないらしい。
「いいのでしょうか、これで」
 ――いや、よくない(反語)。
 台所で食器を洗いながら、独りごちる。
 そして顔を上げた。

「帰りましょう」

 助けられた恩だって、ちゃんと返した。
 墓守領のお二人とは、深い仲になる前に離れることが出来た。
「グレイも一宿一飯の恩義だから、気楽なもんですね」
 頼まれた家事は終わらせることにする。
 窓を開け、布団を干し、ホウキを出し、部屋を掃き、ガラスを拭き、
机の上や本棚を整理し……隅っこにホコリが残っているし、ガラス窓にも
まだ汚れが。お屋敷の生活に慣れきってましたからなあ……。
「え、ええと、か、買い物ですね! あと買い物!」
 私は買い物カゴと、グレイにいただいたお金を引っつかんで走り出した。

 …………

「おーい! ナノーっ!!」

 バタバタと走ってくるウサギは、すごく馴れ馴れしかった。
 クローバーの国の彼を連想するほどに。
 ――エリオット。『あなた』にも、もうすぐ会える。
「はあ。どうも」
 そのまま抱きしめられるかと警戒し、一歩引く。
 だけど三月ウサギは私の前で立ち止まり、ぜえはあと呼吸を整えた。
 しかし私に全開の笑みを見せ、
「紅茶を淹れてくれよ! あんたのニンジン紅茶が飲みたいんだ!」
 キラキラ。バタバタ振られる尻尾が見えるかのようだ。
「あいにくと、紅茶の道具がございませんで」
 屋台をぶっ壊した咎を。遠回しにつついたつもりであったが、
「そうだ。屋台がないんだったよな。じゃあ帽子屋屋敷に行こうぜ! 
 ちょうどお茶会なんだ! ブラッドも、あんたの紅茶を飲みたがってる」
 てめえ。ひとごとみたいに
「いえ、用事がございます。見ての通り買い物の帰りですし」
「買い物?」
 エリオットはきょとんとして、私を見る。
 私の買いものカゴ(猫さんプリント入り)には、食材が入っている。
 すると彼は耳をピーンと立て、ますます嬉しそうに、
「へえ。帽子屋領に住むことにしたのか。ならやっぱり屋敷に住んだ方が
いいって! ほら持ってやるよ! 行こうぜ!」
 そう言って笑顔で買い物カゴを取ろうとするので、私は慌てて買い物
カゴを腕の中に抱えた。
「いえ、なぜそんな解釈を――知人の家に厄介になっておりますので」
 するとエリオットが笑顔を消した。
「知人って、誰だ?」
 低い低い声だった。

 昼の帽子屋領。むろん、街でエリオット=マーチを知らぬ人などいない。
 抗争に慣れた人たちは、剣呑な雰囲気を察し、足早に離れていく。
 あっという間に通りは閑散とし、私たち以外人っ子一人いなくなった。
「エリオット。そろそろ行って良いですか?」
「言えよ! 知人って誰だ!?」
 怒ってる怒ってる。さながら恋人の浮気を発見した男のように。
 そして買い物カゴをもう一度見る。
「……あんたが手料理をわざわざ作ってやる相手、か?」
 すみません。ほぼ全部お総菜である。元の世界のレトルトとまでは
行かないけど、ちょっと火で炒めて、はい出来上がり的な、お手軽系。
 だって私も料理が下手だし、グレイの料理も恐ろしすぎる。
「ル、ルームシェア的なものですよ。家事は順番こで……」
 ガンッ!! 
「…………」
 後じさる。壁にヒビが。エリオットが力任せにぶん殴った、近くの
建物の壁に、ヒビが入っている!!
 こ、抗争で、もろくなっていただけですよね? 
 頼むからそうであって下さい!!
「エリオット。落ち着いて下さい……」
 私のニンジン紅茶には、知らず媚薬の成分でも含まれていたのだろうか。
「男か?」
「あ、あ、あなたには関係ないでしょう?」
 実際に関係ない。だがエリオットの顔色が変わる。
 私を見る目には……もはや……凄まじい殺気が……。
「来いよ」
「ええとですね。気が変わりました。お屋敷に行って、貴様らに紅茶を
淹れてやらないこともありません」
「いいから来いよ!」
 私はいつだって危機察知能力の回線速度が遅い。
 手首を強引につかまれ、引っ張られる。
 買い物カゴが落ちるが拾ってる暇もない。
「エリオット! 買い物カゴが……!」
 食材の購入費はむろん、グレイから渡されている。
 釣り銭だって、あの中なのに!! 
 だがエリオットは私の腕を外す勢いで引っ張って行く。
「……あの、エリオット。そちらは屋敷ではないと思うのですが」
 明らかに路地裏に入ろうとしている。
 エリオットの目は恐ろしく怖い。
「あんたはこの国に来てからほとんど経ってねえ。
 どうせ住み処を得るために、男に媚びを売ってるだけだろう?」
「自立しようとした矢先、誰かに屋台を壊された気もするのですが」
「なら俺に頼ればいいだろう! 俺がこれから面倒を見てやる!
 俺が別の住居を借りてやるから!」
 足を踏ん張るけど力の差は歴然で、私はズルズル引きずられていく。
 ついでに言うと行き先は、エリオットの隠れ家だか別荘だからしい。
 すみません。××展開かと思いました。頭わいてますね。ハイ。
「誰かー! 助けて下さいー! ウサギにさらわれるぅー!」
 グレイが近くにいないかと、叫び声を上げてみる。
 まあ、こんなことをしたって、実際に誰か来てくれた試しは――。

「うちのウサギが何か粗相をしでかしたかな。余所者のお嬢さん」

 あ。来た。

 …………

 …………

 帽子屋屋敷の庭園では、少人数のお茶会が開かれていた。
 いつもと違うのは、紅茶を淹れるのが、ゲストということだ。

 私ナノは、特製紅茶をブラッドに差し出す。
「どうぞ。ナノさん特製・スペシャル・スーパー・ゴージャス・
ハイパー・エクスペリエンス・特製ブレンドです」
「形容詞が被りすぎな上、特製が二回も……いや、いただこう」
 鏡の国のブラッドは、私から紅茶を受け取った。
 私はちょっとドキドキしたけれど、ブラッドはとても満足そうに、
「ふむ。噂以上の出来映えだ。瑞々しく芳醇な香りと重厚な味わい。
 水色も澄んでいて申し分ない。またとない出会いに感謝しよう」
「ども」
 頭を下げるとブラッドは軽く笑い、
「謙虚なお嬢さんだ。平凡な美辞麗句では不満だったかな。
 学の無い男で申し訳ない。さあ、君も席につきたまえ」
「いえ、次の紅茶を淹れたいので」
 ブラッドは私の評判を聞いていて、たくさんの紅茶を用意してくれていた。
 鏡の国は、ダイヤの国よりは紅茶事情が改善しているらしい。
 おかげでこちらも、選択の幅が広がるというものだ。
「かまわないよ。好きなだけ試すといい」
 ブラッドはご機嫌だ。私が二杯目をつぐと嬉しそうに飲む。
 しかし少し真面目な顔になり、
「先ほどは我が屋敷のウサ……犬が、迷惑をかけたようだな。
 奴は、君の淹れていた邪道の紅茶に、よほど感銘を受けたようだ」
 あ。やっぱり腹心が敵対領土に通っていることを、ご存じでしたか。
 あと茶葉に混ぜ物をするのが邪道なのか、ニンジン紅茶の存在そのものが邪道なのか。
 ちなみにエリオットは、誘拐未遂と暴行未遂(?)でブラッドに
さんざん杖で殴られた。
 今は意気消沈して、屋敷に引っ込んでいるとのこと。
 ちょっと可哀想だったかもしれない。
「それほど悪気はなかったと思いますよ」
 何故か懐にあった砂時計をひっくり返し、蒸らし時間を計る。
 本人は、自分は良いことをしている、と疑っていなかったようだ。
 恋愛感情ではないだろう。
「懐いた相手が別の奴に懐くのが気にくわない、という軽い嫉妬だと思います」
 本気で怒ってはいない、と伝えるため微笑む。
「そう言ってくれると助かるよ。あいつの躾(しつけ)には、私も未だに
手を焼かされていてね。まあいずれは何とかするつもりだが」
 不可能かつ手遅れである。あえて指摘してやらない。 
「次のブレンドはお飲みになりますか?」
「いただくよ、お嬢さん」
 帽子屋屋敷のお茶会会場は、紅茶の試飲会と化していた。
 しかもテーブルにオレンジの物体がないため、ブラッドの機嫌もますます良好であった。

 …………

 やがて時間帯が変わり、夕方になった。私は赤く染まった空を見上げ、
「帽子屋さん。楽しいお茶会でした。そろそろ帰りますね」
 グレイが心配する。そういえば道ばたに買い物カゴを放置したままだ。
 見つけたグレイはさぞ心配するだろう。
「分かった。是非また来て欲しい」
 ブラッドは本当になごり惜しそうにカップを置き、指をパチンと鳴らす。
 するとどこからかメイドさんが現れた。
 両手にはお盆を持っていて、そこには、高価そうな紅茶の缶と何やら
小さめの包み。私はピンと来る。伊達にマフィアとのつきあいは短くない。
「こんなことをされては困ります。帽子屋さん」
「素晴らしいお茶会への報酬だ。うちの犬の迷惑料も含まれている」
 ブラッドは涼しい顔である。
 私はあきらめ、それを手に取った。
 ずしりとした感触。それを懐に入れた。砂時計とぶつかり、重い音がする。
 メイドさんが一礼して下がったのを見て、私も頭を下げ、去ろうとした。
 するとブラッドが立ち上がり、
「門まで送って行こう。うちの門番に斬られてはたまらないからな」
「ではお願いします」
 頭を下げ、二人で歩き出した。

 
「君はよほど、私に関心があるようだな」
「へ?」
 門が間近に迫ったとき、ブラッドが笑った。
「紅茶の話はいい。だが『私』の好みについて聞き過ぎだ」
「え……」
 そういえば、せっかく『ブラッド』に会ったからと、紅茶についての
質問をしまくっていたけど。
「どの紅茶を『私が』どう感じたか。『私は』どういう味を好むのか。
『私は』どんな香りを好むのか。私の反応ばかりをひたすらに追及
してくれる」
「…………それは、その……」
 初対面の相手にそれは不審すぎる。
 諜報員かも、とか変な詮索を受けるかも……。
「ずいぶんと好かれたものだな。別の『私』は」
「っ!!」
 紅茶を飲んでいたら、確実に噴いていた。
 ブラッドは、どこの国でも変わらない。全てを見透かす瞳で、
「君の悩みに対し、答えを与えられるとすれば、君は君が淹れたいと
思った紅茶を淹れるといい。私の好みを先回りして淹れた味など、
何の面白みもない」
「…………」
 一理はあるかもしれない。
 機嫌を取ろうと思って淹れた紅茶ほど、評判が悪かったことが多々ある。
 
 やがて門の前に来た。
 鏡の国のディーとダムに会ってみたい気もしたけど、サボリで不在だった。
 夕日がまぶしい。
 最後にブラッドは、
「君に是非また来て欲しいと言ったが、もう来ない方がいいだろうな」
「え?」
「エリオットの心情が分かってしまうからな」
 ブラッドは少しかがみ、私の額にキスをした。
 そして私を見下ろし、微笑む。本心の分からない笑顔だった。
「今ならまだ自制がきく。だが、いずれ君の全てを手に入れたくなる。
 なりふり構わず君を傷つけ、醜態をさらしてしまいそうだ」
 額が少し熱い。私の頬も熱くなっているかも。
 そしてハッと気づいた。
「ねえブラッド。もしかして最高の紅茶は必要ないんですか?
 私が淹れるだけで良かったんですか?」
 意味不明な上、思い上がった質問だ。
 私は目の前の彼ではなく、彼を通した別のブラッドに聞いていた。
 聞かずにはいられなかった。

「その男が君を愛しているのなら」

 鏡の国のブラッドはうなずき、私の頭を少し撫でる。
 そして私に背を向け、振り返らずに屋敷の方に消えた。
「…………」
 顔が赤くなる。羞恥心で。
 鏡の国の彼と話して分かった。

 ――私、もしかしてずっと間違っていたのかもしれない。

 ダイヤの国では、完璧な紅茶を作ればいい、という思いに囚われていた。
 クローバーの国の彼は、ずっと私の腕は二の次だと言ってくれていた。

 ――ブラッド……。

 ポロッと涙がこぼれた。
「会いたい……」
 ダイヤの国の彼に。クローバーの国の彼に。
 必要なのは最初からそれだけだった。
 私がこの国に来た理由はもしかしたら……そのためだったんだろうか。

「ナノっ!!」

 私を呼ぶ声と誰かが走ってくる音。
 グレイだ。道の向こうから走ってきた。
 マフラーをなびかせ、ちょっと乱れた髪をさらに乱れさせて。
「大丈夫か!? 三月ウサギにひどいことをされなかったか!?」
 知り合って間もないのに、私の肩を抱き、真剣に案じてくれている。
 しかしそういうことを、あまり大声で言わないでほしい。
「大丈夫ですよ、ありがとうございます、グレイ」
 私は微笑んだ。
「ちょっとお茶会に招かれまして。
 あ、もちろん危険なことは何もありませんでした」
「そ、そうか」
 グレイはホッとしたようだった。だがキッと、
「お茶会に招かれた? 感心しないな。連中はマフィアで君はつい最近
まで墓守領に出入りしていた。もう少し警戒心を持った方がいい。
 そうでなくても、そういった奴らに興味がある女と見られ、勘違いを――」
「えーと……」
 久しぶりにお説教を受け、嬉しいような悲しいような。グレイは微笑み、
「さあ、帰ったらご飯にしよう。買い物カゴの食材は盗まれていたから、
二人で身体に良い食材を買いに行こう」

「は? は、はは……」
 さらば総菜。
 グレイに手を引かれ、私は夕暮れの中、仮住まいに戻っていった。

 …………

 暗闇の中、むくっと起き上がる。
 閉められたカーテンの隙間から、いつもより明るい月明かりが差し込んでいた。
 私は隣を見る。私を抱きしめる格好で眠ってしまったグレイだ。
 ……勘違いの無きように。何もございません。
 ベッドで二人で話しているうちに寝てしまったのだ。
 
 夕食は楽しかった……料理をのぞき。
 悶絶するほどの味を押し流すべく、私は早急にココアを淹れた。
 グレイの喜びようと言ったら無かった。
 言葉を尽くして私を褒め称え、店舗再開の折には、是非ココアをメニューに
淹れるべきだと主張した。
 それから駅長さんの情けなさを愚痴られたり、なぜだかマリオネットを
見せてもらったり。楽しく時間が過ぎていった。

 ジェリコさん、ユリウス、エリオット、ブラッド、グレイ。
 良い人たちだ。この国にとどまれたら、きっと素敵だっただろう。
 
 私はテーブルに缶一つと、こっそり書いたお礼の手紙を置く。
 缶の中身はニンジン紅茶だ。
 もう淹れてあげることもないだろうから。

 ――ああ、そうか。
 
 ズキリと痛む。私がクローバーの国のブラッドを選んでしまったら。
 別の軸であるブラッドやエリオット、ディーやダムと会うことはなくなる。
 ダイヤの国のブラッドとも、二度と……。
 少しうつむき、そして扉に向かう。
 扉を開けようとした。

「寝てる間に、保護した猫に逃げられるのは、結構ショックなもんだぜ?」

「っ!!」
 心臓が止まるかと思った。
 熟睡していると思ったグレイが、ベッドに起き上がっていた。
 ニヤニヤとこちらを見ている。
 彼が軽く手を叩くと、部屋の灯りがパッとついた。
 私は言い訳しようもなく、夜逃げの格好だ。
「あ、その、グレイ……」
「別に引きとめやしねえよ。危険だってことは警告してあるからな。 
 だけど最後にもう一度、あんたのココアが飲みたい。ダメか?」
 ダメなわけがない。


「もう少し、いたらどうだ? あんたの屋台は大評判だったし、色んな
役持ちがあんたに興味を持っている。せめて次の催しまで……」
 ココアを飲みながらグレイは言う。
「答えも思い出もいただきました。これ以上いては居心地が良すぎて
前の国のことも、その前の国のことも忘れそうなんです」
 グレイはうなずいてくれると思った。でも、
「忘れてもいいんだ。大事なのは『今』だろ?」
「……そうですね」
 私はしげしげとグレイを眺める。
「ん? 何だ? 俺に惚れたか?」
「はは……」
 ――会いたいなあ。
『彼』にも伝えたい。ありがとう、ごめんなさい。
「……この国は眼中にねえか?」
 グレイが意味ありげに私を見た。
「いえ。そんなことは……」
「いいさ。巡り巡ったら、いつか会える。
 そのときは美味いココアを淹れてもらうよ、あんたにな」
 それは『私』なのか。別の『私』なのか。
 グレイは微笑んで手を伸ばす。
「短い間だったが、楽しかった」

「グレイ、ありがとう。さようなら」
 
 十分すぎるほどの思い出が出来た。
 身体を休められた。
 ゆっくり考える余裕が出来た。
 それだけで十分。

 私は帰る。ダイヤの国に。

 

「ん?」

 ハッと目を開けると、列車の中だった。
「え? は?」
 キョロキョロして周囲を見る。
 そんな……駅に行った覚えはないのに。
 いつ私は汽車に乗った!?
 慌てて私は懐を探り、
「あ、ありました。良かったあ〜」
 鏡の国のブラッドからいただいた報酬金を確認し、ホッとする。
 ああ。あとなぜか手作りっぽい砂時計もあった。

「最初に確認するのがお金の有無って、俺はどうかと思うよ?」
 
 呆れたような声が聞こえ、顔を上げる。
「あ、変な人」
 あの眼帯の車掌だ。
 今は夢を見ているわけではないのに。なぜ彼がここにいるんだろう。
「……俺の名前、今の君なら言えるよね」
「いえ、皆目思い出せません。あんた誰ですか?」
「…………。分かっているくせに、つれないなあ」
 立て直しやがった。
「変な人。この汽車はダイヤの国に向かっているのですか?」
「その呼び方は止めてくれよ」
「妙な人。ダイヤの国に着くまでに、どれくらいかかりますか?」
「妙って……ふふ。気になるのかい? 本当にたどり着けるかどうか」
「いえ、着くまで時間があるなら、駅弁をおごっていただこうかと」
「金があるのに俺にタカるつもり!?」
 耐えきれずにツッコミを入れてきた。
 ――しかし……。
 足下がゴトゴト揺れる。ずいぶんと汽車のスピードが速いようだ。
 外の不明瞭な景色も目まぐるしく変わる。
 同時に、心の中で徐々に勢力を増す、明確な不安。

 この汽車は、どこに行っている? 本当に望む場所に向かっているの?

「ジョーカー。真面目に答えて下さい。この列車はどこ行きですか?」
「おや、やっぱり覚えていたんじゃないか。
 さあ? どこだろうね――て、何をしてるのさ!」
 私は窓枠に足をかけ、出ようとしていた。
 余裕の吹っ飛んだ車掌が、慌てて私の腰にすがる。
「変態車掌。痴×プレイには飽きてるので、ご勘弁願いたいのですが」
「え? 飽きるほど誰とやっ――て、違う! ナノ! 危ないよ!」
 列車の外はびゅうびゅうと風が吹いている。
 風がバタバタと私の髪を乱し、下を見れば地面はなく、どこまでも深淵が
口を開けている。

 そして汽車の周囲を乱舞する……数字。

 あれにはとても忌まわしいものを感じる。
 あの数字に触れたら、私はどうなってしまうのだろう。
 
 ――ブラッド……っ!
 
 どちらの国の彼か分からない。
 会いたい。彼に会いたい。
 心が怖じ気づく。私は走り続ける汽車から飛び降りる勇気を持てなかった。
 私はついに列車の中に足を戻した。
「はは。浮気性のツケだね。
 どっちも好きになっていて、どっちに行ったらいいか分からない」
「だ、誰が浮気性ですかっ!!」
 私はジョーカーを突き飛ばし、走り出した。
 私が好きなのは……私を最初に見出し、愛をささやき、プロポーズまでし、
気まぐれにさらい、監禁し、洗脳一歩手前までやらかし、こちらの尊厳
などないかのごとく扱い……。

 ……ダイヤの国のブラッドの方がマシかなあ。

 あっちの方が若い分、多少は話が通じるとこがある。
 少なくともクローバーの国の奴よりは、私を認めてくれるし……。
「う、浮気性じゃないですよ! 
 クローバーの国の奴が、変態だからいけないんです!」
 私をないがしろにしてきたツケだ。ざ、ざまあ!
「いやそれ、立派に浮気性の言い訳だと思うけど……。
 危ないから俺のところにおいで、ナノ」
 ジョーカーが手招きしてくる。
 私は聞かず、バタンと車両端の扉を開け、次の車両に駆け込んだ。
 すると、そこは先頭車両でアナログな計器類が多数、作動していた。
 ――うっわあ。古いですねえ……。
 リニアモーターカーにはほど遠い。
 追いかけてきたジョーカーに、つい哀れみの微笑を見せると、
「……何かものすごく、腹が立つ笑い方なんだけど」
「ジョーカー。行き先が違うでしょう? ダイヤの国に路線変更して下さい」
 確信だ。多分、この列車はダイヤの国には行かない。
 私の声にも焦りが混じる。だがジョーカーは冷酷に、
「ダメだよ。一度走り出したら、もう路線は変えられない。
 大丈夫だよ、ナノ。すぐ楽になるから」

「――っ!!」
 
 今度は迷わない。
 
 私は汽車の窓を開け、虚空に躍り出た。

1/1

続き→

トップへ 小説目次へ

- ナノ -