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■鏡の国の余所者1

 ナノと申します。不思議の国に来てそれなりに経過しました。

 そして引っ越しに引っ越しを重ね、ダイヤの国にまで来た私は、
決意しました。

 クローバーの国に帰ると。
 ……帽子屋屋敷に住むと。

 が、どうやって帰ればいいのでしょうか。
 何か駅から汽車に乗れば帰れるとか何とか、夢の中の誰かが言ってた
ような、言わなかったような。
 しかし駅に向かっていたら、子供の通り魔に斬られました。


 まあ、そこは不思議の国の良いところ。
 斬られ、崖から落ちた後、ユリウスが助けてくれたみたいです。
 いやあ助かった。今度こそ終わったと思いました!

 …………

 ありえない。あそこっから、さらに別の国に行くとか。
 ありえないったら、ありえない。

 …………

 美術館の入り口では二人の役持ちが私を見送りに――というか引き留めに
来て下さっていた。

「部屋ならいくらでもあるぜ? 来たばかりで困ってるんだろう?
 外は物騒だし、滞在してくれても俺は喜んで……」
 新しいダイヤの国――面倒なので、こっそり『鏡の国』と呼ぶことに
いたしました――のジェリコさんが仰る。
「いいえ、どうぞおかまいなく!!
 行き先がありますから!! 決意が揺るがぬうちに汽車に乗りますゆえ!
 それと重体の際、治療して下さって、本当にありがとうございましたっ!!」
 後ずさりしつつ、何度も何度も頭を下げる。
「治療費と入院費をご負担出来ず、本っっ当に申し訳ございません!」
「いや、別にそれはいいんだけどよ――」
「おい、おまえは別の『私』と知り合いだったんだろう?
 それに誰かに斬られた状態で落ちてきた。
 前の国で何があったかは知らないが、戻るのは危険では――」
 私にとっては『三人目』のユリウスが口を挟む。

 ユリウス。ダイヤの国のユリウス。鏡の国のユリウス。
 ユリウスで軽くゲシュタルト崩壊が起こせそうだ。
「この国に来るまで何があった? 事情を説明してくれないか? 
 何か助けになれることがあれば――」
 と心配そうなジェリコさん。
 ご自分の催しを台無しにされたのに、逆に心配して下さるとは。
「いえいえいえ! つまらないですから! これ以上ご迷惑にならない
うちに元の国に帰ります! ジェリコさんもユリウスも末永くお元気で!!」

 ……ブラッドとユリウスに取り合われた挙げ句、子供エースに
『ユリウスに迷惑をかけるトラブルメーカー』と見なされ、斬られました。

 言えるか!!

「それではどうも! 本当にお世話になりました!!」
 百二十度弱のお辞儀をすると、返事をさせる間を与えず、私はお二人に
背を向け、猛ダッシュで走る。
 引き留める声が聞こえた気がしたけど、知らない知らない。
 早く前のダイヤの国に、戻らないと。



 私が落ちた後のことを、簡単に説明いたします。

 私は『別のダイヤの国』に来た。
 そのダイヤの国――鏡の国ではちょうど催しの真っ最中だった。
 何でも巨大なフェニックスに乗って戦うのだとか何とか。
 この国のユリウスはちょうどそのとき、フェニックスに乗ってゲームに
参加していた。私はそのユリウスの真上に落っこちたらしい。

 ……血まみれの余所者が落ちてきた。
 この国のユリウスは呆然として戦闘不能になるわ、私は『ユリウス』と
言ったきり意識不明に陥るわ、ゲームは中止になるわ、賭けが白紙になった
客は暴れるわ。そりゃもう蜂の巣をつついたような騒ぎだったそうな。

 この国のジェリコさんは、私が時計屋にゆかりのある者だろうと判断。
 墓守領で集中治療をして下さったそうな。
 

 だが、ありえない。とんでもない。
 また新しい世界でやっていくなんて無理だ。
 誰にも邪魔されることなく、私は駅にまっすぐ走る。
 ダイヤの国に帰る。ユリウスに謝り、ブラッドには最高の紅茶を……!
 そして……もう一度、ブラッドに会う。


「は? 列車事故?」
 駅のホームで、私は呆然と言った。
「うん、そうなんだ。俺の改造車両がなぜか大事故起こしちゃってさあ。
 他の車両にまで影響が出ちゃって。復旧までちょっとかかるかなあ。
 にゃははははは!」
 対応に出た、ピンクのいかがわしい生き物がほざいた。
 今は、いかにも整備士という格好だ。それだけにタチが悪い。
「ああ、あんたには悪かったと思ってるよ。本当、本当。
 だからさ、復旧するまで良かったら駅に泊まって――」
 自分が乗ってなくて良かったと安堵すべきか、この卑猥な配色の猫を
ぶん殴るべきか。
「結構です。自力で帰りますから」
 肩に回される手をピシャリと叩き、私は鏡の国のボリスから離れた。
 彼は大惨事を起こしたというのに、罪悪感のカケラも見えない顔で、
「ふうん? でもその気になったのなら、本当に頼って来ていいからね。
 俺、余所者って初めて見るから興味あるんだ」

 初めて……。

 私にとっては、同じ部屋に住んだこともある相手なのに。
 ――ん? 住んだことあったっけ? 
 ハートの国でもクローバーの国でも、多少のつきあいはあったけど、
そこまで深い関係じゃなかった気がする。
 何だか記憶にあいまいな部分がある気もする。
 ――おかしくなりそう。
 私はボリスに別れを告げ、駅を後にした。
 そして見慣れた知らない国を、フラフラと歩き出す。
 
 …………

「疲れました……」
 歩いて歩いて、未だに前の国にたどり着けない。
 私は丘に登って、夕暮れの街を見下ろす。

 ダイヤの城、墓守領、駅、帽子屋領。ダイヤの国にそっくりだ。
 いや、確かにこの国は『ダイヤの国』というらしい。
 しかし私が帰りたい場所ではない。
 どこにも私の家がない。
 誰も私を知らない国。
 壊れそうなくらい、心が痛い。

 私は身体を震わせ、深く息を吐く。
 夕暮れの風が寒い。
 何だかお腹も空いてきた。
「どこか休む場所だけでも見つけないと」
 汽車の復旧がいつになるか分からない。
 駅の構内に泊まるべきだったか。
 でもそれはそれで、ボリスにちょっかいをかけられそう。
 この国の人たちとは、出来るだけ接点を持ちたくない。
 私はポケットを探るが、小銭の類は入っていない。
「せめて夜になる前に何とか――」

 瞬間。パッと赤い空が暗くなる。
 時間帯が変わって夜になった。

「どうして、こう……」
 やはり駅――墓守領は論外。『ユリウス』がいる――に行くべきか。
「やっぱりダメです」
 私は余所者。うぬぼれじゃないけど私と出会うことで、この国の人に
どんな影響が出るか分からない。
 接触は最小限にして、なるべく早く出て行くことにしよう。
「となると、久しぶりの野宿ですか――ん?」
 私は顔を上げる。

 何か良い匂いが漂ってくる。紅茶や珈琲ではない。
 お肉の焼ける、大変に良い匂い。
 くんくんと、私は匂いの方向に歩き出した。
 ……心の中で、何かが激しく警鐘を鳴らしていたが。

「あー……」

 しばらく森を歩いて、そこを見つけた。
 月明かりの森の中に、うち捨てられた廃車両が見える。
 汽車の車両だ。薄汚れていて苔むしている。
 そして、その汽車の前に焚き火があった。
 周囲に人影はない。テントもない。
「…………」
 繰り返すがテントはない。
 私はテントの有無を慎重に確認し、そそっと木の陰から出て行く。
 焚き火には木の串にささったお肉がある。
 うむ。中まで焼けている。良い匂い。
 私はそーっと一つ取り、あーんと、
「あのさあ。いちおう、一言くらい俺に断ってくれないかな?」
「っ!!」
 串を落とすところでした。危ない危ない。
 ガブッと噛みつくとジュワッと肉汁が口の中に広がる。
 新鮮なお肉は歯ごたえが良いこと!
 塩こしょうとハーブの味付けは、シンプルだけど素材の味を引き立てる!
 私は、はふはふと肉をかじりながら廃車両を振り返った。

 窓枠に肘を乗せ、呆れたように『エース』が私を見ていた。

 う……! も、もしかして鏡の国のエースさんだろうか。
 落ち着け。超落ち着け私。
 一本目の串を放り出し、二本目を引き抜く。エースは苦笑いし、
「落ち着いてるなあ、君。ちなみにそれ、俺の晩ご飯でもあるんだけど」
 片手で頬杖つくエースは、とても親しげだ。
 よし、これは初対面に相違あるまい。
「こんばんは、エースさん。
 どうも初めまして。私は余所者のナノと申しま――」
「あはははは! つれないなあ。俺が初対面かどうかも分からないんだ?」

「な……っ!『エース』なんですか!?」

 二本目を食べ終え、愕然と彼を見る。
 ダイヤの国でも会った気がするのに、何だって鏡の国にまで……。
「君も、迷子にも程があるぜ。こんなところまで俺に会いた――」
 最後まで聞かず、串を放り出し、私は走り出す。

 だがいくらも行かないうちに、
「いやあああっ! 誰かあ! 変質者がっ!!」
 後ろから抱きつかれ、悲鳴を上げた。
「ええ? 変質者? それは危ないな。
 正義の騎士が君を守ってあげないと」
 と言いつつ、後ろから私の身体に触れつつエースは笑う。
「夜の森は危ないぜ? 俺が寝床にしているあの車両に泊まっていきなよ」
 なるほど。だからテントがなかったのか。
「あなたの方が危ないでしょう! 何ですかこんな国にまで! ストーカー!? 
 あなたがストーカーしてるのは、ユリウスだけじゃなかったんですか!?」
「あはははは! パニックになりながら気色悪い罵倒をしないでくれよ。
 ……悪戯したくなっちゃうなあ」
 服の上から胸に触れてくるエース。
「いやあ!」
 さ、さすがに、つついちゃいけないとこを突いた?
 私は悲鳴を上げるが、夜の森に助けはない。
「誰か助けてーっ!!……ん……!」
 うなじに口づけられる。
 騎士の手は私の服の中へ入ろうとしていた。
「ああ。そういえば『俺』がひどいことをしたみたいだね。
 ごめんごめん。お詫びも兼ねて、君を泊めさせてよ」
「お詫びをしたいなら、このまま放して下さい! あと呼吸をしないで!!」
「うーん。それは無理だけど、違うプレイにしたいなら応じるよ?
 たまには変化をつけないとね。あはははは!」
「『たまには』って何ですか!! いつも襲ってるでしょうが!!」
 もがけども、もはや捕らえられた子猫。
「いやだからさ。もう少し×××にするとか、違う××にするとか。
 ×××××を試してみるとか、もしくは君が××××××――」
 もはや口から出る言葉の全てが卑猥である。
 しかももがく間に、エースは私の服のボタンをほぼ外し終わっている。
 肌着の上からさわさわと触れられ、ハーッとため息をつく。
 夜の森の奥で、もう逃げる手段はない。
「何もせず、朝まで楽しくお話ししませんか? 男と女の友情的な」
「何ソレ、聞いたことないなあ。男と女の友情なんてあるわけないだろ?」
 謝れ! 友情を築いている、全国の男女の皆さんに謝れ!!
「それとも、俺と旅をしてみる? 君だって迷子だろ?」
 ドキッとする。エースの言葉に、茶化す以上のものを感じた。
「……迷子じゃないですよ。クローバーの国に帰ると決めたんです。
 まあその前にダイヤの国で用事を片付けないといけないけど」
 しかしエースは意地悪く、私の顔を自分の方に向けさせる。
 首痛い、首!
「じゃあさっさと帰ればいいのに」
「き、汽車が事故で復旧中なんですよ。今すぐには……」

「そう? 俺はむしろ、君がホッとしてるように見えたけど」

 ナイフがあったら彼を刺していたのではないか。そう思った。

「いいね、その目」
 エースは満足そうだ。
「また迷う? それともここの帽子屋さんやユリウスに取り入って、
置いてもらう?」
「帰ります。この国には長居しません」
 それだけはキッパリと宣言する。
「そう? じゃあ、これは俺からの応援」
 エースは私にキスをする。
 気がつくと、いつの間にか車両の中だ。
 草むらの上よりマシと見るべきかどうなのか。
「この×××××××……」
「好きだぜ、ナノ」
 堂々たる嘘をつき、エースは私を座席に押し倒した。

 …………

 昼日がまぶしい。道に影が伸びる。
 私は駅への道を、空きっ腹を抱えて歩いていた。
「お腹が空きました……」
 何戦か終えた後、時間帯が変わった。
 ××魔に朝食に誘われたが、朝食は『これから狩る』という返答を受け、
至極丁重にその場を辞した。
 お肉二串しか食べてないのに、摂取カロリーを上回る運動をさせられた。
 お腹ペコペコだ。
「うーむ……帰る前に何か食べたいですね」 
 ダイヤの国では、どんな修羅場が待ち受けてることか。
 考えるだけで胃がキリキリ痛む。
「い、いけないいけない」
 首を振る。これでは帰るに帰れない。
 汽車というのは、願う場所に連れて行ってくれる、便利なものらしい。
 けど迷いがあるとどこに行くか分からず、逆にとても危険なんだそうだ。

「やっぱり何かお腹に入れたいですね」

 お腹が空いた。足下もふらつく。
 どこをどう歩いているのやら。
 
 あ。
 石につまずいた。バランスを支えきれない。
 あー、転ぶ転……。

「おいっ!!」
「っ!!」

 寸前で抱きとめられた。

「は?」 
 ユリウス=モンレーが目の前にいた。
 
 …………

「ち、違う! 私はたまたま通りがかっただけで……」
 またもジェリコさんの執務室。ユリウスは必死に弁解していた。
 腕組みした館長服のジェリコさんは、呆れ顔で、
「なーにが『たまたま』だよ。ずっとそわそわしていて、時間帯が夜に
変わったら『あの余所者を探さなくていいのか?』って散々――」
「違うっ! わ、私はその、ただ……」
 ユリウスは顔が真っ赤だ。
「はあ。どうも」
 どうやら『別の自分に関係のある余所者』という点を気にかけてくれた
らしい。心配した挙げ句、探しに来てくれたみたいだ。ちょっと嬉しい。
 しかしユリウスの懸念は……すでに手遅れである。
 なーんて言うわけにいかないので、夜の森で野宿したと説明した。
 するとユリウスは気色ばみ、ジェリコに、
「ほら見ろ! おまえがちゃんと引き留めないから……!」
「余所者の行動は制限出来んだろうが。そこまで言うならおまえこそ――」
「あの、何かすいませんでした……」
 私が悪いのかよく分からんけど、謝っておいた。
「む……。分かればいい。次から気をつけるように」
「はいです」
 何に気をつけるのか、イマイチ分かりませんが。
 でも、鏡の国でもユリウスはユリウスなのだなと、少し安心した。

「それで、何があって、あんたはあんな状態でこの国に来たんだ?
 何だって、そんな目にあった国に戻ろうとしてるんだ?」
 ジェリコさんは興味津々だ。
「その、詳しくは言えませんが、ちょっと約束があって……」
 私はしどろもどろに言った。しかしユリウスはすぐ眉をひそめ、
「『約束』? 具体的に会いたい相手がいるのではないのか?」
「いえ、何というかまあ、それもあるんですが、ええと……」
 私は視線を宙にさまよわせ、もごもご。
 すると役持ち二人は顔を見合わせ、

「なあ、とりあえず、気持ちが落ち着くまで休んでいったらどうだ?
 本当に帰りたくなったら、俺たちに気兼ねせず、いつ帰ってもいい」
「義務感だけで帰ろうとするのは危険だ。よく考えるといい」

 迷う気持ちを見透かされた。そう思った。だけど、

「ちょっとこの国にいるかもしれません。でも、ここには泊まれません」

 案の定、お二人は気が乗らない顔だった。
「帽子屋領だけは止めてくれよ? ダイヤの城も安全とは言えないし……」
「駅もダメだ。引きずられる可能性がある」
 お二人とも、私が墓守領に住むと決めてかかってる感じだ。

「ご、ご心配なく。ただちょっとお願いが……」

 ……………

 最初のお客さんは若い旅人だった。

「『銃とそよかぜ ダイヤの国支店』?」

 ここは日中の墓守領の市場。
 広い道の両サイドに露天が並ぶ、野外市場のような場所だ。
 ここに私の店も新しく仲間入りさせていただいた。
 大勢の人通りに関わらず、閑古鳥だけど……。

 で、木札の字を見た少年は、不思議そうに首をかしげた。
 まあ少年といっても、私より背丈がある。
 何やらリュックを担ぎ、この国には珍しく旅装という格好だ。
 ……どこかで見たような気がするが、決して触れてはいけないと、
自分の中の何かが激しく警告する。

「いらっしゃいませ。珈琲と紅茶のお店『銃とそよかぜ』にようこそ」
 私は営業スマイルで、赤い瞳の旅人に微笑む。
「店って……これ、屋台だろ? すごくボロボロの。
 しかも『珈琲と紅茶の店』って……カップとかポットしかないじゃない。
 どんな珈琲があるの? 茶葉は?」
「珈琲豆と紅茶の茶葉は、お客様ご持参でございます」
 嘘ではない。屋台につけた注意書きにちゃんとそう書いてある。
「ええ!?」

 私は気持ちの整理がつくまで、鏡の国にいることにした。
 でもどこかの領土にお世話になるなんて、もうゴメンだ。
 だから自立の道を模索し、不本意ながら、店を再開することにした。

 まず墓守領の領主に、市場通りでの営業許可をいただいた。
 そして廃棄処分にされそうになっていたオンボロ屋台を、無償で譲り受けた。
 移動用の車輪と雨よけ、物を載せる台があるだけの簡素なものだが、十分だ。
 今そこには、所狭しとポットやコンロ、珈琲セットが置かれている。
 最初、領主様から新品供与の申し出を受けたが、頑として断った。
 そうしたら領主様は部下の方に命じ、中古品をかき集めて下さった。
 料金は墓守領立て替え。
 必ず払うと、返済の誓約書を押しつけ、苦笑された。

 寝場所については安宿か、最悪、路上生活も考えたが、これは
領主様に強硬に反対された。
 で、言い合いの末、墓守領の居住スペースの一番狭い部屋を夜間のみ
借りることに。もちろん日中使っても全然OK。
 食事も出ます。あと食事会強制参加だそうな……。
 宿泊代、食事代その他は、私の店の売り上げから払うこと。
 でも払えなくても取り立てはしない。返済はいつでも可。

 ……どこが自立なんだ。むしろ前の国より迷惑かけてないか。

 ユリウスまで、珈琲豆の寄付を申し出てきたけど、断った。
 ちょっと背中が寂しそうに見えたけど、錯覚に違いあるまい。


「珈琲も紅茶の茶葉も置いてないカフェなんて、聞いたことがないよ!」
 入荷する余裕が出来るまでの辛抱なんです、マジで……。

 私はお湯を沸かす準備をした。そして赤い瞳の旅人さんに、
「紅茶と珈琲豆をご持参下さらなければ、淹れられません。
 ここはそういう営業方針の店なんです」
「材料がないのに、こんな高い料金を取るの!?」
 屋台につけられた値段表を見、呆れたように言う、鏡の国のエース……
ゴホンゴホン!……もとい旅人の少年が言う。
「ご満足いただけないのなら、お金はいただきません」
「当たり前だよ! 
 つまり君は、持ってきた珈琲豆や紅茶を淹れるだけってことだろ? 
 なら、わざわざ君に淹れてもらわなくても、自分で淹れるさ」
 少年は完全に立ち去る様子だ。
 まあ、普通はそういう反応ですわな。
 弱気な私は肩を落とす。


「二杯頼む。一杯はブラック。もう一杯はミルクと砂糖入りで」


『っ!!』
 私と少年は同時にその方向を見た。
 時計屋ユリウスが、仏頂面で珈琲豆の袋を私に突きだしていた。

「ユリウスー!!」
 パッと顔を輝かせ、少年がユリウスの元に駆け寄る。
「エース。またおまえはこんなところに……来るなと言っておいただろう!」
 あー。やっぱりエースですかー。あははははー。
 この国のユリウスには死んでもちょっかいをかけるまい。ガクブル。
 そしてユリウスは私に、ぎこちない笑みを見せる。
「ミルクと砂糖も、客持参か?」
「い、いえ。そこまでは! 少々お待ちを!!」
「ユリウス! 何でこんな薄汚い店で珈琲なんて淹れてもらうのさ……痛っ!」
 遠慮のないエースに、拳骨を落とすユリウス。やはり仏頂面で、
「……部屋にあった珈琲ミルが壊れた」
「なら別にこんなところで飲まなくても……」
 ブツブツ言うエースだけど、ユリウスに会えた嬉しさが勝ったのだろう。
『なあなあ、一杯は俺のだよな?』と目をキラキラさせ、ユリウスにジャレついている。
 私はいただいた珈琲豆の袋……お、重い。二キロはないだろうか?
 必要量だけでいいのに、と思いつつ、手早く珈琲豆を中古の破砕機に
入れ、ゴリゴリと砕く。
 ユリウスはエースの相手をしつつ、私をチラチラ見ている。
 前の国で、私と時計屋がどういう関係だったかは、話していない。
 でも気にかけてくれているのだとしたら……嬉しい。
「お、おい。ナノと言ったか。そ、その、こ、珈琲豆の残りは
おまえが使え。好みではないから、捨てようと思っていたやつだ」

 やっぱり好きだなあ。

「ありがとうございます。助かります」
 ユリウスに微笑むと、ユリウスはカッと頬を赤くし、すぐに目をそらす。
 私は構わず、作業を続ける。
 大好きだ。尊敬出来る。家族のような人。

 そして思う。
 ハートの国の彼と一緒になれたら、どんなに幸せだっただろう。
 切ない思いが胸をつく。
 それは仮定の話。ありえたかもしれない分岐の一つ。
 私には……もう戻らない遠い世界。

 ユリウスは家族でも恋人でもない。
 でも心から大切な人だ。
 どの国の彼も、きっと。
 愛している。
 家族のように大切な人として。

「はい、どうぞ」
 受け台に二杯の珈琲カップを置く。エースは不審そうに、
「ユリウス、こんな不衛生なもの飲んで大丈夫? 
 俺が先に飲んでみるから――痛っ!」
「普段から野宿をしているおまえが言うな。大丈夫だ」
 ユリウスはもう一度エースを殴ると、迷わずカップを取る。
 私の視線に気づいたのか、フッと微笑む。
「根拠がないわけじゃない。おまえは珈琲を淹れるのに熟練しているだろう?
 立ち居振る舞いを見れば分かる。手つきも、素人のそれではなかった」
 全身がカッと熱くなる。 
 何だか嬉しいような切ないような不思議な気分だった。
 露店を歩く人たちが、チラホラこちらを見ている。 
 役持ちがいるのが人目を引くみたいだ。
『珈琲豆、紅茶の茶葉持参』、という文字を見てほとんどの人は去るけど、
一部の人は財布の中の小銭を確認し、足早にどこかに行く。
 
「……っ!」

 そして、珈琲を一口飲んだユリウスが、目を見開くのが見えた。
 もしかして予想以上だったのだろうか。
 静かな嬉しさが胸に広がる。

 全て、ユリウスが教えてくれたことだ。

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