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■逃げた先の先

 測量会の医務室のベッドに、私は寝ていました。

「カフェインの取り過ぎですな」
 話を聞いた、顔無しのお医者様は即答されました。
「過剰な摂取は命に関わります。当分はお控え下さい」
「だよなあ……」
 耳を垂らし、ポツリと呟くエリオット。
 衆人環視の中、彼にお姫様抱っこされ、会場を後にしたかと思うと、
顔から火が出る思いです。
 が、この国を後にすると決意した身。休息など許されません。
「わわわ私には紅茶を作る使命が……」
 私はベッドに横たわりながら必死で言いますが、お医者様はポツリと、

「なら長くは無いでしょうな」

 怖いこと言われたー!!

「あんたは頑張りすぎなんだよ。
 しばらくは、ブラッドに紅茶を淹れるだけにしておけよ」
 ポンポンと私の頭を軽く叩くエリオット。
 私の熱意をブラッドへの忠誠心と解釈したのだろうか。
 エリオットは以前からは考えられないくらい、私に好意的だった。
「もう市場に出せるレベルのものは出来てる。
 ブラッドはあんたがいるだけで、十分満足してるさ」
 測量会が終わるまで休んでろ、と私のお布団を叩く。
 うう。私はまだまだだと思うのですが、すでに一部の紅茶は市場への
流通を始めています。
 幸い、帽子屋ファミリーのゴリ押し抜きで売れてるそうで、ちょっと嬉しい。

 では、私はこれで……と、処置を終えた顔無しの先生がついたての向こうに去る。
 エリオットも測量会に戻るべく、医務室の出口に行った。
 そして連れてきた使用人さんたちに、
「おまえら、ちゃんと見張ってろよ。時計屋がさらいに来るかも分からねえ」
『はい〜』
 ダルっと敬礼する使用人さんたち。
 そういえば、会場ではユリウス、大暴れだったもんね。
 そして扉を閉められ、エリオットの足音が遠ざかる。
 代わって、使用人さんたちがベッドサイドに来て銃を出し、
「それではお嬢様〜」
「俺たちが見張ってますからご安心してお休み下さい〜」
 休めねえ。

 …………
 
 ぐーぐー。
「お嬢様〜。測量会が終わりましたよ〜」
「そろそろ帰りましょう〜」
「――はっ!」
 目が覚めると夕方の時間帯でした。
 ば、爆睡しておりました。
 そういえばここのところ、ろくに寝てなかったから。
「ぐっすりお休みでしたよ〜」
「顔色も良くなって良かったです〜」
「は、はは……」
 平静を装って起き上がった。
 たっぷり寝たせいか、確かに気分が良くなっていた。
 ところで、ついたての向こうに他の看護師さんやお医者様の気配がない。
 会場の急患にでも呼ばれたのか、医務室に他の人はいないようだ。
「測量会はどうなりました? 帽子屋屋敷の順位は?」
「一位ですよ、巻き返しました〜」
「見事に巻き返しました〜」
 嬉しそうな使用人さんたち。賭けに参加してたんすか。
「それで、ブラッドは……?」
「ご安心下さい。すぐボスの元に参ります〜」
 い、いや別に『一刻も早く会いたい』という意味で言ったワケでは。
「車椅子をお持ちしますから、少々お待ちを〜」
 使用人さんの一人が、ダルっと嬉しそうに外に出る。
 もう一人は私の護衛に残った形だ。
 私は起きるのを手伝ってもらいながら、談笑。

 測量会はあと一回らしい。
 それまでに何とか完璧な紅茶を仕上げて……家に帰る。

 ――帰れるの?

 頭の中で声がした気がした。
 意地の悪い、男の声。
 一瞬だけ監獄の光景が見える。

 ――戻りたいと思うほど好きなら、今すぐ帰ればいいのに。

 ――本当は迷っていて、ぐずぐずと帰らなくていい理由を探してない?

 緋色の瞳の男も笑う。


 ――俺の管轄になっちゃうかなあ。


 一瞬だけ一人の人が映った気がした。
 もうずっと会っていない大切な人。
 私を叱るでもなく、脅すでもなく、ただ心配そうに見ている。

 ――もう時間がない。

 時間があふれている世界で、どうして……?


 うう、気持ち悪い。すぐそこに窓。
 新鮮な空気をかきこみたくなってきた。

「す、すみません。ちょっと外の空気を吸っていいですか?」
「ええ〜、でも、それは〜」
 難色を示す使用人さん。でも運良く、扉の外から声がした。
『お〜い、車椅子の調子がちょっと悪いんだ。見てくれないか〜』
「ほらほら。私が戻るのが遅れたら、ブラッドが何をするでしょうかねえ」
 医務室に残った使用人さんは渋々、
「分かりました〜、車椅子を直すのを手伝ってきます〜。
 危ないから、絶対にすぐ窓を閉めて下さいよ〜?」
「はいはい。大丈夫ですよ。逃げるつもりはありませんから」
 私はうなずき、使用人さんも外の仲間のところへ行く。
 そして私はよろめきつつ、窓枠に手をかけ、外を見た。
 二階? 三階だ。夕方の空が本当にきれいで――。

「ナノっ」

 目の前にユリウスがいた。

「――っ!!」
 
 叫びそうになったけど、口をふさがれる。
 ――ゆ、ユリウス……。
 口をふさがれながら目を見開く。
 ユリウスがあのデカい図体で、建物前の木に登っていたのだ。
 インドアのくせに生意気――とか言ってる場合じゃない。
 私の額から滝のような汗が出る。
 そ、そりゃあユリウスと話はつけなければならないけど。
「行くぞ、ナノ」
 冗談じゃない!

 これじゃ、前の国と同じだ。
 テニスボールみたいに、二つの領土を行ったり来たり。
 いつまで経っても、時計の針が先に進まない。
 それは非常にマズい。とりわけこの国では。
 なぜか知らないが私には分かるのだ。

 しかもこの手の流れ、もれなく私への被害が拡大する仕組みだったりする。
 冷や汗が出る。身体が恐怖で震える。
 撃たれる。いかなる理由を主張しようと、今度こそブラッドに撃たれる。
 足を撃って私を動けない身体にするくらい、奴は平然とやりかねない。
 この国の奴はそれくらい恐ろしい。

 そして意図的でないにせよ、振り回すハメになったこの国のユリウス。
 彼にもこれ以上、迷惑はかけられない。
「ごめんなさいっ!」
 私は窓から身を翻し、使用人さんの元に行こうとした。

 抱きしめられた。

「ナノ」

 耳元で囁かれる。私に囁かれることなど、絶対にないと思っていた声。

「ユリ……ウス……」

 その声にはいつだって逆らえない。
 例え同じだけど、別の人と分かっていても。

 ユリウスは私の顔を自分の方に向けさせ、唇を重ねた。

 目を閉じると染みついた機械油の匂い。そして時計の音。
 一瞬だけ、戻りたい場所に戻れた錯覚に陥った。
 この人に全てを任せたい。何も考えたくない。
「ナノ、帰るぞ」
 私を窓の方に歩かせようとするユリウス。
 よく似ている。でも違う人なんだ。

 扉の外からは声がする。
 車椅子の調子が悪いらしく、使用人さん二人が何か会話している。
 でもいつまでも、護衛対象を一人にしておかないはずだ。
 次の瞬間には、入ってくるかも。私は外に聞こえないようヒソヒソ声で、
「ユリウス。本当にすみませんでした。でも、私は決めました。
 もうあなたの元には戻れません。
 私は帽子屋屋敷で、自分の紅茶を完成させたいんです」
「…………」
 ユリウスの顔が険しくなる。
 大事な人を傷つけたという身のすくむ想い、どんなに最低女と思われた
だろうという後悔の気持ち。でも言わなければ進まない。
「私の帰る場所は、帽子屋屋敷なんです。
 やっとそれが分かりました」
 この国の、ではないけど。今あえて言う必要はない。

「本当にすみません。どうか私のことは忘れて下さい」
「ナノ。怯える必要はない。
 おまえは帽子屋の暴力におかしくなっているだけだ」
 ……やっぱり簡単には行きませんか。
「えーと、あとですね。ブラッドはマフィアのボスです。
 権力者だし、何だかんだで格好いいです。
 屋敷も豪華だし、何でも好きなものを買ってくれるし。
 正直、あなたよりは余程……」
 秘技。相手の劣等感をつつく作戦!
 しかしユリウスはハーッと、
「バカなことを言ってないで、さっさと帰るぞ」
 な、流された!?
 ハートの国の奴なら、これでドヨンと自信喪失するのに!
 ハッ! もしや子供の有無が、奴のメンタルに影響を!?
 おのれ、ユリウスのくせに生意気な!
「見え透いた嘘をつくな。
 金だの権力だの、そういった物に動かされる女ではないだろう?」
 え!? え、そう見える!? い、いやあ。えへへへへ。
「カフェインと色事には、徹底的にトチ狂うとの噂だが」
 とんでもない噂が広まっていた!!

 医務室の外では使用人さん達の声。
 車椅子がなかなか直らないらしい。
 しかし今にも中に入ってきそう。
 私は今、ユリウスに抱きしめられている。
 私は彼の腕の中でモゾモゾしつつ、
「ユリウス、本当にすみません。本当に申し訳ないです。
 あなたは尊敬出来る方で、とても親切にしていただきましたが」
 ユリウスは逃がすまいとするかのように、より強く私を抱きしめる。
「なぜ私を拒む。おまえも一度は私を受け入れただろう」
「まあ、エースとの関係が難しいというか――とにかく戻ると決めたので」
「それがおまえの言いたいことか?」
 お? 分かってくれそう?
「一つだけ確認したい。私のことが嫌いになったか?」
「え? まさか。でも家に帰ると決めましたから……その……」
 口ごもり、ごにょごにょと同じようなことを繰り返す。
 良かったー。ユリウスには申し訳ないけれど、これで家路への第一関門は
あっさりクリアーだ。
 あとは紅茶を完成させれば、クローバーの国に帰れるじゃないですかー!

「分かった」
 ついにユリウスはそう言った!
 ……なぜだろう。胃が猛烈にキリキリ痛む。
 しかし記憶喪失の悪戯とはいえ、自分でまいた種だ。私は微笑み、
「そういうわけなんです。
 さようなら、ユリウ――って何をしてらっしゃるんです?」
 
 自分に浸っている間に、敵はコトを進めていました。
 気がつくと荒縄でグルグル巻きっす。
 抱きしめている間の早ワザ。ほとんど気づかなかった。
「あ、あの、『分かった』んでしょう?」
「ああ、分かった。おまえがバカで考え無しの×××だということが」
「ちょ、ちょっと、それはあんまりな――もがっ!」
 口ふさがれました。ハンカチっぽいのを無理やり口内に押し込められる。
 さ、猿ぐつわとは古典的な!
 ……そういえば、助けられたくないなら、単純に外に助けを呼べば
良かったのでは? と、己の頭の悪さを今さら嘆いても遅い。
「これで舌を噛まないな。よし、目を閉じていろ」
 ――は?
 目で聞き返す間もなく、ユリウスはグルグル巻きにした私を両手で抱える。
 恋人の優しさはなく、さながら面倒な大荷物を抱えるように……。
 ――ちょっと待て!! いったい何をっ!!
 パニクっている間に、医務室の扉もバタンと開く。
「お嬢様、お待たせ――時計屋っ!! 貴様っ!!」
「お嬢様を離せっ!!」
 大ポカに気づき、真っ青になった使用人さんたちが叫ぶ。
 しかしユリウスは、
「ハッ、そう言われて離すと思うか?」
 悪人そのものの笑みを見せたかと思うと、

 ――いやあああっ!!

 空中に放られた!!
 ひどいことを言ったとは思うけど、ろくな最期じゃ無いとは思ってたけど
まさか他ならないユリウスに空中に投げ飛ばされるとは! 
 ジェットコースターのごとく、美しい夕空が視界を舞う。
 これが今生最後に見る光景かあ……。
 そして私の身体は地表に叩きつけられ――
「っ!!」
 ドサッと何かに受け止められた。
「よしっ!! 成功だ!!」
 ジェリコさんのお懐かしい顔が見えた。
 そして状況を把握する間もなく、頭上で銃声が聞こえる。
 で、すぐまた、真横に誰かが着地する音。
 見るとすっくと立ち上がったユリウスが、
「作戦が上手く行ったな。さあ、帰るぞ」

 ええと……三階から私を投げ飛ばし、ジェリコさんに受け止めさせ、自分も
三階から飛び降り、骨折も何もなく無事着地した……?
 作戦か、これ。
 この世界の人、とりわけ役持ちの人らの身体能力は常軌を逸している。
 それこそ、素手でリンゴを握りつぶすわ、何十何百の鳥の群れの中から、
正確に一羽を判別するわ、というレヴェルだ。


「ど、どこに帰るんです?」
 ジェリコさんに猿ぐつわと荒縄を外していただき、聞いてみた。
 ちなみに上からは、なぜか使用人さんの声や追ってくる様子がない。
 まあ、使用人お二人、生き残ってもブラッドに始末されるのは確実。
 そう気づいて、私のことは捨てて逃げた……ということにしておこう。
 そうであって下さい、頼むから!
 そして三階から投げ飛ばされた私を、受けとめたジェリコさん。
 腕は大丈夫なんですか。折れるでしょう、普通は折れますよね!?

「もちろん墓守領だ。ナノの家に!」
 ジェリコさん。ご健在な腕で私の手を引っ張る。頑丈だった!
 しかしユリウスがすぐに割り込み、不機嫌そうな顔で私の手を取る。
「帰るのは私の部屋だ」
 肩をすくめるジェリコさんを見、正気に返る。
「いえ、ですからユリウス、私は――」
「『私は』……なんだ?」
 ユリウスが私を見た。その目を見た瞬間に、
 ――ビクゥッ!!
 数々の危険をくぐり抜けたわたくし。
 頭上を銃弾がかすめたことも、一度や二度では無い。
 その私の勘が、最大級の警報ベルを鳴らしていた。

 コノ オトコニ サカラッテハ イケナイ。

 三階から飛び降り、無傷な時計野郎。
 彼は猛烈に怒っていた。
 ブラッドにではない。勝手すぎる私に。
「い、いえ、でも、その、私は帰る場所が……」
 ユリウスは構わず私を引っ張る。
「まあ、なるようになるって。後は俺たちに任せな」
 ジェリコさんの苦笑。
「任せられませんよ! あのですね、ユリウス――」

「帰りたいのなら、すぐに帰ればいい。
 なのに、なぜおまえはここにいる?」

「それは……」
 言葉に詰まる。
 ユリウスは私の肩をつかみ、まっすぐに私を見た。
 肩に食い込む手が痛い。

「ナノ。おまえがそうと決めたなら、誰にも止めることは出来ない。
 だが、今のような逃げたいがための曖昧(あいまい)な心のまま
汽車に乗れば、行き着く先は――――だ」

 ユリウスの言葉は一部、聞こえなかった。
「逃げたいだなんて、私は真剣に……」
 クローバーの国に戻りたいと思った。皆に会いたいと。
「私や帽子屋の引き留め程度、覆してみろ。本気なら出来るはずだ」
「そういう話は墓守領に帰ってからしないか?」
 頬をかきながらジェリコさん。
 あ。上の医務室の方から何やら怒鳴り声が。
「ナノ! どこだっ!?」
 あー。窓から身を乗り出してるエリオットさん。
 私を見て一瞬安堵。そしてユリウスを見て顔色を変える。
「時計野郎!!」
 落ちる。それ以上、身を乗り出せば落ちます!
 てか落ちた!! エリオットが窓から落ちた!
 だが彼はユリウス以上の化け物ウサギ。
 華麗に着地し、銃を向け――撃った!! 私もいるのに!!
 轟音に耳がきーんとする。
「はは、無駄話が過ぎたな」
 私を腕でかばいながら、ジェリコさんが笑う。
 三階からは、新たな使用人さんたちが何人も顔を出し、こちらを指している。 
 しかし顔無しではさすがに、飛び降りては来ない。
 とはいえ増援がここにたどりつくまで、どれくらいか。
 あ、いや。墓守領サイドになって考えている場合では無い。
 ユリウスはすでにエリオットと銃撃戦を開始している。

 轟音。また轟音。

 頭上を銃弾が飛び交い、ジェリコさんが庇ってくれないと本気で危ない。
「墓守領に帰るぞ。今、おまえが汽車に乗るのは危険だ!」
「ナノ。浮気もいい加減にしてくれ。さあ、ブラッドのところに帰るぞ」
 待て。私は巻き込まれた被害者なのに、なぜどちらも私を非難する口調。
 ジェリコさんはどっちつかずの微妙な笑顔だし。
 ……何だか腹が立ってきた。

 ――ああ、そうですか! そんなに言うなら帰りますよ! 今すぐに!!

 紅茶を作るったって、書面で契約したわけでもないし、絶対に遂行
しなきゃいけない義務も義理もない。
「おい、ナノっ!!」
 私はジェリコさんの振り払う。エリオットはパッと笑顔になり、
「いいぞ、ナノ。こっちに走ってこい!――て、あれ?」
 私は三人とは全く違う方向に走り出す。
「ナノ!?」
「お、おい、どこに行く気だ!?」
 墓守領側でも帽子屋領でもない側に走り出す私。キッと男共を振り返り、

「駅です! 今すぐ帰らせていただきます! お世話になりました!!」

『な……っ!!』
 エリオット、ユリウス、ジェリコさんが顔色を変える。
「ブラッドはどうするんだ! あんた、紅茶を作るってさっきまで……!」
「止めろ!! おまえのように脆弱な意思で乗ったら汽車がどこに行くか!」
 流れについていけない感じのエリオット。
 心配してるんだか、けなしてるんだか微妙なユリウス。
 しかし犬猿の仲のお二人は、私に呼びかけてる最中もドンパチ。
 建物から帽子屋領の追っ手も出てきて、ジェリコさんも銃を抜く。
「ナノ、そこに隠れていろ、すぐに終わらせる!」
「はっ! 時計屋と死人に止められるかよ!! 
 てめえらの時計をブラッドへの手土産にしてやる!」
「させるか!」
「あそこだ! エリオット様に加勢しろ!!」
 混線。そして始まる銃撃戦。
 催しの間は争いが御法度(ごはっと)ではなかったのか。
 私はそそくさと争いを後にし、茂みに逃げ込んだ。
 だがすぐに、

「ナノ様だ! 追え!」
「絶対に捕まえろっ!!」

 帽子屋屋敷の使用人さんたちが追ってくる。
 私は息を切らし、茂みの中を走った。
 し、しかしここのとこ紅茶にかかりきりだったし、さっきまで爆睡して
いたしで……普通に捕まっちゃおうか。逃げなくても別にいいし。
 いやそうなると、また面倒ゴトが……。

 ――迷ってる迷ってる。

 エース。爽やかな男が脳裏に浮かぶ。
 汽車と監獄の幻影がなぜか目の前に浮かぶ。
 私はそこに足を踏み入れ――。
「あ」

 そこで現実に戻り、立ち止まる。
 エースがいた。大人ではなく子供のエースだ。
 ちょっと前なら、この上なく頼りになる友達。
 今は……。

「やあ!」
 彼は親しい人に会ったみたいに人懐こい笑顔を見せ――剣を抜いた。
「ちょっと待って下さいエース。話し合えば……」

「ユリウスにこれ以上迷惑をかけるなら、君は俺の敵だ」

 そして剣が。

 私の脇腹に刃が食い込む。

 宙に赤い液体が舞う。
 一瞬遅れてやってくる激痛。
「う……あ……」
 私は無様に腹を押さえる。しかし液体は後から後からあふれてくる。
 生存本能のまま、少しでもエースから逃げようと……逃げようと……。
「あはは。それじゃあね、ナノ!」
 壊れた目の少年は、楽しそうに私の肩をトンと押す。

 背後は崖。
 踏ん張る力もなく、私はそのまま後ろに倒れていった。

 GAME OVER!
 お疲れさまでした!

 私は深い深い穴の底に落ちていく。
 深く、深く。どこまでも。


 ――ブラッド……ユリウス……。


 今のままではいけない。
 でも前に進めず、後ろに戻る決意もつかない。

 汽車はどこに行くのか。
 誰が私を罰するのか。

 そして、落ちて。落ちて。



 突然、周囲が明るくなった。
 フワッと誰かが私を受け止める。
 大歓声が聞こえ、一瞬だけ私の意識が戻る。
「ん?」
 天国到着か?
 私は目を開ける。

「……は?」

 ポカンとして私を見る男。私は彼を見て、ガッカリする。
「何だ……ユリウスですか……」
 何なんですか、もう。私は目を閉じる。
 押さえた手の下からは、まだ赤い液がドクドクと流れている。
 全てが限界だ。
「え? おい!? 何だ、おまえは!!
 しっかりしろ! いや、本当に何なんだ!?」
 慌てふためいた時計屋の声。あ、そうだ。助けに来てくれたんだ。
 お礼を……。

 ――迷って。迷って迷って迷って。

 私はどこに行きたいんだろう。
 どこにたどり着いたんだろう。
 もう、どうでもいい。ユリウスには逆らえない。
 戻れないなら、私がいる場所で生きていく。

 意識を手放す寸前、大きな鳥の羽ばたきが聞こえた気がした。

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