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■家に帰ろう

着替え終わると、緊張が抜けてガクッと椅子に座り込む。
「疲れました……」
肩と背中と胸元の暖かさが身に染みる。
やっぱりドレスなんて似合わないー。マナーとか分からないー。
楽で楽で大きく伸びをした。
あと玉露。玉露可愛いよ玉露。ぬいぐるみみたいに腕に持っている。
何だかずっと持っていたアイテムみたいになじんでいた。
そんなぐったりした私にシドニーは、
「それでは、後はご自由に」
へ?いきなりフリーダム?
でもシドニーは私に丁重に一礼し、部屋を出て行こうとした。
「ちょ、ちょっと待って下さい、シドニー」
つい呼び止める。墓守領の迎えも気になるけど、それ以上に聞かずに
いられないことがあった。
「あの、私、お茶会で何か粗相(そそう)をしましたか?」
「女性にそう聞かれてYESと応えられたら、そちらの方がすごいと
思いませんか?」
うー、意地悪な回答。でも聞ける人が他にいない。
「ブラッドがあまりに不機嫌そうだったから……」
「本人に直接聞けばいいでしょう」
「聞けるわけないでしょうが!」
次の引っ越しまで、ブラッドと話す気はないし。
するとシドニーは腕組みし、しばし宙を見て言った。
「さっきも聞いたけど、君は、元の世界にいたとき上流階級に属していた?」
「まさか!」
即答した。記憶喪失に記憶喪失を重ねている状態だから厳密なことは
言えないけど、それでも分かることだってある。
「なら、元の世界で本格的なマナーのレッスンを?」
「ないです、ないです、ないです!」
「だろうね。なら、なおさらだ」
「何がです」
シドニーは言う。いつの間にか敬語が取れていた。
「今の君は、がさつでドタドタ歩き、優雅さのカケラもない。
物覚えも良くは無さそうだ。実際に記憶喪失だという噂も聞いている」
……ケンカ売ってるのか畜生が。だが否定出来ないのが悔しすぎる。
「なのにドレスを着たら、途端に見違えった。姿勢一つ取っても
別人みたいキリッとしていたよ。お茶会のときだってそうだ。
実に正しい礼儀作法。ティーナプキンの広げ方など、見事なものだった」
「え?はあ……」
急に褒められ、一気に居心地悪くなる。
ナプキンの広げ方なんて覚えてませんて。
「お茶会はね。紅茶を飲んでケーキを食べるだけじゃないんだ。
どんな立ち居振る舞いをするか、出来るのか。そこには目に見えない
無数の階級ルールがあり、ゲストの動作は常にチェックされている。
言わば、自分自身の教養を披露する場でもあるんだ」
「え。はあ……」
茶道に通じるものがありますな。席につく段階から作法を見られていると。
でも確かに。帽子屋屋敷のお茶会がフリーダムすぎただけで、本来のお茶会は
そういう場。貴族の社交場なのだ。マナーが悪いと自分どころか、血縁者まで
低く見られ、婚姻にまで影響を及ぼしたとか。
「君は全て正しくやってのけたんだ」
「ええと、たまたまですよ」
謙遜ではなく本心から驚く。行儀良くしようとは思ったけど、貴族の令嬢の
ように振る舞おうとしたわけではない。
「強く意識したわけではないのなら、なおのこと。
そういった作法は、一朝一夕に身につく物じゃないんだ」
持ち上げられすぎて非常に居心地が悪い。
「なら、ブラッドは何で不機嫌に――」
シドニーは肩をすくめ、扉に向かう。去り際に振り向き、
「元の世界の環境は無関係。ならこの世界の誰かが、君に教えたということだ」
「え」
「いかにも頭の悪そうな君が、記憶喪失になっても忘れないほどに、
辛抱強く時間をかけて、教えこんだ者がいる」
シドニーは去り際に、呆然とする私を振り返った。
少し人の悪い笑みを浮かべ、

「そんな完璧なマーキングを見せつけられたら、不機嫌にもなるだろうね」

バタン、と扉が閉まる。
私は玉露の袋を抱えたまま扉を見る。
――頭が……。
頭が痛い。
――私……私は……。
記憶喪失になってもなおも私の中に残っていた紅茶の知識。
ドレスを着たときの立ち居振る舞いは、自然に頭に浮かんだ。
でもシドニーに言われてみると、おぼろげに思い出されることがある。
いつかどこかで、ドレスを着て、誰かにエスコートされたような――。
私をそれに教えたのは誰?
――あなたは誰?誰なんですか?
だけどそれが誰なのか、どうしても思い出せない。
――いや、違う。思い出すのが、怖いだけです。
自分にとって無視すべからざる存在が。
替えのきかない相手だと自覚することが。

玉露の袋をギュッと握る。
記憶を失って何も持っていない私に、存在を刻み込む人。
それは誰。恋人?友人?
いや、そもそもそんな言葉でくくれる人なのか。
瞬間、頭を突き刺すように鮮明な言葉が聞こえる。

『君は今も望んでいる。安全な温かい寝床を。
それを保証してくれる飼い主を』

『私に従え、ナノ』

瞬間。全身が氷になったみたいに冷たくなる。
汗が額にどっと噴き出て、自分の身体を抱きしめた。
身体の深い場所から、私の全身を揺さぶる、恐怖を感じる。
――私……私は……。
そのとき。
ノックの音がした。
「ユリウス!」
瞬時に霧が追い払われ、私は顔を輝かせる。
きっとユリウスが迎えに来てくれたんだ。
汗をぬぐい、扉に走った。
そうだ。迷っていてはダメだ。ユリウスのことだけを考えよう。
抱きしめられ、キスをされたら忘れられる。
嫌なことは忘れて、新しい幸せに飛び込めばいい。
そして、次の引っ越しまで、二度と振り落とされないように。
「ユリウス。ユリウス。ひどい目に遭ったんですよ。
お願いですから、私を抱きし――」
言葉はそこで止まる。

「余所者というのは、たいそうな浮気者のようだな。
報告には聞いていたが、本当に時計屋と関係していたとは」

ブラッド=デュプレがそこにいた。


そもそも、少し考えれば分かることだ。
ブラッドとユリウスが鉢合わせすれば、私の扱いを巡って、最終的に
撃ち合い沙汰になる。全く関係ないダイヤの城で。
なら私との口約束を故意にもみ消し、ブラッドに私を連れて行ってもらう。
彼に良心があるのなら、私が帽子屋領に移ってから改めて伝えるのかも
しれない。やり合うなら、お互いの領土でやりあってほしいと。
だが最悪、私をお茶会に招いたことさえもみ消すかもしれない。
ダイヤの城は何も知りません。招待状?偽物の作った罠では?と。
クリスタにしたって、知り合ったばかり。
いくら余所者が好かれるとはいえ、全ての判断に優先されるわけがない。
彼らにとって考慮すべきは、常に自分たちの利益。
余所者の身の安全など二の次、三の次。
しかもそれに一切の罪悪感がない。責め立てたところで開き直る。
それで当たり前。ここはそういう世界だ。


「帽子屋領に帰るぞ、お嬢さん」
ザワッと全身が総毛立つ。
それは恐怖とはまた異なる感情だった。
「いや……」
ブラッドと親しくなりかけた頃に起こった違和感。
それがなぜか今、以前よりはるかに強く私の中に領域を広げていた。
手首をつかまれる。でも私は首を振った。
「帰らないです……ごめんなさい」
「命令だ。来なさい」
「嫌です!」
「ナノ!!」
ビクッと立ちすくんだ。
怯え、一気に気力が萎えた私を、ブラッドは侮蔑の瞳で見下ろし、引っ張る。
「最初からそうやって大人しくしていればいいものを……行くぞ」
「で、で、でも、や、やっぱり、ダメです」
怯えながら私は言った。
「何がだ」
冷ややかで酷薄な声。私はうつむき、玉露を握りしめた。
「本当にごめんなさい。でもやっぱりあなたは、ちが――」
「帰るぞ。二度は言わない」
彼もまたお茶会の時とは全く違う。
再び威圧的になり、私を淑女らしく扱う様子は全く無い。
「す、す、すみません、ごめんなさい……」
さらに萎縮し、オドオドとブラッドを見上げる。
手の中の玉露がやけに重い。
ブラッドは私の手を引っ張り、独り言のように、
「『印』などつけ直せばいいだけだ……」
部屋を出、誰一人通らない回廊を抜けながら、
「もう何も考えるな。君の全ては、私が決める。命令する。
君はただそれに従っていればいい」
出来ない。出来るワケがない。でも逆らえない。
足がフラフラする。
「ナノ?」
声が聞こえた気がした。

そのときには、疲労と緊張と逃避で、私は意識を失っていた。

――家に帰ろう。

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