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■出発前2

「…………」
時計屋さんの目は冷たい。しかし私はニコニコと、
「やはり目覚めの一杯は珈琲ですよね」
「おまえ、この前まで珈琲は嫌いだとか言い張っていなかったか?」
それでもカップを口に運ぶ時計屋さん。
うむ。持ち帰れないのなら時計屋さんのところで淹れればいいのだ。
珈琲の匂いで目覚めた時計屋さんにも、もちろん用意してあった。
そして夜のお茶会……珈琲ブレイクの始まりである。

「ジェリコに珈琲セットを融通してもらうよう頼め。余りのセットが
一つくらいあるだろう。私も珈琲を飲むから、もうおまえに貸すつもりは
ない。いちいち押しかけてくるな」
飲み終え、カップをテーブルに置く時計屋さん。
なぜだか、そんな当たり前の動作の一つ一つが嬉しくて目で追う。
だけど時計屋さんはすぐ立ち上がって出口に向かう。
「時計屋さん?」
「カップと器具は洗って元の場所へ戻しておけ。私はこれからエースを
探しに行く。恐らく館内だから心配はいらないだろうが……」
「あ、待って下さい。それなら私もご一緒に――」
立ち上がろうとすると、
「今は夜だ。暗いところでつまずかれ、ケガされては困る」
イライラしたように返され、ちょっとだけ心に雨が降りそうになる。
でも私を心配してくれての発言だと気づき、ちょっと持ち直した。でも、
「言っておくが、誰もいないこの部屋に居座って、何か悪さをしようなどと
考えるんじゃ無いぞ。他人を私の部屋に置くなど、お断りだ」
――…………。
反論出来ないだけの前科があるし、私はエースと違い家族ではない。
そんなこと、分かっているはずなのに。
「おい!だ、だから、そんな顔をするな!おまえが押しかけてきたのに、
まるで私がいじめているようではないか!」
時計屋さんが困り切ったように声をかけてきた。
――帰ろう。
沈みきった気分で考えていると、フッと身体が温かいものにくるまれる。
うつむかせていた顔を上げると、抱きしめられていることに気づいた。
「え……」
時計屋さんは抱きしめていると気づかせない程度の弱さで、私を抱きしめ、

「なぜ私なんだ……なぜ私を追いかけ、つきまとう」

……ストーカー行為を糾弾されている気分ですが。
そ、そこまでひどかった……?
「あの、ごめんなさい、ご迷惑を――」
するとしばし沈黙があり、
「いや、それほど迷惑では無い」
――ええ!?
「だがなぜ私なんだ。おまえに構われ、笑顔を向けられたいと
恋い焦がれている者は、この墓守領だけでも両手の指の数では足らない。
なのになぜ、私に……」
え?そうなんだ。それは、何とも……。
でもそのうち何人が、珍獣では無い『私自身』を好いてくれてるんだろう。
――私は……私は……。

記憶喪失の私は、初めて出会ったときから、この人が気になっていた。
とても懐かしい匂い、エースに向ける優しい笑顔、不器用だけど、とても親切。
――そうだ。私はきっと時計屋さんが好きなんだ。
自覚すると、一気に頬が熱くなる。
うん、あんな外道な帽子屋が気になるわけがない。
あれは監禁状態下におけるストックホルム何たらで、ちょっと精神がおかしくなって
いただけ。私が本当に気になって、そばにいたいと思う人は……

「と、と、時計屋さん、あ、あの、私、あなたのことが……」

「言うな!それ以上は!」

時計屋さんが恐怖に耐えるように目をつぶり、首を振った。
私がこれから言おうとしていることが、この人にとってどれだけ迷惑に
なるだろうか。でも、でも――。

「あ、あ、あなたのことが……」
「ナノ!!」

「……好き、みたいです……」

顔を真っ赤にして、どうにか言ってしまった。


ずいぶんと長いこと沈黙があった。
「違う……」
そう言われて、恐怖に胸を刺され、時計屋さんを凝視すると、
「違うんだ。おまえは、勘違いをしている。重ねているだけだ。
勢いで言ってしまっている。おまえが愛する男は、私では無く――」
とても悲痛な表情だった。ひどいことを言われた気がして、
「ど、どうして、そう言うんですか?私は、別の誰にもこんな感情を
抱いたことなんて、ありません!」
言えば言うほど恥ずかしい。でも引くわけにはいかない。
私はゆるく抱きしめられている腕の中から、静かに手を伸ばした。
するとビクッと身じろぐ気配があった。
それでもかまわず、長い髪に触れ、手の中に一房包む。
思ったよりずっと、きれいで滑らかだった。
「そうじゃないんだ。ナノ。おまえは……っ……」
耐えきれない、というように何か言おうとした。
私は続きを待った。
「…………」
でも続きは来ない。時計屋さんは、まるで自分の中の何かと戦っている
ような苦しげな沈黙を続け、
「――すまない……」
目を閉じたまま言った。
私に向けたようであり、別の誰かに向けて言ったようでもあった。
でも私の思考がまともに続いたのもそこまでで――
「……っ!!」

気がつくと、キスをされていた。


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