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■出発前1

これまでのあらすじ。
記憶喪失の薄幸の美少女こと私ナノ。
相変わらず紅茶や珈琲に狂っていますが、色々あって測量会に強制参加と
あいなりました。

……どうしよう。本当にコレしか説明することがない。
そして催しには役持ちは基本、全員参加です。
皆さんは守ってくれると仰るのですが……。

ベッドに横たわり、ぼんやりと外を見ている。
「…………」
部屋に差し込む月明かりが、とてもきれいだ。
夜風が、優しくカーテンを揺らしている。
あれから、時計屋さんの部屋を追い出され、自分の部屋に戻ってきた。
――時計屋さんの部屋に、もう少しいたかったですね。
時計屋さんの部屋なら、誰かと一緒なら眠れそうな気がしたのに。
私は何度か寝返りを打ち、ため息をついた。
何だか最近、時計屋さんのことばかり考えている気がする。
まあ最近少しずつ構ってもらえるようになった。それが嬉しいんだろう。
――うーん。でもあまりつきまとうのは迷惑だろうし。
そこで測量会のことを考えることにした。
……とたんに胃がずしんと重くなる。
日にちの概念の無い世界。次の朝の時間帯になったら、出発だろうか。
そこであの男と顔を合わせると思うと、胃がキリキリする。
――やっぱり、ジェリコさんに今からでも断ってきて……。
私が本気で嫌だと訴えたら、無理に連れて行かれはしないだろう。
――でも……。
時計屋さんが行ってしまうのが、少し寂しい。
もう一度寝返り。あきらめ悪くため息。
そしてフッと思い出す。

ブラッド……。

耳に届かないくらい小さくつぶやき、腕で目をおおう。
考えたくない。
あの男は私をかき乱す。今も考えるだけで身体が震える。
次にもし囚われたら、正気を保っている自信がない。
こんなことで、測量会で自分を保っていられるだろうか。
でも同時に、思い返すたび、胸のどこかが切ない。
……でも絶対恋ではない。断言してしまいたい。
心が混乱し、どうしていいか分からない。
――考えるな!
崖の底に引きずられそうになる心を静めようと必死になった。
そしてさらに別のことを考える

――時計屋さん……。

「…………」

不思議と。あの後ろ姿を思った途端、心の霧が晴れていく気がした。
地に足がついたように、冷静になることが出来た。
「珈琲でも、入れますかね」
――そうだ。もっと美味しい珈琲を淹れれば、きっと時計屋さんも――。
そう考えるだけで、何だか心がはずみ、浮き足立ってくる。
私はピョンとベッドから飛び降り、テーブルの上の黒エプロンをつかむと
後ろ手に結んだ。
「ふんふんふーん♪」
大変麗しい美声をかなで、キッチンに向かう。
「しかし、何を淹れ――」
と、そこでハタと気づく。
――こ、珈琲の器具がなかったんだった……!!
この前淹れたときは、時計屋さんにお借りしたんだ。
――あれは良かったですねえ。使い込んでて手に馴染みやすかったし。
「とはいえ、何度も借りられませんし。自分でセットを購入して――」
私は懐を探り、お財布を出す。
「…………」
夜目に中を凝視し、財布を逆さにした。カサカサ。
……ホコリしか落ちてこないという漫画的表現をやらかしてしまうとは。
また時計屋さんに借りに行くにしても、窓の外は夜だ。
「ふ……ふふ、ふふふふふ!」
だがしかし、ここは異世界。
私には、時間帯を自由に変えられる魔法の道具が!
――あ、あれ?
だが部屋の隅々まで探っても砂時計は出てこなかった。
どうやら最後の一個を、使い切ったらしい。
「…………」
私は窓の外を見る。そして最後にあきらめのため息をついた。
「借りに行きますか」
夜中だけど、エースもいるし、それに時計屋さんは仕事で夜遅くまで
起きているという。借りてすぐ帰れば問題ない。
黒エプロンまでして、頭は完全に飲み物モード。
もう珈琲を淹れないことには寝られない!

…………

そして、夜の時計屋さんの部屋。
「時計屋さん、起きて下さい、時計屋さん」
「ん……」
作業台に突っ伏して眠る時計屋さん。
私はその大きな背中をゆさゆさ揺する。

何と言うことでしょう。
私が来たとき、エースはすでにどこかに出かけていた。
きっと時計屋さんが、時計修理で集中している間に出て行ったな。
親の心配など考えない悪餓鬼めが。
「時計屋さん、珈琲のセット貸して下さい!あとエースもいませんよ?」
さらに揺するが、時計屋さんは深い眠りに入っているように見えた。
――うーん。
無防備に突っ伏す役持ちを前に、腕組みをして考える。
こっそり珈琲セットを強奪……もといお借りする。
却下。さすがに限度があるし、これ以上嫌われたくない。
……どの口が、とか仰らないで下さい。
――あ、そうだ!
そして明晰なわたくしは名案を考えたのであった。

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