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■時計屋さんと珈琲を・下

さて私ナノ。
紅茶のため、しでかした数々の悪行を時計屋さんに激怒され、珈琲を
淹れさせられるハメになってしまいました。
場所の都合で、会場は私の部屋。
自分で来ておいて、時計屋さんは居心地悪そうです。
とはいえ、珈琲なんてダイヤの国に来てから初めて淹れる。
記憶喪失のこともあるし、果たして上手く淹れられるかどうか。

…………

考えない。本能のまま手を動かす。何も考えない。
霧の向こうの記憶の命ずるまま、身体だけが勝手に動いていく。
火。コンロにかけた手網の中で珈琲豆が生き物のようにはぜる。
暑い。薄皮が飛び散る。私は豆を見極める。
焙煎(ばいせん)度合いを確認、火から下ろし、急冷。

全てが滑らかに、流れるように動いていく。
冷ました珈琲豆を、時計屋さんにお借りした、臼式の手回しミルに入れ、
ハンドルを回す。良い音がして、程良く焙煎した珈琲豆が砕かれていく。

どうしてだろう。時計屋さんの珈琲道具。初めて使うはずなのに、
全てが手に馴染んでいる。クセが身体に染みついている。
私はすぐに考えるのを止め、滑らかに次の動作に移る。
そのとき、視線を感じて集中力がやや乱れた。
目を転じるとソファに、時計屋さんがいる。
じっと私を見ていた。
……なぜか、頬が熱くなり、目をそらす。

ポットにセットした布製フィルターに、ゆっくりと湯を注ぐ。
低い位置から、粉の上にのせるように。珈琲の粉の一粒一粒に湯が
均等に注がれるように。
美味しくなるように。

…………

「――!」
最初の一口を飲んだ時計屋さんの目が、かすかに見開かれた。
「どうでしょう?」
ソファに座り、向かいで珈琲を飲みながら、私は聞いた。
でも時計屋さんは返答せず、淹れたての珈琲を、ゆっくりと飲む。
「どうでしょう?」
もう一度聞いた。私はドキドキしている。
「……悪くない。やはり、焙煎したての豆は新鮮だな」
少し間があって、時計屋さんは言った。
一緒に不良豆の除去をしたせいか、時計屋さんは心もち満足そう。
「そうですか」
悪くないのなら良かった。
それにしても時計屋さん、無愛想な人だと思ってたけど、今はちょっと
笑顔になってるように見える。
「焙煎したてだと、お湯を注いだときの反応が違いますよね」
「ああ。古い粉だとああは行かない。
どんな高価な豆だろうと、新鮮さにはかなわないな」
「ですよね。グラインドするときだって、手回しミルの方が――」
以下略。しばらくは、会話をつなげるだけの珈琲談義が続いた。

「やはり、珈琲を問題なく淹れられるようだな」
時計屋さんが、ふいに私に言った。
「……はあ、まあ」
あいまいに返す。すると時計屋さんは眉をひそめ、
「なぜ珈琲が嫌いだの、飲めないだの、嘘を言っていた。
それで得るものがあるワケでもないだろう」
珈琲を飲みながら、時計屋さんは不思議そうに聞いてきた。
「ええと、まあ、その、あ、あはは……」
自分でもよく分からないことだけに、あいまいに笑うしかない。
「変な女だな。だが、味は悪くない。手つきも慣れていたな。
品不足の紅茶に執着するより、珈琲を専門にしたらどうだ?」
時計屋さんは目を閉じ、珈琲の香りを楽しんでいる風だった。
だから私も返答しなかった。
「…………」
そのまま会話が途切れ、少し沈黙が続く。
そして時計屋さんは珈琲を飲み終えると、立ち上がった。
「では、そろそろ失礼する」
「え!?」
「何を驚いた顔をしている。他に用もないだろう」
言われてみればそうなんだけど、私は軽くショックを受けていた。
「あ……あ!それじゃ、器具を洗いますので、ちょっとだけ……」
だけど時計屋さんは先に、袋を取り出した。
まだ汚れの残っている珈琲器具を、汚れたまま詰めていく。
やけに早い手つきで。
「おまえが珈琲を淹れられるということを、確かめたかっただけだ。
抵抗なく淹れられるのであれば、問題はない。紅茶は諦め、珈琲を淹れろ」
そう言って袋を持ち上げると、扉に向かい、ノブに手をかけた。
「ま、待って下さい、時計屋さん!」
なぜか私は慌てて、追いすがるように時計屋さんの袖に手をかけた。
すると時計屋さんは振り向き、何とも言えない顔で私を見下ろした。
「放せ……」
時計屋さんは扉を開ける。
「あ、あ、あの、でも、もう少しだけ、もう一杯だけ!」
「おまえの腕ならどこのカフェでも通用する。
十分な収入も得られる。もう周囲に迷惑をかけるな」
そして言った。

「私では代わりになれない」

それだけ言って目の前でバタンと扉を閉めた。
後には、呆然と立ち尽くす私が残された。

…………

私は厨房の扉を開けるなり叫ぶ。
「すみません!紅茶を分けて下さい!!」
バタン!
もはや返答すらなく、厨房の扉が閉まる!!
「ひ、ひどい!ちょっとくらい、いいじゃないですか!」
しくしくと扉をひっかきながら言う。
「懲りない奴だなあ……」
近くのテーブルで珈琲を飲みながら、ジェリコさんが呆れたように笑う。
「向こうも忙しいんだ。ほら、こっちに来い」
と、私をテーブルに手招きした。私はとてとてと近づきながら、
「申し訳ありません、ジェリコさん。おごっていただけるなんて……」
「給料から天引きだ」
「ガーン!」
擬音で叫ぶと、ジェリコさんが噴き出す。
「図々しい奴だな。分かった分かった。好きな物を頼めよ」
「そうですか、では、軽く紅茶を全種類――」
「おーい!ナノに玄米有機野菜定食、頼むぜ!」
好きな物を頼めといいながら勝手に注文されていた!
何という非道な領主様なんでしょう!

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