続き→ トップへ 小説目次へ

■時計屋さんと珈琲を・上

記憶喪失でダイヤの国に来た余所者ナノ。
色んな方に『珈琲は苦手で……』と言って、飲むことさえ拒んできた。
が、実は私の頭には、珈琲に関する子細な記憶が存在する。
だからまあ、珈琲を淹れようと思えば淹れられるのでは?と自分でも
薄々思っていた。けど、何となく拒否ってきたわけです。
それが本当にふとしたことでバレてしまった。

そして今、荒れまくった時計屋さんのお部屋。
正座する私の前で腕組みする時計屋さんは言った。

「何でもすると言ったな。なら珈琲を淹れてもらおうか」

まるで処刑を宣告するかのごとく。重々しく言った。
見上げるような長身の時計屋さんに、私は恐れおののき、
「こ、こここ珈琲ですか!?なな何てことを仰るんですか、時計屋さん!
私は珈琲なんて飲めませんし、淹れ方なんて存じ上げません!!」
「いや、さっき平気で飲んでいただろう」
「いえいえいえ!」
「それに、私の推測が正しければ、おまえは淹れられるはずだ」
なぜか確信を持った声で言われた。私は慌てふためき、
「そ、そんな、何を根拠に……」
「淹れ方を忘れたのなら教えてやる。とにかく淹れてみろ」
「で、ですが時計屋さん!私は紅茶一筋でして……」
手を振りつつ立ち上がった。
「あ、そうだ!私、モギリの仕事があるので、これで失礼しま――ぐふっ!」
身を翻して逃げようとしたが、襟首を捕まれました。し、失礼な!
抗議をしようと振り返った……が、時計屋さんの恐ろしい顔があり、
黙るしかなくなった。
「おまえの都合が悪くなったと、連中には言っておいてやる。
私も役持ちだ。奴らは特に何も言わないことだろう」
「え、えと……ええと……な、なぜにそこまで私の珈琲をご所望に……」
「これ以上、紅茶のために窃盗事件や食中毒事件を起こされては
かなわないからだ。あまり私やジェリコの手を煩わせるな」
……厨房の紅茶窃盗……ゴホン、強制貸与事件。
私の紅茶狂ぶりに端を発した帽子屋領との諍(いさか)い。
自家製紅茶によるエース食中毒事件。
私の紅茶被害が養い子にまで及び、立腹具合も並ではないらしい。
すると、恐る恐るといった様子で、エースがまたベッドから顔を出し、
「あ、あのさ、ユリウス、俺はもう本当に……――な、何でも無い!」
再度睨まれ、スッと引っ込んでしまった。ああもう!
「それじゃあ……」

…………

私は思っている。
――何でこんなことになっているのだろう。
多分時計屋さんも同じはず。
「えと、どうぞ……ちょっと散らかってますが」
私は部屋の扉を押さえ、ぎこちなく言う。
「あ、ああ。お邪魔する」
私に輪をかけてぎこちない顔と声で、時計屋さんが入ってきた。
――何で、時計屋さんが私の部屋に来ることに……。
ちなみに時計屋さんは、手には紙袋をいくつか抱えている。
私の部屋を軽く見回し、言葉を選ぶ風に宙に視線をさまよわせ、
「……こ、紅茶の匂いがするな」
う、うん、普通の客室だもんね。感想ないですもんね。
ちなみに紅茶の本やら洗ってないカップやら手書き紅茶ノートやらで、本当に
そこそこ散らかってるけど、片付け下手同士からか、幸い追求されなかった。
「え、ええ。いつも紅茶を淹れていますから」
「ああ、そうだったな」
「ええ」
『…………』
き、気まずい。あの食堂のときよりも気まずい!
「そこの椅子に座っていて下さい。すぐ用意します……」
「ああ……そ、それじゃあ、生豆を……」
「ど、ど、ども……」
ずっしり重い紙袋を受け取り、お礼を言った。
それから時計屋さんはテーブルに向かうと、別の紙袋を置き、中から
手回しミルやドリッパーといった、珈琲の器具を出していく。
そして、窓の外に目をやり、憂鬱そうな顔になる。
時間帯の変化で窓の外は夜になっていた。私を振り向き、
「おい。やはり場所を改めないか?他にも火を使える場所は……」
「どうでしょう。生豆の焙煎って、匂いが移りますからね」
エプロンのヒモを結びながら、私は言った。

……そう。珈琲を淹れることについては観念した。
エースを腹痛にしたお詫びに、珈琲を淹れることで決着した。

が、今度は私が『生豆の焙煎(ばいせん)から始める』と言い出したから
時計屋さんも驚いたみたいだった。
焙煎。つまり生の珈琲豆を火にかけて煎ることだ。
時計屋さんは『何もそこまで……』と言ってきたけど、私が譲らなかったので
渋々了承した。戸棚の奥から生豆の袋も出してくれた。
が、今度は焙煎する場所が問題になった。
何しろ生豆の焙煎だから、薄皮が飛び散るし、匂いも半端ない。
食堂の厨房でやろうものなら、壁や料理に珈琲臭が移りかねない。
最初は、時計屋さんが使ってるのと同じ場所で焙煎しようと思っていた。
でも時計屋さんの部屋には厨房はない。
時計屋さん曰く、あの生豆はご自分の領土があるとき、そこの厨房で
やるのだとかなんとか。領主でも何でもない時計屋さんが『領土』とか、
意味がよく分からなかったけど、とにかくそういうことらしい。
外での焚き火は危ないので却下。というかジェリコさんに怒られる。
それでエースは部屋に寝かせ、焙煎に使えるコンロを探して二人でウロウロ。
そして……私の部屋に到達した。

「だが、女一人の部屋に夜に入るのは……」
今頃になってブツブツ言ってくる。
でもこっちだってこれ以上、時計屋さんにネチネチ言われたくない。
「大丈夫ですよ。この部屋に来る人なんて、ジェリコさん以外にいませんし、
今、ジェリコさんは館長のお仕事で、当分戻られないんでしょう?」
「いや、そういう問題では……」
なおも煮え切らない時計屋さんの前に、私は紙のシートを敷き、生豆を
袋からザーッと出した。そして時計屋さんにピンセットを手渡す。
自分もピンセットを持ち、笑顔で、
「じゃ、始めましょうか」
「……私もやるのか?」
瞬間。私はドンッとテーブルをこぶしで叩いた。
「ダメですよ時計屋さん!!ハンドピックやエイジングをろくにやらなければ
恐ろしいことになるんですよ!?ヴェルジやパーチメントやコッコが入ったら
どんな悪臭になるか!『手回しミルもろくに使えない素人が焙煎に手を出すな』
とか今さら言われてもたまらないですよ!!
いいですか!!ニュークロップの水分含有量は……」
「……不良豆の除去を始めるか」
胸ポケットから眼鏡を取り出しながら、時計屋さんが言った。
気のせいか、理不尽に耐えているような表情だった。

2/5

続き→

トップへ 小説目次へ

- ナノ -