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■一流の職人・下

「時計屋さん、一流の職人って、どうしたらなれますか?」
「……はあ?何だいきなり」
時計屋さんは唐突な私の言葉に、案の定、眉をひそめる。
けど私は真剣だった。
「時計屋さんは一流なんでしょう?
一流って、どうやったらなれるんですか?」
やはりというか、時計屋さんは露骨に顔をしかめる。
「気味の悪い女だ。紅茶を飲んだら出て行ってくれ、私は忙しい」
にべもない。
「お願いします!どうか教えて下さい!」
この世界で他に『職人』と言える人に、会ってない。
どうしても知りたかった。無事な方の手で時計屋さんのそでをつかむけど、
「もう紅茶は無しだ!さっさと出て行ってくれ!」
と、気持ち悪そうにはらわれた。
「わっ!」
肩を負傷しているため、バランスがくずれた。
私はそのまま床に尻餅をついてしまう。時計屋さんはハッとしたように、
「……!す、すまない。強く押した」
出て行けと言った割に、慌てたように私に手を差し伸べる。
「いえ、私こそ図々しいことを言っちゃって……すぐ出て行きます」
「あ、ああ」
私もちょっと頭が冷え、真っ赤になって立ち上がろうとする。
そのとき、ポケットから何かこぼれた。
「あ……落としちゃった」
ころんと転がったのは砂時計だ。
帽子屋屋敷に行ってからも大事にしていた、逆さにしても時間帯の
変わらない時計。でも誰が作ったのか未だに分からない。
「うーん」
大丈夫だとは思うけど、いちおうヒビが入っていないか、灯りにすかして
チェックする。すると、それを横からヒョイッと取られた。
「時計屋さん?」
「…………」
『時計』屋さんだからだろうか。彼は砂時計に興味を引かれたらしい。
難しい顔で砂時計を見ている。
「あの?」
時計屋さんは砂時計をしばらく手の中で転がし、最後に砂時計の底を目にし
……わずかに、ほんのわずかに目を見開き、そこをジッと見た。
そこには流ちょうな字体で『J.M』と刻まれていた。
「これを、どこで手に入れた?」
時計屋さんは表情を変えず、私に聞く。私は首をかしげ、
「さあ。この国に来たときから持っていたことは確かなんですが。
『J.M』って、誰なんでしょうね?
時計屋さんは『Y.M』だし、ジェリコさんは『J.B』だし……」
『J.M』の知り合いなんていない。
そんな私を時計屋さんはしばらく眺め、やっと砂時計を返してくれた。
「それじゃ、私はこれで……」
私は砂時計をポケットにしまい、帰ろうとした。
「いや、いい」
時計屋さんが私の手をつかんだ。
「やはりここにいろ。ソファに座れ。
なぜ私に変なことを聞いた。帽子屋屋敷で何かあったのか?」
私を引き寄せながら、時計屋さんが言った。
――え?何で、急に?
心底から、迷惑そうだったのに。
「実はですね――」
私は首をひねりながらソファに向かい、口を開いた。

…………

ソファに座り、私と時計屋さんは向かい合っている。
「……というわけなんです」
ティーバッグの紅茶を飲み、私は説明を終えた。
アダルトな部分はのぞき、おおむね時計屋さんに話した。
(墓守領に申し訳ないながら)最初は帽子屋屋敷で楽しかったこと。
そのうちに部下になれと脅され、断ったら閉じ込められたこと。
そうしたら紅茶を淹れるのが楽しくなくなり、何をやっても美味しい
紅茶を淹れられなくなったこと。
いや、マニュアル通りに淹れた紅茶は美味しかったはず。
でも評価はしてもらえなかった。
「でも、皆さんには紅茶を期待されてるみたいだし……」
「淹れられなくなったのなら、そう言えばいいだけだろう。
他に働き口もあるし、困ることは無い」
「ええ、そうなんですが、でも……」
紅茶を眺め、うつむく。ティーバッグの紅茶には味を感じない。
「悔しいから、もうちょっと頑張りたいかなって……」
不味いと否定され、打ちのめされたまま逃げるのが悔しい。
でもどうやって立ち直れば、そして上達すればいいのか。
急に恥ずかしくなってくる。
お礼を言う立場なのに仕事を邪魔して、つまらない悩み相談。
「ごめんなさい。こんな話、ご迷惑ですよね。忘れて下さい」
顔をちょっと赤くして立ち上がろうとする。
「一万時間」
時計屋さんが言った。
「は?」
私は立ち上がりかけた姿勢のまま、時計屋さんを見た。

時計屋さんは珈琲を飲みながら言う。
「音楽、芸術、スポーツ問わず、人が何らかの分野で一流と言われる
業績を得るまでには、一万時間の練習を要する。そういう説だ。
おまえのいた世界で、そういったことを発表した学者がいた」
「はあ……」
時計屋さんは珈琲を飲みながら続ける。
「素人がゼロから人並みに成長するまでに3000時間。
それなりに評価されるレベルには5000時間。
それを生業とすることが可能になるには8000時間、だそうだ」
まあつまり、もっと時間をかけて技能を習得しろということですか。
……でも3000時間だけでも途方もないなあ。
例えばプロのイラストレーターを目指す子がいて、学校が終わってから
毎日3時間絵を描き続けたとして……まあ用事で描けない日もあるだろう
から、大ざっぱに見積もって3年。
周囲やネットで絶賛されるまでに、さらに2年。
プロになりたいのなら、それから積み上げ3年。
私は時間の概念のない世界で、どのレベルに到達しているのだろう。
「私は、まだまだアマチュアなんですよね……」
痛い肩を落とすと、
「だからこそ、やるしかないだろう。紅茶を捨てられないのなら」
時計屋さんは立ち上がり、そう言う。
「それにここには、時間があふれている。おまえを置いていったりしない。
おまえの重ねるつたない努力を、見守ってくれるさ」
そう言って、優しく頭を撫でる。まるでエースを撫でるみたいに優しく。
「時計屋さん……」
「目標を定めているのなら、迷うな。
難しいことは淹れてから考えればいい」
「……はい」
少しだけ視界が明るくなる。
この世界の時計は時計屋さんにしか直せない。
時計屋さんはきっと、嫌なときも、やりたくないときも必死に時計を直し、
ここまでになったんだろう。
カップを片付けながら、時計屋さんはぶっきらぼうに、
「……職人同士だ。また何かあれば、相談に乗ってやってもいい」
「!!」
『職人同士』。その一言で、何より勇気が湧いてきた。
「はい!頑張ります!」
先を見ても上を見上げてもキリがない。今できることをしよう!
単純な私は、さっさとその気になり、立ち上がった。
「最高の紅茶を淹れたら、時計屋さんにもごちそうしますね!」
「い、いや、私は珈琲の方が……」
最後まで聞かず、時計屋さんの部屋を飛び出す。
目指すは自分の部屋。
好きでも嫌いでも、一流になりたいんだから、やるしかない。
そう思うと、少しずつブレンドのアイデアが浮かんできた。
「ナノ、嬉しそうね、どうしたの?」
「紅茶です!紅茶を淹れるんです!」
「はは。怪我してるのに?本当に紅茶が好きだよな」
苦笑する職員さんたちに笑顔をふりまき、私は部屋まで一心に走って行った。


×時間帯後。
カフェイン中毒で倒れている余所者を、ジェリコ館長が保護したそうな。
厨房の人たちは再び、小柄な紅茶泥棒に怯える時間帯を送るようになったとか何とか。

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