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■刻まれた切り札・上

帽子屋屋敷のボスの要求はこうだ。
従え。帽子屋屋敷に移れ。

別に『私』自身を望まれているわけではない。
彼が欲しいのは私の『紅茶の腕』だ。
なぜならダイヤの国は抗争が多く、紅茶が不足しているから。
従うのは悔しい。けど、このままじゃ私自身が危険だ。
墓守領への信頼も、情けないことに最近は揺らぎつつある。
それに監禁される前は、楽しいことの方が多かった。
紅茶を淹れるだけで褒めてもらえたし、皆とも打ち解けてきた。
このまま帽子屋領に移るのも、思うよりは悪くないかもしれない。

――でも……。

『ナノ』

…………

鉄格子の窓の向こうから月明かりがさす。
「答えを聞こうか」
いつものようにブラッドは、私の元に『説得』に来た。
見張りの人はいない。でも、そんな配慮もいつまで続くだろうか。
ベッドに座る私は、顔を上げて言った。
「あなたに従うことは、難しいと思います」
ブラッドは私を見下ろしている。身体が震える。
「それでは、どんな拷問がお好みか伺おうか。
エリオットをこの部屋に呼び、好きにさせるのはどうだ?
奴は君がお気に入りだ。さぞ可愛がってくれることだろうな」
どういう意味だろう。どちらの意味にしろ、歓迎したくない提案だ。
でも引くわけにはいかない。
私には切り札がある。
「そうじゃなくて、強制されても困るんですよ」
「何?」
「私、落ち込むと紅茶の味が落ちるんです」
……切り札というには情けなさすぎるカードだけど。

ブラッドが眉をひそめる。
「紅茶を淹れる手順に複雑な物はない。それが落ちると?」
「ええ」
自分でも首をひねる。ダイヤの国に来てから、そういう状況に陥った
ことは一度もない。けど、どうなるかだけはスラスラと説明出来た。
「まず美味しい紅茶を淹れようっていう気力がなくなって、味が画一的に
なったり、逆に変な味の紅茶を淹れたりします。
そのうち手順そのものが、頭からスッポ抜けて、淹れられなくなるんです」
「呆れたな。気が向かなければ淹れられないと?
嘘では無いとすれば、完全に天才気取りだ」
「違います!本当に味が落ちるんだから、仕方ないですよ」
「違わないだろう。自身で意識していないだけ、タチが悪いな」
「そうじゃなくて……とにかく!脅されたって紅茶が不味くなるだけです」
何で分かってくれないんだろう。
『君は最高の紅茶を淹れるが、欠点が一つある。
出来が精神状態に大きく左右されることだ』
……あれ?今の言葉、誰が言ったんだっけ?まあいいか。
とにかく、ご自分が世界の中心と思っているボスだって、人の心までは
自由に出来ない。無理強いされたって、私にもどうにも出来ないことが、
ボスに何とか出来るとは思えない。
そしてブラッドは静かに、
「君を一流の職人と思ったことは、誤りだったようだな。
三流ではないにせよ、かろうじて二流というところか」
「……そうですか」
悔しい、という気持ちがどこかにある。
でも今はそういう場合じゃ無い。
「一流の職人は、どんな条件下であろうとも最高の作品を作る。
君が二流に留まる理由があるすれば、あれがダメ、これがダメだと言い訳をして
逃避しているからだろうな。それで美味い紅茶が出来るはずがない」
「に、逃げてなんか……!」
反論しかけ、言葉を止める。
私の額には、いつの間にか銃口が突きつけられていた。
「…………」
「撃てないと思うか?虜囚の立場もわきまえず、マフィアのボスに『嫌な
ものは嫌だ』と、我を通そうとした君を」
……気分が乗らないから、紅茶を淹れられないと言ったこと。
私には単なる事実だけど、ボスはかなり心情を害されたらしい。

「覚えておきなさい、ナノ。前の飼い主と私の違いは優先順位だ」

「か、飼い主……?」
――なななな何なんですか。
ちょっとアレな人だとは思ってたけど、そっち系の趣味があるんですか!
そういえばエリオットも犬とか自称してるし……。
「あ、あのそういう倒錯的なプレイは、出来れば同じご趣味の女性と……」
言い終える前に、耳元を何かがかすめた。
「……っ!」
耳がキーンとして、声も無く悲鳴を上げ、混乱と恐怖で耳を押さえた。
どうやら耳元で撃たれたらしい。数秒遅れて激しい震えがやってくる。
「ナノ」
「……っ!!」
かろうじて無事な逆側の耳が、ノイズまじりに音をとらえた。
「前の飼い主は『君自身』が第一で、『紅茶の才能』は付属品だったのだろう。
だが私は逆だ。私は『紅茶』を求めている。『君の身体』の方が付属物だ」
飼い主だの付属品だの……ここは笑うべき箇所な気がする。
いや笑い飛ばさせてほしい。
でも実際に耳元で撃たれ、身体を危険にさらされては、笑うに笑えない。
目の前の人は狂っている。マッド・ハッターの名そのままに。
「君の下らない意思や心情など、私にはどうでもいい。
対等に扱ってもらえる機会を逃したのは君自身だ」
氷のように冷たく言う。
「これからは帽子屋屋敷に従い、意に染まぬ状況であろうとも、常に最高の
紅茶を淹れろ。これは命令だ。逆らえば――」
最悪だ。腕と目、舌、鼻以外、どこを撃たれるか分からない。
危険だ。身体の全てが危険を訴える。
「でも……でも……」
もう土下座でも何でもして従わないと。本当に何をされるか分からない。

『ナノ』

――でも……。

妥協しようとすると、あの声が邪魔をする。
いつだって。どんなときでも。
あの声が誰のものなのか。ときおり頭をかすめる背中が誰なのか。
分かっている気がするのに、どうしても思い出せない。
「…………っ」
涙がこぼれる。何が悲しいのかも分からない。
うつむきたいのに、顎に手をかけられ、上を向かされる。
「前の飼い主への忠誠心は、そこまで強いか?」
ブラッドの声は哀れんでいるようでもあった。
彼が何を言っているのかサッパリ分からない。
でも聞いてもきっと答えは無い。
なぜかそんな気がした。

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