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■時計屋さんと珈琲嫌い・下

そして時計屋さんの部屋から戻って数時間帯後。
時間帯は夜になっていた。
私の部屋の扉が音を立てて開かれ、ジェリコさんの声が響く。
「ナノ!またおまえは!部屋に引きこもって紅茶ばっかり……」
最初大きかった声は、徐々に尻すぼみになる。
私が紅茶を淹れていなかったためだろう。
あと灯りもつけずベッドで横になっていたし。
ちょっと沈黙があった。
ジェリコさんが軽く指を鳴らす音がして、どういう原理なのか部屋の灯りがついた。
そしてこちらに歩いてくる音がして、
「どうしたんだ?ナノ」
低い声だ。怒ってないけど、明るいわけでもない。
「どうしたんだって……ジェリコさんこそ、どうされたんですか?」
寝返りをうつと、大きな身体をかがませたジェリコさんが見える。館長服姿だ。
彼は私と目が合うと、なぜか心配そうな顔になる。
「一緒に飯を食う約束だっただろう?」
「あ……」
そうでした。エースの誤解を解いたとき、報告も兼ねて、後で夕食をご一緒する
お約束だった。私もお仕事を始めたばかり。気にかけていただいてるんだろう。
「うーん……ちょっと食欲がないので、またの機会に」
「馬鹿を言うな。仕事から上がって、まだ何も食ってないだろ。ほら、行くぞ」
うう。相変わらず、人の事情を把握しておられる人です。
けど腕を引っ張られても、私はやる気無くジェリコさんを見上げる。
「今晩は、お部屋のキッチンで作りますよ。どうぞお構いなく」
「……おまえ、作れるのか?」
疑わしげな声に、聡明な私はしばし考え、
「人間、水と砂糖だけでも長期間生存が出来るんです」
キリッと親指を立てる。ジェリコさんはハーッと息を吐いて、
「馬鹿を言ってるんじゃない。ほら、行くぞ」
うう。体力差。引っ張られ、ベッドから無理矢理出された。
ずるずると部屋の出口に引きずられていく。
「ジェリコさん〜」
「ハンバーグでもオムライスでも、何でもおごってやるから、な?」
「子供扱いしないでくださいよ!ちゃんと作れるんですって!」
心外な、と声を荒げるとジェリコさんは面白そうに、
「ふうん?何の料理が得意だ?言っておくが飲料関係以外だぞ?」
「任せてください!フライパン料理が得意です!!」
「へえ?目玉焼きでも作るのか?」
「いえ、フライパンを溶融するのが――」
「そうかそうか。良い子だから行くぞ」
「いーやー!」
ずるずると引きずられていった。冗談だってば。

…………

部屋に入ると、ジェリコさんはちょっと疲れた顔で、まず私をソファに座らせた。
「ゆっくりしていってくれ」
「はあ、どうも。で、ここは……?」
ジェリコさんもすぐ隣に座った。ソファが軽く沈むのを感じる。
「俺の部屋だ。ここならいいだろう?」
「ど、どうも……」
部屋と言うことは、墓守領領主殿の執務室か!
……私があんまり嫌がったせいかもしれない。
ジェリコさんは、私を食堂ではなく、ご自分の執務室に連れてきたのだ。
「食事を運ばせる。俺の目を盗んで、出て行こうとするなよ?」
「……はい」
降参して、ソファに身を預ける。そして、珍しさもあって、執務室を観察する。
主のセンスを感じられる、気持ちの良い部屋だ。
本棚を埋め尽くす書籍類。机の上の書類は整えられ、領主の決裁を待つばかり。
――うーん。この部屋は『初めて』ですね。
……て、『初めて』って何ですか。当たり前だ。やっぱり疲れてるのかな。
「お、来た来た」
ジェリコさんの声で我に返る。部下の人たちが料理を運んできたみたいだ。
私も気を取り直して、食べることにした。

…………

私はフォークを皿に置く。
「ふう。ごちそうさまでした。もうお腹いっぱいです」
「ナノ。まだ全然食べていないだろう」
ジェリコさんの声がした。
うう。あちらは順調に、山盛りの皿を片付けている。
でもこちらは、どうにか最初の皿の三分の一をお腹に入れた程度。
「もう食べられないですよ。ごちそうさまです」
「ナノ」
真面目な声がする。見るとジェリコさんもフォークを置き、じっと私を見ていた。
眼鏡の奥のまなざしは、全てを見通すかのように深い。
「ジェリコさん」
「ナノ。ユリウスのところで何かあったのか?」
「え?時計屋さんのところ?」
何だっていきなりそんなことを。私は目を丸くしてジェリコさんを見る。
「何かあったって……時計屋さんのところではエースのことを説明して……」
普通に帰ってきたけど。
「そうか。本当はエースに何かされていて、恥ずかしくて黙っている……とかいう
ことでもないんだな?」
「当たり前ですよ!」
「まあ、そうだよな」
でもジェリコさんはそう言ったきり、黙る。
「あ、あの……ジェリコさん?」
沈黙が長いので、心配になってきた。
けど、顔を上げたジェリコさんは私に笑いかけ
「いや、気にするな。食べられないなら仕方ない。食後の珈琲でも飲めよ」
と、私に珈琲を勧めてきた。ふう。食べなくていいのは助かる。
「ジェリコさん、本当に美味しかったです。今度、市場でいい卵が入りましたら、
お礼にニトログリセリンを作ってごちそうしますね!」
「領主命令だ。おまえは料理禁止な」
「ええー!?」
ショックを受けつつ、私は珈琲を取りかけ……お冷やの方に手を伸ばした。
「ん?飲まないのか?うちの料理人の珈琲は、評判なんだぞ?」
カップに口をつけ、ジェリコさんは言った。私はお冷やを飲みながら、
「珈琲はダメなんですよ。淹れるのも飲むのも。匂いも無理です」
キッパリと言う。ジェリコさんは呆れたように、
「骨の髄まで紅茶に身を捧げてるってわけか」
「当然です」
「ナノー。ちょっとだけでも飲んでみろよ。人生が変わるぜ?」
「絶対飲まないですよ」
面白がって勧めてくるジェリコさんに首を振り、水を飲もうとした。
そのとき、透明な水面に私の顔が映る。

そしてさっきから、妙に心配されていた理由が分かった。

私は、今にも泣き出しそうな顔をしていた。

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