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■帽子屋・1

「ブラッド……」
ソファの上の私は低い声で言う。ブラッドの部屋から出られません。
「もう逃げないですよ。外くらい出してください」
書類仕事をしていたマフィアのボスは、冷たい目で私をにらむ。
「こればかりは君に非があると思うがね。監獄上がりで疲れているだろうと、特に
見張りもつけずに休ませておいたら、目を離した隙に猫と浮気とは」
「ち、違いますよ!あれは……」
「あれは?」
「ええと……」
言葉を切る。ボリスに強要されたような言い方をすれば、不機嫌の矛先は間違い無く
チェシャ猫に向く。
ボリスは双子と仲がいいらしいし、私のせいで友情が決裂するのは申し訳ない。
「あれは?何かな?」
「すいません、本当にすいません。もう浮気しません」
ソファの上で土下座。プライドって紅茶の名前ですか?
「そうであってほしいものだな」
ブラッドはフンっと、書類仕事に戻る。
残されたのはマヌケに土下座するわたくし。何か悲しい。

……それでまあ、虚しいので劣等感を払拭すべく、勉強することにした。
でもとにかく苦戦していた。ブツブツ言いながら『さんすうドリル』と戦う。
「ええと32+71−99が……」
32+71はもちろん103。
そこから99引くと面倒だから99=100−1で考える。
「となると103+100−1だから202。これは簡単ですね」
私は解答欄に『202』と書く。
「次はうう……積算だ。でも一桁なら。4+4×3−7。
8×3は24で、24−7だから……答えは17ですね」
「ナノ、指を折って数えるのは止めなさい。それと漏れ聞いた解答を聞く限り正答
とは思えない呟きが数多く混ざっているようだが」
ブラッドは書類仕事から顔を上げた。
「だ、だって数のことを考えると頭がぼんやりしちゃって……」
「君が考えるのが苦手な女だということは、男関係を見ていれば分かる」
「…………」
この人とは、いつかサシで決着をつけねばと思うことがある。
ブラッドは椅子から立ち上がると、つかつかと私のところまで歩き、大事なドリルを
取り上げた。
「ちょっとブラッドっ!!」
「罪悪感から解放された君が方向に迷い、時計屋への依存度を強めるだろうことは
事前に予測していたが……いざ実行されると不快なものだな」
人を迷子騎士みたいに言わないでほしい。
ブラッドがドリルを破くのではないかと気が気でなく、私はソファから立ち上がる。
「あ……」
ブラッドがテーブルにドリルを放り投げる。
それを取ろうと伸ばした手をブラッドにつかまれて、
「――っ!!」
視界が宙を周り……ソファに叩きつけられた。
起き上がるより早くブラッドがのしかかってくる。
声を出そうとしたけれど片手で喉を押さえられた。
「……っ!……!」
力の加減で、窒息はしないけれど呼吸が楽なわけでもなく。
何とかブラッドの手を離そうとするけれど、マフィアのボスの手は微動だにしない。
そして殺意さえこもる目で私を睨みつけた。

「従えナノ。愚かだろうと男を変えようと紅茶の腕が衰えようと、私は変わらず
君を飼って愛玩してやる。
だが私の寛大さにつけこみ、男を渡り歩く行為は、断じて許さない」
反論したい、反論したい。というか、あなたのどこが寛大か。心狭いですよ。
でも私は彼の怒りにすっかり怖じ気づいて声が出ない。
けれど呼吸が危ういと思ったのか、マフィアのボスはようやく手を離してくれた。
私は激しく咳き込みながら、罵倒の言葉を連呼しようとした。
けれどその前にブラッドが私の襟元に手をかけ……下まで一気に引き裂いた。
「……っ!」
久しぶりにされた乱暴な行為に一瞬言葉がつまる。
身体を押さえつけられ、身動きが取れない。
「ブラッド……」
「さて、紅茶は味が落ちたが身体はどうだ?教えてくれ」
「……っ!」
答えるより早く、強引にキスをされ。彼の手が身体を這い回る。

いつもより痛みを伴う行為と、傷つける言葉に耐えながら、私は嵐が過ぎ去るのを
じっと待った。そして喘ぎ、乱れながら、ひたすらに思う。
やっぱりマフィアなんて最低だ。彼の物だけには絶対にならない。

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